◎震災を語り継ぐ 音楽演奏と交流講演会
震災10周年の慰霊事業プログラムの音楽演奏と交流講演会が、慰霊祭に続いて百年記念館六甲ホールで午後1時40分から行われた。混声合唱団アポロン他の演奏のあと、震災を体験した人や、遺族の講演へと続いた。【1月17日 神戸大NEWS NET=UNN】
●亡くなった人たちへの鎮魂を
「神戸大学阪神・淡路大震災10周年事業委員会」の北村新三委員長のあいさつのあと、混声合唱団アポロン、交響楽団、混声合唱団エルデ、マンドリンクラブの4つの課外活動団体による鎮魂のための音楽演奏および歌唱が行われた。いずれの団体も普段の練習の成果が見られる美しいメロディを送り、訪れた人々を感動させていた。
演奏会では、遺族も学生の演奏に耳を傾けた。
中学、高校、大学と吹奏楽部に所属し、チューバやユーフォニウム、バスクラリネットといった低音の楽器を演奏していた工藤純さん(当時法・M1)の母・延子さんは「『低音の楽器の数で演奏の深みが違う』と話していた息子のことを思い出しました」。
また、「学生さんをみると、息子に似た顔の人がいないか探してしまうんです」と口を揃えたのは戸梶道夫さん(当時営・2年)の母・栄子さんと、藤原信宏さん(当時営・4年)の母・美佐子さん。
●命の大切さ、生きることの大切さを伝える
休憩をはさんだあと、交流講演会「震災を語り継ぐ」が行われた。
まず最初に、神戸大生が被災した西尾荘のある六甲町に在住で、救援や町の復興に携わった神谷正弘さんが壇上に。震災当時、六甲町に住んでいたという神谷さんは自身の体験に合わせて神戸大生が救助活動に活躍したことを紹介した。六甲町は神戸大生3人が犠牲となった西尾荘のある地区。神谷さんは震災に遭い、自宅から出た直後に西尾荘で被災した神戸大生に会った。「なぜか深刻そうな顔をしていた」という学生に理由を尋ねると「西尾荘で3人は救助できたけど、3人は救助できなかったんです」と答えたという。
その後、学生たちは着の身着のまま神谷さんとともに近所の人が行っていた救助活動に参加した。「学生さんたちの活躍はすばらしいものだった」と神谷さん。神戸大に知らせようかとも思ったともいうが、神戸大も被災直後で混乱の極致。タイミングが悪いと考えた神谷さんは、今回の講演会のコーディネーターでもある岩崎教授と親しくなった時に初めて伝えたのだという。
この他、震災4日後に雨の中、牛乳を配って歩いていた家族、避難所に進んで手伝いをしにやってきた子供たち、震災をきっかけに生まれた神戸大学総合ボランティアセンターの活動などに触れ、「緊急時には、やはり個人が何をするかが重要。若い人、特に学生さんたちが力を尽くせるのはすごいことだ」と話した。
続いて、亡くなった経済学部生の故・白木健介さんの父、白木利周さんが講演した。「長男は即死で、このことで沈んでいました。しかし、周りの人々から思いやりを受け、少しずつ心を許していきました」。
白木さんは慰霊碑のある地を示した地図の作成や、「1.17希望の灯り」の活動にも参加している。「同じ苦しみや悲しみを知った人が話すことで理解が得られると思います。震災のことが風化していかないように、次の世代、さらに次の世代に命の大切さ、生きることの大切さを伝える使命がある」という。
また、「生き残ったと思わない。こう考えると片意地を張ってしんどくなってしまう。だから生かされると思えばいい。これは受け身な考えで、自分のできることしかやらなくてすむから、安心できる」という言葉が印象に残った。
白木利周さんの講演には工藤さん、戸梶さん、藤原さんも「知っている方だし、しっかり聞かないと」と耳を傾けた。講演後には「すごく落ちついて話してらっしゃいましたね」(戸梶さん)、「震災の最初から順番に話してらして、分かりやすかったです」(藤原さん)と感想を話した。
●大学側と学生はその当時…
3人目は農学部の避難所の運営を支援した村上周一郎農学部助教授。「自分の受け持つ生徒たちの安否はすぐに分かり、全員無事でした。食料を持ち寄って、合宿みたいな気分で乗り切ろうとしたのですが、18日には下の小学校に1000人くらいの人々が避難するような状況になっていた。こうなると食料がなく持ちこたえられるかわからないため、苦渋の決断ではあったが学生を一時帰宅させることが決まった。19日朝から炊き出しで作られた握り飯を持たされた学生たちが、電車が動く西宮北口まで歩いて向かっていった」と当時の対応を話す。なお、20日には大学本部に食料が集まり、これで避難してきた人々への支給は可能になった。そして21日には夜間宿直などのサポートの体制ができたのだった。
村上さんはポイントとして食料の確保を話す。「食料の安定した確保があれば最低限対応できるのに、これがいかに難しいのか痛感した。あの時は、対応する力がなかったために学生を帰すしかなかった。2日目に食料が用意できたらそんなことはなく、大学の復旧も早かったはず」。
最後に、当時法学部3年生で、震災時救援活動を行い、これを機に「神戸大学総合ボランティアセンター」創設に参加した稲村和美さんが、当時の活動の様子を語る。「震災から数日後、東灘区の小学校で泊り込みのボランティアを行っていた。物資や掃除のことを話し合い、避難所で何の仕事ができるのかを見つけて活動していると、普段は無気力かもしれない学生にはこんな力が眠っていたのだな、と感じた。そして私自身は被災しなかったが、ここで多くの人々と会い、多くのことを学んだ。」
講演の中で「『神戸大学総合ボランティアセンター』を創ったのは、このような救援活動を地元の学生で被災地のニーズにこ応えつつ継続することと、震災に限定されず元からあった問題にあたる拠点を、と考えたため」と「神戸大学総合ボランティアセンター」創設の経緯も語った。稲村さんは現在市民活動へ向かい、兵庫県議会委員となっている。
10周年事業の副委員長の岩崎信彦文学部教授は「震災は10周年ではすまない。次の10周年をどうするのか考えなければならない。ただ、10周年を迎えた今日は、様々なシンポジウムや今日の慰霊祭などを行ってきて成果が見られると思う。特に経営学部の学生が1つ1つ名前を書いた折り鶴を心をこめて作り、遺族の方々に渡していたことに感動しました。また、音楽の演奏も素晴らしかったです」と語った。(記者=田中義久、中島仁志)
◎現役学生から気持ちを 慰霊祭後の懇談会

神戸大六甲台キャンパスでは、慰霊祭後に懇談会が開かれた。懇談会では、4人の遺族が子どもとの思い出や子どもへの思いを挨拶で話した。その後、的場尚歩さん(経営・3年)を代表する現役の学生からの突然の折り鶴のプレゼントに遺族の人達は涙を流して「子どもの写真の前に飾ります」と喜んだ。【1月17日 神戸大学NEWS NET=UNN】
故・高見秀樹さん(当時経済・3年)の父、高見俊雄さんは震災当時、秀樹さんに恥じないように、という思いで頑張り、定年を迎え第2の人生を歩んでいる今も社会に貢献する活動をしている、と挨拶した。

故・工藤純さん(当時法・院1年)の母、延子さんは挨拶で、「子どもたちはみんな頑張っていて、この10年もみんないろいろだったと思います。でも、子どもはたくさんある選択肢の中から神戸大を選んで神戸大に誇りを持っていました。私たちは神戸大生の親として誇りを持っていました。これを傷つけてはいけないと思います」と挨拶した。

故・神徳史朗さん(当時工・3年)の父、逸郎さんは、震災当時友達が史朗さんを見つけてくれた時のことを話した後、「史朗の友達は、今でも3年おきに自宅のある長崎まできてくれます。今日も史朗の遺稿が神戸のアートビレッジセンターで上演されるんですよ。本当に良い友達をもちました」と話した。そして、長崎の原爆投下が風化されてしまったという例を出して「(阪神淡路大震災を)風化させないで下さい。今日はこれを伝えるためにこの場に立ちました」と強い思いを話した。
故・今英人さん(当時自然化学研究科博士前期課程・1年)の父・英男さんは、「この10年が短かったのはみんな同じ気持ちだと思う」と10年の思いを話した後、「若い人には、社会のために生きてほしい」と挨拶した。
遺族のスピーチの後、現役学生の的場さんが遺族の方へ亡くなった学生の名前を刻んだ44束の折り鶴を贈呈した。プログラムにはなかったが的場さんが慰霊碑の捧げた折り鶴を見たある遺族の方が、「ぜひみんなに配りたい」と提案。大学側に掛け合った結果、急遽懇親会の挨拶の最後で遺族への贈呈式が実現した。
的場さんが「厚かましいかも知れませんが、神戸大の現役の学生からの遺族の方へこれを…」と挨拶を始めると、会場では啜り泣きが聞こえ、これまで気丈に挨拶文を読み上げていた野上学長も眼鏡を外し、目をハンカチで押さえた。
折り鶴は的場さんの親しい友人数名で「10年の区切り」になればとの思いで作り上げた。これは的場さんが昨年春から白木利周さん(故・白木健介さんの父)との交流の中で「17日に折り鶴を飾りたいなあ」とぽつりと白木さんが話したことから思い付いたという。折り鶴を受け取った白木さんは「遺族はこういう気持ちが一番うれしいんだよ」と話した。
◎慰霊碑に遺影捧げる 中国人留学生遺族
今月15日に阪神・淡路大震災で亡くなった中国人留学生・就
学生の遺族が来日し、17日の神戸大慰霊祭に参列。その後の懇
親会にも参加した。【1月17日神戸大NEWSNET=UNN】
神戸大を訪れた中国人留学生・就学生の遺族らは、初めて子
息らの通った大学をみて、カメラのシャッターを切ったり、ガイドの神戸大学の中国人留学生の説明に耳を傾けていた。
その後、慰霊祭が始まると神妙な面持ちで慰霊碑に目をやり、
日本人の遺族と共に黙祷をささげた。その後、遺族の列に混ざ
って碑に花束を捧げた。呉ショウさん(営・2年)の両親、呉
定安(父)、陳笑歓(母)は呉さんの名前が刻まれたプレー
トに花束と手紙と遺影を置いて、涙を流しながら手を合わせて
いた。
懇親会に参加後、大学を出発し、長田区の中国人墓地
、慰霊碑を訪ねた。(記者=吉永智哉)
◎神戸大の責務果たす 学長が慰霊祭で挨拶
阪神・淡路大震災10周年慰霊祭が1月17日、午前11時45分頃から神戸大六甲台慰霊碑前で行なわれた。会場には、昨年よりも多くの遺族や大学関係者らが訪れ、黙祷や献花が行なわれた。野上学長が「神戸大としての責務を果たす」と述べた挨拶では、涙を流す人も見られた。【1月17日 神戸大学NEWS NET=UNN】
学長は式典を終えて、「10年目を迎えて改めて神戸大としての責務を強く感じました。先輩達の句らしさをキャッチアップし、彼らの分も新しい時代を開けるように。そのために良い大学を作ろう」と感想を話した。
10年目を迎える今年の1月17日は、例年よりも多くの人たちが慰霊碑を訪れた。
当時入試課の職員だったという男性(60)
午前8時半頃、慰霊碑を訪れ「10年ぶりに訪れました。自分にとって節目の年ですし、次の10年わかりませんから。とりあえず、10年間生きましたって感じですかね」と感想を述べた。(記者=吉永智哉)
故・神徳史朗さん(当時工・3年)の同級生・湯本圭輔さん(33)
午前9時頃、慰霊碑を訪れ「午後からの(神徳さんのシナリオ)演劇をみにきました」「キャンパスが移り変わるのをみると特に10年を感じますね」とコメントした。(記者=吉永智哉)
故・廣瀬由香さん(当時法・4年、24才)の母・廣瀬政子さん
毎年、慰霊碑、芦屋の自宅があった場所、東遊園地の順に回っていたが、今年は慰霊祭に合わせて最後に、花束を持って慰霊碑を訪れた。
10年経ったが「あっという間、実感はない。1年目も10年目も気持ちは同じ。信じられないというのがまだある。でも、流れの中で生きていくしかないという気持ちも生まれた。元気を出して明るく生きていくしかないと思っている」
「私は皆と話すことで、自分を取り戻そうとしてきた。だれかが語り継がないと(娘の死が)無駄になる」という思いから積極的に他の遺族の方とも話をする。
「自分が動ける間はここに足を運びたい。いずれは孫も一緒に」(記者=椿一臣)
故・長尾信二さん(当時工・2年、20才)の親戚・釜野文男さん、多美子さん
文男さんは震災当時、信二さんの遺体を地元の高松まで連れて返った。高松から神戸まで車で約20時間かかったという。「ニュースなどでは震災から10年ということが多く言われるが、昨日のことのように思える。10年経ったが、10年経っていない」と話す。
「信ちゃんの名前はもう神戸大の慰霊碑にしか残っていない。これが信ちゃんが生きていた証のように思える」と多美子さんは慰霊碑への強い思いを話した。(記者=武井礼美)
故・藤原信宏さん(当時経営・4年、22才)の母・藤原美佐子さん
朝は東遊園地を訪れられてから慰霊祭に参加したという。「1年に一度しか会わないけど、遺族の方々のつながりがあるのがうれしい」。10年を迎えて「彼らの思いを遺族とかこうやって会う学生さんとかみんなで分かち合えるのが幸い」。「公認会計士目指して勉強ばっかしていた息子だった」「それが無念で無念で。もうちょっと遊んでくれたらよかったのかねえ」(記者=吉永智哉)
故・稲井健太郎さん(当時医・4年、22才)が主将を務めた医学部合気道部の後輩の子連れの女性2人
稲生さんが4年の時1年だった。赤ちゃんをベビーカーで連れた女性は、「いい先輩で可愛がって下さったし」と10年目の今年、初めて1月17日慰霊碑を訪れた。「今でも生きてはる気がする。10年あっという間だった」と話す。キャンパスで場所を聞いても「わかりません」との答えが多く「さみしいねえ」と話していた。しかし、多数の花束の供えられた慰霊碑を見て、「来て良かったね。来年も来ようね」と2人で約束していた。(記者=吉永智哉)
故・白木健介さん(当時経済夜・2年、21才)の父・白木利周さん
神戸大慰霊碑前での震災語り継ぎ調査会による竹灯籠灯しが今年も行なわれたと聞いて「学生の方が忘れず覚えてくれているというのはうれしい」と話した。(記者=吉永智哉)
故・林宏典さん(当時=経済・2年、21才)の友人・瀧口一宗さん(経営・1997年卒)
林さんとは大学生協でのバイト仲間だった。例年は夜中に大学慰霊碑を訪れるが、「今年は仕事を休んで昼間に来ました。会いたい人がいたので」。
瀧口さんが再会を果たしたのは林さんの両親。10年前の震災後、瀧口さんは初めて林さんの実家を訪ね、バイト仲間たちとともに笑顔で写った宏典さんの写真を両親に渡した。「あの時は僕の方が動揺しちゃってて。ご両親は逆に励ましてくださいました」。今日、10年ぶりの挨拶を交わした。
「大学の風景も変わったし、それだけの時間が経ったのですね。でも、今の学生にもずっと忘れないでほしいな」。帰り際、乾杯用の缶ビールを慰霊碑にささげた。(記者=岩崎昂志)
神戸大の学生
神戸育ちという男子1回生。慰霊碑の前で堅く手をあわせ、「地元やし、絶対に忘れたらあかんと思ってきました」と話してくれた。
東北生まれという男子1回生。「全然神戸と関係ないけれど、10年の区切りに訪れたかった」。
経済学部3年の男子学生
大学の講義が終わる時間帯、慰霊碑の前に立ち寄って手を合わせる学生がいた。「(慰霊碑を)普段は意識しないけど、今日は特別なので」。
95年の震災当時は埼玉県の小学生。神戸の大学生となり、この日は夕方から三宮で開かれる震災追悼イベントのボランティアをしに行くところだという。「10年前は何もしなかったので。神戸に来たら震災のこと、何かしたいと思っていた」。(記者=岩崎昂志)
◎周囲の人に感謝 上野志乃さんの父
故・上野志乃さん(当時発達・2年)の父、政志さんが1月17日午前5時46分、志乃さんが亡くなったニュー六甲ビラの跡地横にある「箱」と呼ばれる慰霊碑の前で、静かに手を組み黙祷した。黙祷の後、政志さんは、毎回「箱」を訪れた時に記すノートに「みんなが会いにきてくれて嬉しいやろ。周りの気持ちや力はありがたいなぁ」と志乃さんへの思いを綴った。【1月17日 神戸大学NEWS NET=UNN】
当日雨が降りしきる中、政志さんが自宅近くの山で切ってきた竹で作られた竹筒に3つに火が灯された。準備を終えた後、政志さんはじっと箱を見つめ、下を向き、前で手を組み、時計が5時46分を示すのを待つ。寺院や教会の鐘の音が聞こえる中、政志さんは「箱」を覗き込んだり、供えられた花を直したりしながら何度も見つめた。
「箱」には同じ下宿で被災した学生の両親や友達からが花やケーキが供えられていた。政志さんは、今年も志乃さんがマンドリンクラブの冊子の表紙に描いた思い出の花「デンファレ」を持ってきた。
政志さんは、「今日は残念だと思う気持ちと、”箱”をおかさせてもらっているという感謝の気持ちです」と思いを話した。また、「9年も、8年も変わらないが、娘の場合は(レポートで10年後の設計図を書いていたので)思いが強いです」と思いを話した。(記者=杉浦加奈)
◎「10年あっという間だった」 高見さん追悼の会
震災で亡くなった故・高見秀樹さん(当時経済・3年)を追悼するための、献花や黙祷が1月17日、高見さんが亡くなった盛華園跡で行われた。高見さんの両親や当時高見さんが団長を務めていた応援団のOBらが参加した。
「10年間で初めて」という雨が降る中、参加者は午前5時半頃には全員、跡地の公園に集合。屋根がある休憩所の下で、身を寄せ合って、5時46分を待った。母親の初子さんは「その時(46分)だけやんでくれるかも」と呟いた。
40分頃に花束や果物、高見さんが好きだったという日本酒などを供え、一人ずつ、線香をあげていった。そして、5時46分に全員で黙祷を捧げた。その後、供えた日本酒を飲み、最後に父親の俊雄さんが「皆さんの助けがあってがんばれる。今後ともよろしくお願いします。今日はありがとうございました」と挨拶した。
初子さんは震災から10年が経ったことについて「あっという間だった。この10年、死んだら(息子に)会えるという気持ちから死は怖くなくなった。その一方で、残された者が頑張らなければ、と命の大切さを深く感じる」と思いを話した。
12月25日に応援団を引退した大間匡浩さん(法・4年)は「ラジオに出た時、高見さん(初子さん)の話を伺ってから、思うところがあって今回参加した。それ以来、震災の報道に敏感になった。震災を経験していない人にとっては、来なければ分からないこともある」と語った。
初子さんは最後に「10年間続けてくれたのがありがたい。体が元気なうちは続けていきたい」と話した。(記者=椿一臣)
◎震災から10年 慰霊碑前で黙祷
午前5時20分頃、六甲台キャンパス前庭の慰霊碑でろうそくが灯された。当初の予定通り、午前5時46分に聞き語り調査会のメンバーが黙祷。震災から10年目を迎えた。聞き語り調査会の森田安恒さんは活動に参加したことについて「数年前まで、震災のことは情報でしか知らなかったが、今回こういった取り組みに参加でき、たいへん良かったと思っている」とコメント。別のメンバーも「(火を)つけるときは風も強くてどうなるかと思ったが、結局30分以上ついていたのですごいもんだね」と感慨深げに話した。
また、盛華園アパートで亡くなり、当時応援団長だった高見秀樹さん(当時経済学部3年)の遺族と応援団OBが下宿近くの公園で集まり、黙祷を捧げた。【1月17日 神戸大学NEWS NET=UNN】
◎阪神大震災1.17の集い 10年目の祈り
「阪神淡路大震災1.17のつどい」が三宮・東遊園地で午前4時から行われている
。震災の起こった時間の午前5時46分には一斉に黙祷が行われ、震災で亡くなった
犠牲者を悼んだ。【1月17日 神戸大学NEWS NET=UNN】
早朝、会場にはおよそ千人が訪れ、雨足が時折強まる中、竹灯篭のロウソク「1.17
希望の灯り」への点灯や献花を行い、犠牲者の冥福を祈った。
運営には立命、関学、関大など、多くの学生ボランティアやOBたちが携わっている。「阪神淡路大震災犠牲者聞き語り調査」を実施している自然科学研究科の塩崎研究室では、毎年、修士1年の学生が総出で各地で開催される行事にボランティアとして参加する。清水崇史さん(自然院・M1)は、「震災当時は中学2年生で東大阪で震災を体験した。知り合いや家に被害はなく、聞き語りの調査に携わるまでは、震災に向き合ったことはなかった」。「被災体験も直接ないけど、十年目の今日に神戸で震災に深く関わっているとは、当時の自分からは思いもよらないでしょうね」と、東遊園地でボランティアとして募金や参加者の誘導にあたっていた。
また関学で1996年から始まった「白いリボン運動」は、2003年から六十余りのNPOやボランティア団体が協賛して行う運動に発展している。東遊園地でも募金活動や白いリボンの配布が行われている。関学OBの清田仁之さん(1997年・社会卒)は、上ヶ原で震災を体験して、倒壊した家や多くの学生が亡くなる現状を目の当たりにした。現在は障害者などを支援するNPOに勤務するが「震災が今の仕事のきっかけになっているのかもしれない」と話す。
今日、東遊園地では午後9時まで、「1.17希望の灯り」への点灯や、記帳、献
花を行うことができる。
◎予想外の雨 慰霊碑の灯り消える
日付が変わる頃から雨が降り始めた。17日午前5時現在、大学では雨風ともに激しくなり、六甲台キャンパスの慰霊碑では、ろうそくの灯りが消えている。慰霊碑を見守る震災聞き語り調査会は「(1月17日にこれほど強い雨が降るのは)10年間でおそらく初めて。ろうそくの芯が湿ったらもう火がつかない」と不安な様子だった。気象庁によると、17日の神戸は曇り後雨。【1月17日 神戸大学NEWS NET=UNN】
◎10年照らす灯りともる 神戸大慰霊碑
16日午後7時45分、神戸大慰霊碑(六甲台キャンパス前庭)の並べた竹灯篭(ろう)の中のろうそくに灯がともされた。【1月17日 神戸大学NEWS NET=UNN】
準備したのは震災聞き語り調査会の大学院生8人。震災犠牲者の鎮魂を願う神戸市中央区の「慰霊と復興のモニュメント」に灯されているガス灯「1・17希望の灯り」から火をもらい、点火するこの活動も今年で5回目を迎えた。午前5時46分まで火を灯す予定。メンバーは、風や雨でろうそくの火が消えないよう、交代で慰霊碑を一晩見守っている。深夜から雨風ともに強くなり、すべてのろうそくが消えてしまうこともしばしば。その度に種火からろうそくで火を移していた。メンバーの一人はは「5時46分の時点ですべてのろうそくに火を灯していたい」と話した。神戸大では44人の学生が亡くなっている(旧神戸商船大を含む)。
震災から10年
阪神・淡路大震災から10年が過ぎる。ニュースネットでは、学内の震災慰霊事業の模様を16日深夜から17日夕方まで随時ホームページにアップしていく。今年は震災で犠牲となった中国人留学生・就学生の遺族をはじめ、関係者の遺族や当時の大学教職員が慰霊事業に参加する予定。大学全体としても、各部局で17日正午に黙祷が行なわれる。企画部は「(震災から)10年という節目に、今まで以上に多くのご遺族、大学OB、職員らに参加していただければと思う。学生も慰霊に目を向けてほしい」という。【1月17日 神戸大学NEWS NET=UNN】
《1月18日 午後00:00 最終更新》
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