談話室(2018年)

 2018.02.08 大隅 孝二 「作詞家 谷川俊太郎展をみる」

本番が近づくと 改めてもう一度歌詞を読み直して 考える時間がくる
今がちょうどそのころである
 今年の第7回の定期演奏会には 谷川俊太郎作詞のうたが 3曲もある
その詩は平明でくっきりしている
使っている言葉自身に すでに 音が息づいている
歌えば楽しい
  われわれは 長く 同じ時代を 生きてきた
彼は 詩人 脚本家 翻訳家 絵本も書く
どれかではなく どれもやって 素のままの自分を 楽しんで生きている
その谷川俊太郎 ”展”があると 藤本さんに教えられて オペラシテイにいった
その印象の小さな報告である

”展“入ると  なに これ
そして あたりを見回す
”展“のイメージは たちまち こなごなに散って
ことば ひかり コピー 写真 音が ちぎれ飛んで
そして あちらからも こちらからも どっと返ってくる
こんな雰囲気は どうかな
こんなイメージは いかが
こんな音は どうかな
こんな色は いかが
それらの渦に 喜んで身をゆだねて
面白さ 楽しさ なつかしさに 夢中になる 漂っている
コアのところに タニカワ シュンタロウが いる
命尽きるまで いっしょうけんめい 遊ぼうとしている人が いる
どんな人たちと お互いに いっしょうけんめい 遊んできたか それもわかる

”展“には 1冊の詩集もなかったが
胸いっぱいに 思いを抱えて帰った

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 2017.12.31 團野 廣一 「男声合唱が愉しい」

私は、1993年に三菱重工から三菱総研に転出、2004年に同社を辞したが、その後も今日まで7件の社・財団法人、ベンチャー会社を手伝っていて結構多忙であったし、今も「忙しがり屋」を続けている。しかし、古希を迎えた時、時間に追われる生活の中でも少しはゆとりをもってQOLを保持したいと考えた。爾来3つの目標を定めて、今も私なりにそれらの目標に向けて努力している。 一つは劣化する頭を敢えて使うこと。リベラルアーツ研究会に入り、自由学習の結果を発表し合っている。その読書会ではアダム・スミスやマックス・ウェーバーの代表著作を読み直してきた。今は西洋法制史に取り組んでいる。 二つには衰えた身体をなるべく動かすこと。毎日2回のラジオ体操、一日7000歩の歩行、週一度の下手ゴルフのプレイを励行している。 そして最も力が入っているのが三つ目の男声合唱の練習である。 2002年に神戸大学グリークラブ同窓の10人余りではじめたが、15年続いた今では約40名が毎週火曜日に神田の教会に集まる。 昨年からは、ヴォイス・トレーナーとして東京芸大オペラ科修士課程修了のバリトン歌手伊藤純氏を迎えた。 また、合唱指導者としては、10年間指導願った仲子誠一氏(東京芸大ピアノ科卒)に代わって、同大声楽科卒で各地の合唱団・吹奏楽団・オーケストラを指導しながらソリスト(テノール)として活躍する竹内公一氏を招聘している。 合唱団員は70歳以上のシニア中心であり、合唱経験のない方々もいて、団全体としての歌唱力には限界がある。それでもPCで音源が送られるから各自が自宅で予習出来る。指導者宜しきを得て実力は少しずつ上がっているように思う。継続は力である。

毎回の練習は、まず10分のストレッチ体操、20分の発声練習・和声訓練から始まる。歌詞の発音とリズム読み、パート別譜読み(音程・テンポ・リズム・曲想)、全員合唱練習と進む。150分の練習である。今は来年の定演に向け人気作曲家・信長貴富の日本の歌とシューベルトのWINTERREISE(冬の旅)の男声合唱版他に取り組んでいる。昨年はケルビーニの男声レクイエムを演奏した。今年5月にはワグナーのタンホイザー他オペラ合唱曲4曲をオーケストラ伴奏で歌った。

私は月に3−4回は各種の演奏会に出かけるが、やはり人の声帯が最も優れた楽器であると思っている。音量・音質だけでなく歌詞で表現できるから感情移入も容易で歌い手と聴き手の共感も得やすい。兎に角、声楽曲が好きである。 さらに合唱曲となると和声によって幅の広さと迫力に訴える力がある。各人の声はデリケートに異なるがうまく合うと最高の空気を体感できる瞬間がある。 合唱は聴くのもよいが仲間と共に歌い合うとそれぞれの実力に応じてそれぞれが愉しむことができるのが良い。特に男声合唱は混声に比べて声が同質でハーモニーがとり易く感動できる。 最近発声練習の成果が出てきたのか、わが団の中でも「倍音」を聴けるようになった。例えば、ベース・パートが声をそろえて基本周波数C(ド)を発声すると、第5倍音のE(ミ)や第6倍音のG(ソ)がかすかに響く。このように各パートの声が一本にまとまった状態で4声部が合唱すると、音程の協和だけでなく自分の声が全体の音響に吸い込まれるような感覚になり無類の快さに浸ることができる。 わが国合唱界の神様と言われる田中信昭氏によると、「倍音から導き出された音律・純正律で音を合わせるとC(ド)=1を基準とする周波数比率が単純な整数の音程で重なるときに歪みや唸りのない美しいハーモニーを創ることができる」という。確かに、長三和音即ちドミソ・ファラド・ソシレの和音は、いずれも周波数比率が4:5:6である。

さて私の場合、中学・高校ではバレーボールの選手をしていたので、合唱には縁がなかったが、大学に進学してグリークラブに入部 闇雲にロシア民謡や黒人霊歌等男声合唱曲を歌いまくった。それでも4年間もやっていると楽典の基礎もわきまえて譜面は自由に読めるようになり、それなりに重厚なハーモニーも愉しめるようになった。 しかし、1956年三菱造船に就職すると、5年余り長崎造船所勤務中は長崎に男声合唱団もなく折角の愉しみを続けることはできなかった。 本社に転勤になっても数年間は三友合唱団(混声)には参加したが男声合唱には縁がなかった。 1966年から3年は海外勤務、帰国後も発電プラント輸出という海外出張が多い超多忙職場に配属され、その後の国際部・社長室勤務でも仕事に追われ、また三菱総研への転職もあって、結局、合唱活動なしの空白期間は35年余りにもなった。 ただ、その間も決して音楽への関心を失うことはなく、寸暇を惜しんで音を求め音を聴いてはいた。休日は、自宅でオーディオを鳴らし、演奏会にも足繁く出かけた。海外出張中も土曜・日曜が入ると、例えばニューヨークではカーネギーホールへ駆けつけブロードウェイの空席を探した。メキシコではマリアッチ広場へ毎夜のように通った。ブダベストでジプシー小屋へ迷い込んだこともあった。

2002年に、前述のとおり、漸く「東京六甲男声合唱団」を立ち上げ、長年待ち望んだ、仲間と共に愉しむ居場所が出来た。発足当時に比べると随分レベルが上がり、昨年からは、前述の様に、八面六臂の活躍中の立派な指導者二人を迎えて刻苦勉励に努めている。所詮は素人の趣味の域を出ないが、日々新たに学ぶところがありそれなりの達成感は得られる。アンサンブルが愉しめるのが嬉しい。

本稿を記述していて、何故自分がこんなに音楽好きになったのかを振り返ってみた。 一つは父親のDNA。父は若い頃オーケストラのメンバーであったらしい。大変な音好きで私の幼少の頃から電気蓄音器で毎晩レコードを聴いていた。 二つには小学校の担任教師が音楽の先生であったこと。当時の軍国少年教育では軍歌ばかりを歌っていたが、譜読みや調音等ソルフェージュを教えてくれた。 そして三つ目が大学のグリ―クラブで資質豊かな仲間たちに出合えたことである。これらの影響が私の音楽好きの後天形成となったのであろう。父親、小学校の先生、グリークラブの仲間達に感謝するばかりである。

受け売りであるが、孔子の言葉に「子曰く、詩に興り礼に立ち楽に成る」というのがあるという。言葉を習得し礼節を心得るだけでは人間は熟成しない、最後は 音楽である、というのである。十有五にして学に志し中国琴を奏し作詞作曲もした孔子は、人間の原点を踏まえれば最後は「楽に成る」と説いたのである。 男声合唱に興じていて「楽に成る」とは思えないが、数多くの演奏にも触れながら自分でも精一杯歌い続けて、晩年の豊かなQOLの一助としたいと思っている。

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 2016.12.07 飯怐@和憲 「英語でジョークの試み」

英国駐在の頃、いつも当惑したのが、英語のジョークがわからないことでした。パーティに出ていても、挨拶をする人がジョークを連発しているのに、さっぱりわからなくて、顔がひきつったような状態で、笑ったふりをすることしかできず、いつも悔しい思いをしていたものでした。
しかし、その後、ヨーロッパの友人の助けをかりて「研究」した結果、ついに英語のジョークにも言葉の「シャレ」を題材としたものがあることがわかり、それなら自分にもできる、と思いなおして、ジョークを言う機会を、ひそかに、いつもねらうようになりました。

その結果、努力の甲斐あって、やってみたら「これはうまくいった。」と思えるものが、わずかですがありました。
その中で、二つの例をご紹介したいと思います。

一つ目は、話題が古くて恐縮ですが、アメリカの大統領選挙にまつわるお話です。だいぶ昔のことですが、仕事でアメリカの国務省の課長とパリで食事中、その場面に巡り合いました。その課長が、「今度の共和党の大統領候補、副大統領候補は、それぞれブッシュとクウェイルだ。」と教えてくれました。
チャンス到来です。私は即座に「それは、非常に良い組み合わせだ。」と応じました。当然相手は、「なぜあなたはそう思うのですか。」と聞いてきます。そこで私がにっこりして、「だって、クウェイル(副大統領候補ご本人とスペルは違うが、クウェイルは英語で「うずら」のこと)は、いつもブッシュ(藪)の中にいるじゃないか。」と言ったら、予想以上に相手に受けたのです。
英語に関心があり、「うずら」を英語で何というか記憶していたことが、英語でジョークを放つ機会を与えてくれたのです。

次は、英国での勤務先でのことです。勤務していたある日本人が帰国するので開かれた送別会で、テーブルに並べられた、今まで見たことのない揚げ物が気になりました。そこで、近くにいた若い英国人女性に「これは、何ですか。」と聞いてみました。するとその女性が、「私たちが近くのギリシャ料理店で買ってきたものよ」と言います。私は、やや声を大きくして「They are all Greek to me.」と言ってみました。このとき、嬉しいことに、そばにいたある英国人男性から、「Well-done(お見事!).」とのお褒めの言葉がいただけたのでした。
では、なぜ、私の言った言葉がその英国人に受けたのでしょうか。
それを解くカギは、「Greek」という言葉にあります。「Greek」は、「ギリシャの」という意味のほかに、「チンプンカンプンだ」という意味があるからです。これは、アングロサクソンたちには、ギリシャ語は、「さっぱり意味のわからない」言葉だったからでしょう。高校の授業で習ったそんな「つまらない知識」が、思わぬところで役に立ったわけです。

このように英語でジョーク(シャレの形で)をいうためには、「ネタ」を沢山自分の頭の引き出しにためておき、すぐ取り出せるようにしておくことが、秘訣だと思っています。

私にとっての「ネタ」の例を一つ挙げますと、例えば「polish」という言葉に注目できます。この言葉は、「磨く」という意味と「ポーランドの」の二つの意味を持つので、いつか使えるチャンスが来るのではと、頭の中の手前の引き出しにしまっています。かつて、英語の達人である市河三喜先生が、この言葉を使って見事な英語のシャレを言われたと聞いたことがあります。しかしながら、凡人の私には、そのチャンスはまだ来ていません。

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 2016.07.27 兵藤 力一 「留学生に日本語を教えて」

 今私は週3〜4回日本語学校で留学生に日本語を教える仕事をしています。おなじみのない方が多いと思いますので、少しご紹介したいと思います。

 50歳代も半ばに差し掛かった頃、第二の人生をどのように送ろうか、具体的に考えるようになりました。できれば海外、それも途上国に何らかのかかわりのあることをしたいと思いましたが、事務屋の私には、技術系の方々のように、外国で技術指導をすることなどできません。そんなときに、日本語教授の仕事なら、海外に行っても国内に居てもできるのではないかと考えたのがきっかけです。

 日本語教師になるためには、次の3つの条件のうち、1つを満たすことが必要ということになっています。(あいまいな言い方をするのは、教員免許のようなものがなく、これにあてはまらない人も存在する余地があるからです。)
 @大学で日本語教育を主専攻または副専攻
 A大卒者が民間の日本語教師養成420時間講座を修了(内容は@に相当)
 B日本語教育能力検定試験に合格(学歴不問)
私の場合、AとBをクリアして一応有資格者になっています。

 日本語学校で授業を始めてみて「これはとても長い間続けられない」と思いました。教える内容が特別難しかったわけでも、学生諸君に反逆されたからでもありません。1コマ45分X4コマすなわちほぼ半日を、休憩時間以外立ちっぱなしで、結構動きもあって、しかも大きな声で話さなければならないため、腰は痛いわ、喉は嗄れそうになるわで、会社勤めのほうがよっぽど楽だ(?!)と思ったものでした。しかし、不思議なものでいつの間にかそれにも慣れるようになりました。

 とは言っても、授業だけすればいいというものではありません。宿題ほか学生の提出物のチェック、翌日以降の授業の準備、テストやプリント類の作成、学生の進路指導等、授業以外にやることはいくらでもあります。さらに時々実施される学校行事へも参加しなければなりません。いきおい「萬里」への参加も毎回というわけには行かず、「反省」不足の日も出てくることになります。

 さて、今日本には大学院・大学・専門学校・日本語学校等に約210千人の留学生がいます(平成27年5月現在)。このうち日本語学校にいる学生は約56千人で、日本語学校終了後、専門学校や大学に進学を希望する学生がほとんどです。日本は自国語で高等教育を受けることができる大変恵まれた国(自国民にとっては)ですが、留学生にとっては日本語という世界的にはポピュラーとは言えない言語を学ぶことが必要条件となります。
 日本語の発音や文法は、他の言語に比べて特別に難しくはないと言われています。特徴的なものとしては、
 @文字表記の体系が複雑(ひらがな、カタカナ、漢字、音読み・訓読みなど)
 A敬語が難解であること
 B擬音語・擬態語が多彩であること  などがあげられ、
これらのことから、多くの単語を覚えることが必要不可欠になってきます。

 1,000語で一般的なコミュニケーションに必要な語の何%を占めるか調査したデータがありますが、英語・フランス語・スペイン語では80%以上、中国語・韓国語でも75%程度であるのに対し、日本語では60%程度に過ぎず、80%に達するには4,800語程度必要とされています。
学生諸君は、これら文字・語彙のほか、文法、読解、聴解など日本語能力試験科目を中心に頑張って勉強に取り組んでいます。(そうでない学生もいますが)

 最近は以前圧倒的多数を占めていた中国や韓国からの留学生のウエイトが下がり、母国で漢字を学んだことのない学生が急増しています。私のいる学校では、ベトナム、ネパール、ロシアなどの学生が増えており、皆頑張っていますが、漢字には苦戦しています。

 今教師として最大の悩みは学生たちの進学先の確保です。日本語学校の学生数はここ3年で2倍以上になっており、大学や専門学校も定員を増やしていますが、進学は年々厳しくなっています。従来なら年末ごろから動いていた進学も、今は秋になったら具体的に行動しなければなりません。我々も上級学校への「推薦書」を毎日のように書き、合否に一喜一憂することになります。
2,3年前なら推薦書をつけて受けさせたら大抵合格が得られたのですが、最近は競争率が高くなってそれは夢のまた夢になってきました。
複数の学校の出願、試験、発表、入学金支払いの締切などのスケジュールをダイヤグラムのように書いて(これは留学生諸君が苦手とするところです)、受験指導をする日々がもうすぐやってきます。

 この仕事をして良かったと思うことは、何と言ってもまず諸外国から来る若い人たちと日常的に接することです。授業や進路指導のように具体的なことだけでなく、毎日の挨拶や雑談の中でお互いに刺激を与え合い、我々高齢者にとっては、はやりの表現を使えば、「元気をもらう」ことができます。親しくなったら「先生、昨日も秋葉原で飲みましたか?」などという会話も出てきます。また、街で卒業生に「先生!」などと呼びかけられるのも楽しいものです。

 さらに同僚の先生方も、私と同じような高齢者も少なくありませんが、やはり若い、しかも女性の多い職場で、そういう先生方と上下関係のない仲間として(年齢にはそれなりの敬意を払っていただいていますが)、チームを組んでクラスを担当することは、責任も伴いますが、とても気が若くなるのを感じます。そんなわけで、しばらくはこの仕事を生活の中心にして、前期高齢者生活を送っていきたいと思っています。

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 2016.04.23 上山 維介 「雑草に纏わる独り言」

 菊川春三(しゅんそう)さんからバトンを受けて、ふと思い浮かべたのが、菊川さんのお名前から春の日差しをうけて青々と芽生え始めた「春の草」でした。日頃から、どこにでも生えてくる雑草の逞しさに親しみと一種の愛着があり、独り言を書くことにしました。

 「雑草」とは、広辞苑によると「自然に生えるいろいろな草。また、農耕地で目的の栽培植物以外に生える草。」と書かれている。前者はある学者が話していたが「野道に生えて季節の折々に美しい花や、緑で楽しませてくれる草」、後者は「畑や田んぼで野菜やイネと競合して生育し、生産物の生育や収量に影響を及ぼす草」で生産農家にとっては大敵である。
 「雑草」が人に異議を申し立てる。「雑草」は人が勝手に作った言葉であり空き地や駐車場に生えて困るとか、人が大事に育てている植物のわきに生えて大事な植物の生育を阻害することから引き抜かれたり防除されるのは人の横暴だ。雑草も一つ一つ名前があり学術的に認められている、総じて「雑草」と呼ばないでほしい。人は言う。「雑草君、君たちは人にとって都合の悪いところに生えるから嫌われるんだ。私たち人間は君たちをそんなに悪く思っていないよ。むしろ雑草魂とか君たちの逞しい生き方を賛美しているぐらいだよ」と。
 確かに人の勝手気ままな呼び方だ。薬草や山菜は漢方薬や美味しい食材として用いられるから人は「雑草」とは呼ばない。草食動物にとって美味しい草も美味しくない草もあるが、「雑草」の区別はない。黙々と好みの草を優先に食べている。人が草食動物を貴重なタンパク源としているのだから、草食動物が食べる草は雑草とは言わない。ただ、ワラビ、ゼンマイの類は動物は腹を壊すから、人は牧草地からこれらを取り除く。これも人の勝手な行動だ。
 土砂崩れや地形の変形を防いだり、農作物の栽培で下草が必要であったり、人は「雑草」の是非を見極めながら上手く付き合っている。「雑草」は枯れてもきちんと子孫を残すから、この「人」との関わりは永遠に続くであろう。

菊川さんと「雑草」は全くつながるものでありません。お名前を拝借して失礼をいたしました。

この度の熊本地震の被災地の皆様ならびに関係者の皆様にお見舞いを申し上げます。5年前の東日本大震災を思い出しました。大変なショックでしたが被災地の皆様が自ら、また日本全体が元気を出そうと旗揚げし復旧に取り組みました。私たちの定期演奏会の年に、このような震災が起こりましたが、私たちが元気に楽しく歌うことが元気の輪を広げられると信じて、しっかりと歌っていきたいと思います。

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 2016.01.14 菊川 春三 「思い出すこと(父の話)」

 だんだんと年を取るにつれ、昔の記憶は薄れるものですが、この頃、何かの折に父を意識している自分に気づきます。曖昧な記憶ですが、思い出すままに、父のことを書いてみました。

 その前に、まず、自分自身のことですが、私は所謂【団塊】の、それもど真ん中、昭和23年生まれです。堺屋太一さんのお陰で変に一括りにして語られ、社会学の格好のネタにされることもあるようですが、当事者(?)としては迷惑な次第です。私達の数が多いのは、単純に、敗残兵が生きて帰ってきた喜び(あるいはヤケクソ)をそのままぶっつけた結果に過ぎないと思うのです。何せ小さいころから数が多すぎて何事も損ばかりしていたという被害者意識はあっても、得なことはなかったかなと思います。父も、私が中学生になった頃、好きだった晩酌の四方山話の中で「春三達にもエライ迷惑を掛けたな」ということがありましたが、冗談半分でしたね。

 父の晩酌に付き合うのは楽しみでした。酒のさかなのおすそ分けがあったからです。おかげで、小さいころから、しめ鯖(家ではキズシと呼んでおり、正月の膳の定番でもありました)とか鱈子の煮つけ、鯨ベーコンが好物の子供でした。父の耳タコ話としては、酒を飲むと良く子供たちに向かって、酒は飲むな、煙草は吸うな、というお説教がありました。ほろ酔い機嫌で、「お父ちゃんはええんや。お前らは体に悪いことはせん方がええ」という勝手な話です。全然説得力がありませんから、こちらも聞き流している訳です。それでも、酒は程々に飲みますが、煙草は一切やらないという人間に仕上がったのは遠い日の父の刷り込み(?)の効果かも知れません。

 そう言えば、父は戦争の話は好みませんでした。良い思い出等がある筈もないのですが、一度だけ真面目に語ってくれた話は息子を切なくも安心させるものでした。父は大正四年生まれの人間としては身長が高い(175cmありました)半面、痩せぎすで、軍の身体検査では丙種合格(不合格になる一歩手前)でした。即ち、検査後に一旦は自宅待機となったものの、戦局が厳しくなり、それこそ総力戦にならざるを得なくなった昭和19年末になって初めて召集されてしまいました。その前年に長兄は生まれておりましたから、父(そして母)としては泣く泣く戦場に追いやられた訳です。ただし、不幸中の幸いというべきか、召集先は九州宮崎でした。父の話では、そこでは毎日、訓練と所謂「たこつぼ」掘りに明け暮れたそうです。いつ来るか分からないアメリカ軍の上陸に備えたものであったのでしょう。勿論、上級兵の日常的暴力に曝され、翌年の8月15日まで辛い日々だったことは間違いありません。しかし、「自分は下級兵を殴ったことはない、勿論人殺しもしていない」、という言葉は、息子としては「ありがたい」ものでした。

 母から聞いた話ですが、敗戦後、父は割と早く、一月ほどで帰ってきて、途端に素裸になって、社宅になっている長屋の共同庭で着ていた服を燃やしてしまったそうです。恐らくは、蚤・シラミ等の害虫類を一網打尽にすることと、軍隊時代をすっぱりと切り離すことだったのでしょうか。

 その後、次兄と私がほぼ年子のようにして出生した訳ですが、他の家庭も似たような事情であったと思います。その結果、団塊となってしまったのですから、誰からも責められる話ではありません。運命と言ってよいものです。

 さて、終戦になって帰って来た父は、以前のとおり、自転車用タイヤやサンダル等の日用品を作る町工場に勤め続けました。営業と経理の両方を兼務していたものですから、毎月、岡山から四国方面の得意先回りをやっていました。小学校の低学年になるまでは、次兄と久しぶりに帰って来た父を取り合い、夜は父の布団に競争で潜り込んでは寝場所確保を争ったものでした。この時代は今現在ほどには貧富の差が無かったからだと思いますが、つぎの当たった半ズボンをはき、ハンカチなどは持っていなくても平気でした。というか、持っている子がいた記憶がありません。パッチワークのようにした、つぎの当て方がしゃれている子はいましたが。

 出張に出かけていない普段の父は朝決まった時刻に家を出て、歩いて10分程度の会社に行き、夕方になると、これまた決まった時刻に帰ってくるという毎日でした。小学校に上がる以前の私は時々ですが、父を迎えに行ったことがあります。今思い返すと、正門を入って右手に木造の2階建ての事務所があり、玄関を開けるとカウンターの向こうで父が何やら執務をしている姿が見えました。父は私が声を掛ける前に気づいて自分の席に呼んでくれるのでした。そして、暫くすると周囲の人々に挨拶して一緒に帰るのですが、幼い私は、ひょっとして、待っている間に周りの人から構ってもらうのが嬉しくて父を迎えに行ったのかも知れません。時々残業する工員さんのおやつになるアンパンをもらったりもしました。

 父は平成元年に亡くなりました。もう、半世紀以上前の脈絡の無い思い出です。都合よく脳内で美化しているような箇所はあると思いますが、懐かしい父の思い出の切れ端です。機会があれば、又綴ろうと思います。

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