リレー随筆(過去分)

従来のリレー随筆の2つのレーンを統合した内容にリニューアルしました。
最新の方が最初の表示になります。

 
 藤岡 昭(S46年工学部計測工学科卒業)

「私が生まれた広島の家」

私が生まれた広島の川内村は広島湾太田川河口から10qほど北の流域にある。
この辺りは山あいの幅が1〜2qの狭い流域であり、山辺と中洲のある地域である。
急速に都市化して、平成26年8月広島土砂災害地となった広島市安佐南区である。 
また広島といえば原爆被災地であり、生家も祖父・叔母・親戚が犠牲となっている。
川内地区は180人が勤労奉仕中(義勇隊)に被爆し、一瞬にして村人が未亡人となり苦労する農村地区となった。(右写真は中央筆者、右弟と前は隣家の子)

その状況は祖母藤岡キヨノ(パソコン検索で出る)が平和データベースの公開動画と、岩波新書に「原爆に夫を奪われて」で、永遠の平和を祈願しているので参照して頂きたい。
さて私が18歳まで生まれ暮らした家は、 神社とお寺さんの間にあって、名の通り川の内に位置し、洪水に悩まされた。(図―1)

家は昭和35年頃までは藁葺きの家であったが、その後何度か改築を重ねて母屋以外は残っていない。母屋の柱の骨組みは残存しており、今は兄が継いでいる。
私は5〜6歳の頃、自転車で家の土間を一周して遊んでいた。
図―2は記憶のまま平面図を手書きしてみた。中央が母屋、上部が裏長屋、右横が納屋で、木小屋、馬小屋以外にわらを蓄積するところなど農作業場と農機具置き場が広かった。

母屋は壁が少なく周囲が障子の部屋が多くて風通しが良く、夏場の昼寝の場所となった。
玄関に入ると土間で、脇に「から臼」(足踏み式臼)が常設してあった。 その土間でお正月や寒の入りにお餅を沢山ついた。母屋の土間を奥に入ると裏長屋炊事場に通じていた。
くど(かまど)があり、風呂焚口、更につるべ式井戸も家の中の土間にあった。
図―2の写真はその田んぼで農作業する父母と、手伝いをする兄である。手前が馬小屋、その奥が納屋、左に隠れて母屋となる。
写真―1は最近の広島市安佐南区川内である。太田川改修後急速に発展し、かつてのわら家が散在した農村の面影はない。18歳まで家族6人で(両親・祖母・3人兄弟)楽しく過ごしたが、今では兄と二人になった。(右写真は筆者)

合掌



(以上、世田谷区生涯大学第38期生修了作品集(平成28年3月世田谷区生涯大学)に掲載したものをそのまま転用しました。)

次は、昭和48年文学部卒の村上 好さんにバトンを渡します。

以上(2016.08.01)

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第17走者 寺尾 重昭(H15年経済学部卒業)

坊ちゃんといわれて

お仕事で大変お世話になりましたPIA蒲髢リ社長からバトンを受け取りました。現在34歳、仕事も覚えて心身ともに充実、気合を入れて毎日飛び回っていますが、新人時代は苦労の連続でした。

学生時代
中学校教師の両親に育てられ、周りの友人と比べて窮屈なことが多い学生時代でした。小学生の頃は門限も早く、「うちは親が先生でうるさいから」を理由に一人早く帰宅したり、遊びも融通が利きにくいと感じることが多かったものです。ただそれがいつのまにか、「こう言えば面倒な友人関係から距離を置ける」と逆に利用する心理も働いていた気もします。学校で禁止されているものを持ってきている友人を先生に告げ口したり、ルールから外れたことは全く認めない性格を、「親が教師である」ということを盾に自分で正当化していたのはこの頃からです。公立の中学校に入って、やんちゃな友人たちと同じクラスになり、三年生にはクラスの半分以上がやんちゃなメンバーという厳しいクラスで、融通の利かない性格の自分はどの友人グループからもなんとなく孤立気味でした。
高校受験では希望していた私立進学校に入学でき、クラスのメンバーも比較的おとなしいガリ勉君が大半を占めることとなりました。非常に規律正しい高校で、いわゆる"不良少年"は皆無、正しいことが正しく運用される環境に非常に満足し、勉強はスピードも速く厳しいものでしたが、先生や友人には恵まれた高校時代でした。そして神戸大学へ入学。高校時代から引き続き、気楽に語り合える良い友人に恵まれ、アルバイト代で遊ぶ典型的なダメ大学生を4年間堪能させていただきました。そして持ち前のおしゃべりのみで就職活動を乗り切り、損害保険会社の営業として社会人生活をスタートしました。

新人時代
学生時代はこのように、融通のきかない生き方を通していましたので、社会人生活のスタートは本当に苦労しました。当時会社の先輩、上司、取引先の方々からたくさんのご指導を頂戴いたしましたが、特に印象的な言葉がこれです。
「お前の言っていることは正しいかもしれない。でも俺はお前が嫌いだ」
正しいことを言っていても、伝え方やその人との関係の中で、伝わらないことがある。当たり前のことですが、これまでクソ真面目バカ正直に生きてきた自分にとって、衝撃的な言葉でした。
取引先の百戦錬磨の社長様方からいつしか「ぼっちゃん」と言われ、かわいがられつつも冷ややかな目で見られていたのではないかと思います。そんな新人時代に出会った二人の上司からの教えが、今の社会人生活のベースとなっています。深く印象に残っている言葉をいくつかご紹介します。
「正しいことをしたければ偉くなれ」
元はドラマのセリフですが、その通りだと思います。言いたいことがあっても、それが実際に周りに影響を及ぼせるだけの立場にならないと、その声は届きません。入社して間もない若造が、正論を吐いてばかりいると、「あいつはわかってない」となるのだと理解しました。
「『言った』ではなく『伝わった』が大切」
言うべきことがあっても、それを言っただけでなく、伝わったかどうかが重要です。独り言のようにしゃべっていても相手が聞いていなければ意味はありません。某先生の「コップは上を向いているか」にも通じる言葉です。
「人には目に見えない信用残高という数値がある。日ごろから小さなことで信用残高を積み上げておけば、将来のトラブルの時に『お前が言うなら仕方ない』と許してもらえることがある。その後は信頼残高をまた積み上げることを忘れるな」
「『システムが』とか『本社の方針が』なんて言い訳するな。そんなも越えて見せろ。越えてはいけないラインは、『法律』『許認可』『会社の利益』『社会公共性』の観点で判断せよ」

いろいろな言葉で世の中の仕組みを教えていただきました。そして初任地福井での5年3ヶ月の勤務を終える頃には、人からの評価もやっと一定得られるようになり、何とか自分はどう働いていけばいいのかがわかってきたように思います。社会人13年目の今、当時の恩師に教えられたことが100%実行できているかはわかりませんが、増えてきた後輩や今後出会うであろう後輩達に、自分の言葉で伝えていくことが私をご指導いただいた方々への恩返しになるのではないかと考えているところです。

次回は同じ部署に新人として入ってきて6年半一緒に仕事をした、國友宏二さん(平成20年経営学部卒)にバトンタッチいたします。

以上(2015.05.18)

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第16走者 鈴木 洋二(昭和51年工学部卒業、本当は50年卒だったのだけど・・・)

生涯現役

 安田さんからバトンを受けて約1年半、仕事が創業以来の忙しさで年末に・・陳謝!!
愛媛の高校を卒業とともに、京都の立命館大学に半年通い、中途退学して神戸大学を再受験一浪で運よく神戸大学機械工学に入学。阪急御影近くで大学生活をスタート、そののち、阪神大石駅の近くに引っ越し。4部屋あって、経済学部と文学部の先輩二人工学部二人の共同生活。当時は一浪なんて当たり前で今とは様変わり。
御多分にもれず麻雀が好きなメンバーばかりで、クラスのたまり場の様になっていて、本人はバイト、誰かが麻雀しているという生活を5年。材料力学でひっかかって5年通った。岩田教授の講座には当時珍しい、ヒューレットパッカードのコンピュータ(当時800万したと記憶)を使えるという理由だけで卒業論文を。これも樋口先輩の言うとおり実験しただけで卒業するまで何やっていたのか、何に役立つのか理解しないまま卒業。
愛媛県に本社があるというだけで、ユニチャームに入社。結局大阪に配属され、営業人生のスタート。システム部か工場へという話だったそうだが、高原社長の鶴の一声で営業に配属。ここで大きく人生が狂いだした。岩田教授には、退官するまで「お前は大学に何しに来たんだ!!」と言われ続けました。
そのあと、平成元年に東京に転勤(現在の横浜に在住)した時、下の子が登校拒否になり、転勤のない会社へと転職しソニー生命へ。正に畑違いの世界。この時期、高原社長、SONYの盛田社長や工学部の大先輩アルプス電気の片岡会長に出会えた事で影響され、自分も起業をと今は二つ目の会社「保険のソムリエPIA(株)」で7年目です。
今や横浜在住26年、浜っこですね!!車も横浜ナンバーです!!保険の総合代理店(生保12社、損保11社を扱っています)で、オンリーワンを目指そうと、時代の最先端を行くインターネットで情報発信して(サイト・ブログ・イッター・Facebook等)インターネットを通じて、契約依頼が舞い込んでくる仕組みを作り上げた。正に工学部的発想、神戸大学卒業生にしかできないことではないかと自画自賛。
マンション管理組合の共有部分の火災保険に特化して7年、ようやく黒字経営4年で軌道に乗りました。正に世の中のインフラは、インターネットを中心に動き出したなという事を身をもって経験中です。会社は零細企業で、社長がお茶くみからコピー、契約、経営、正にベンチャー企業の宿命を1から経験実践。倒産の危機もあったけど、何とか持ちこたえられたのも諸先輩方の応援のたまものかなと思っています。大企業の経営とベンチャー企業の経営は、根本的に違うという事を身にしみて経験でき、生き残れているということは、やりがいもあるしやっていて楽しい。好きな事をやって仕事になるというのは今の時代にあっているかなと思う。
大学で勉強した事に無駄な事はなかった。業種業態は違えど、企業活動や経営という分野で一つの事を極める課題の発見と、研究のプロセス。世の中の役に立つという考え方は目に見えないところで経営に生かされているなと実感しています。
自分で考え、行動し、成果を出す。出さなければ倒産という企業活動の醍醐味はとっても楽しい。社長業は定年がありません。そう!!生涯現役なのです。「趣味は?」と聞かれたら「仕事」と答えます。僕にとっての豊かな老後は、仕事を通じて世の中の為になる事をし続けられるという事。世の中といつまでも緩やかな関係を保っていけるということが素晴らしい事だなと思っています。会社を経営するってことは、企業の規模の大小にかかわらずとっても楽しい!!
保険の業界で、マンション総合保険オンリーで売り上げを立てている所はPIA※だけかなと、そういうことで業界に刺激を与え続ければいいなって思う。
また反対に、最近の後輩達の活躍する姿を見るのもとてもうれしいし頼もしい。「神戸大学の卒業生」いう事を誇りに思います。

好きな事をやって生きていくことは素晴らしい事だ。もっともっと好きなことで起業して人生を楽しむってことを後輩たちに伝えていきたいなと思う。

PIAの損害保険会社の担当として、たまたま大学の後輩がいたので「1年違えば奴隷と一緒だ!!」(随分時代錯誤かな・・・)なんて(木南会の)滝澤さんが言っていたように、先輩の特権で平成15年経済卒業の寺尾重昭さんにバトンを託します。

※:PIA:Professional of Insurance Agent

以上(2014.12.30)

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第15走者 安田 博延(S51年法学部卒業)

大磯の

大磯のさざ波寄するかがり火に
松の林に宿借りて
心浮き立つ鰹船

私が今お稽古を付けてもらっている小唄「大磯の(さざ波)」の歌詞である。明治31年頃、五代目尾上菊五郎が大磯に別荘を建てた時のお祝いの江戸小唄だという。新しい別荘が出来た喜びが伝わってくる。

私は、昭和51年に法学部を卒業し、2年間の司法修習を経て、同53年検事に任官した。以来、2,3年毎の転勤で全国各地の地方検察庁、高等検察庁に勤務してきた。転勤は、各地の風物等に触れる機会があるのみならず、単なる旅行ではわからないその土地の文化等とじっくり交わることが出来て、見聞を大いに広めてくれる。しかし、2,3年ごとの転勤では、各地の検察庁の職員はともかくとして、それぞれの土地でそれなりに知り合える人には限りがある。また、検察の職務の性質から交際できる範囲も自ずから限られてくることもあって、案外土地の方々と長く交際できる友人関係を形成するのは容易でない。趣味もしかりであって、大方の趣味を続けようとすると、指導者なり師匠なりにつかなければならず、また、趣味仲間の存在も不可欠である。そのため、これまで何か習い事などに興味を持って始めても続かず中途半端で終わることの繰り返しであった。

32年余勤務した検察庁を平成22年に退職し、弁護士登録をして、さて何か今からでもやれる趣味はないかと思っていたところ、縁あって知り合いの方に誘われ、小唄を習うことになった。小唄を始めた理由は、簡単そうで、役に立たなそうだったからである。還暦を過ぎた私がこれからあまり難しいことはしたくない。それに、これまで、習い事、稽古事と言っても、何か自分の成長に資するものをとの気持ちが強く、ストイックな習い事に傾きがちであったので、一つくらい全く役に立たない、道楽ないしは遊びをやってもいいではないか、と考えたことによる。

公益社団法人日本小唄連盟ホームページによれば、「小唄は、いわゆる段物(だんもの)とよばれる長唄、常磐津、清元、といったものに比べると、1曲の所要時間は30秒〜4分位までと短いのが特徴であり、初めて邦楽に触れる者にも短時間で習得でき、曲が多く、曲のほとんどに他邦楽のエキスが含まれている。また、小唄のそうした特徴が、江戸時代末期から現在まで小唄が多くの愛好家によって唄い継がれてきた大きな要因であって、小唄は決して敷居の高いものではない」とされている。

そんなことで小唄はとっつきやすそうだと考え、紹介いただいた本木流家元第三代本木寿以(すい)師の渋谷稽古場に通って指導を受けることとし、小唄の稽古を始めた。

稽古に通い始めると、手本で師匠が聞かせてくれる小唄は、バチを使わず手で爪弾く三味線の音の柔らかさ、何気ない、だが人の細やかな情を紡ぎだすがごとく表現される唄い方がいかにも和の粋を醸し出す。これはよい、しかも三味線はともかく、唄だけなら確かにそう難しくなさそうだと思った。

しかし、さて自分でやってみるとこれが全く唄えない。江戸小唄の創始者とされるお葉が、「小唄というものは、三味線もので、唄は妻(つま)だから、小唄に声自慢は邪魔で、声に捉われると、間が悪くなるから気をつけねばいけない」「小唄というものは、節をつけずふんわりと温和に唄い、間をうまく合わせて、文字通り唄に表情をあらわすものだ」と述べた(木村菊太郎著「江戸小唄」)とのことだが、これがなかなか難しい。そんなわけで、今は朝の散歩、仕事の合間に小唄の稽古にいそしんでいる。いやはややはり稽古もしないでものになる趣味などない。芸事とされ、お師匠さんが存在するくらいだからやはり本当にものになるには尋常でない稽古が必要なのだろう。趣味とて容易ならざるもの。だが、新しい世界が開けていくことは楽しいことでもある。そんなことで少々厳しくても小唄をそれなりに唄えるようになりたい。そんなことを考えるこの頃である。またしても私の趣味はストイックになってきたか。

次は、工学部昭和51年卒業の鈴木洋二さんにバトンを託します。

以上(2013.06.27)

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第14走者 奥田 豊史(S55年経営学部卒業)

若いからこそ大切と感じた六甲クラブ大先輩とのつながり

私と当クラブとの関わりは、33年前の昭和55年に経営学部を卒業後、日興證券に入社し本店営業部に配属されたことから始まります。
本店営業部での4年半の勤務のなかで、まったく世間知らずの私が、すぐ近くにある東京凌霜クラブに出入りさせていただくようになり、大先輩方からとても親切にしていただいたことは、郷里を離れた自分にとってとても温かみを感じる場所となりました。日本の発展のため各界で頑張ってこられた大先輩の情熱的なお話を聞かせていただき、火曜会等で熱心に意見交換されている様子をみながら、自分なりに考えねばならない機会をいただいたことは、その後の私の人生においてかけがえのない社会勉強の場となりました。また、ビジネス上でも大先輩といろんな交流を持たせていただけましたことは自身の大きなきっかけとなりました。
その後、日興證券で19年間勤務後、1999年の金融不況時に、早期退職制度にて42才の時、まったく違う業界の現職(テンプスタッフキャリアコンサルティング梶jに就き早や14年目を迎え、現在に至っております。現職は、皆様にとってあまり馴染みのない再就職支援(アウトプレースメント)を主業とする会社であり、わかりやすく言うと、希望退職を実施する企業と契約し、退職する社員の再就職の支援を行っている会社で、希望退職を実施せざるを得ない企業経営者の心の痛みと、応募・退職を決断せざるを得ない社員の心の痛みを同時に解決するというビジネスモデルです。
私は、この14年間、早い話が、"リストラしたい企業と契約を結ぶ"のがタスクで、これまでずっと企業の人事担当者とのつながりを広げてきましたが、こんななかでも誠に有り難いことに神戸大学東京六甲クラブでの人脈が活きているのは驚きです!実は10年前の2002年、広島に本社のある某大手自動車会社が、1,800名の希望退職を発表した時のこと、当社としてまったくコンタクトがなく、なんとかきっかけを持ちたいと思っていた矢先に、同社の人事担当者より横浜に勤務していた私に電話があり、広島まで来て再就職支援サービスにつき説明してもらいたいとのことで当時、本当に驚きました。きっかけは、某大手都銀より同社常務に就任された神戸大学の大先輩だったのです。先輩は、私が前職でアムステルダム現法に駐在していた頃、ベルギーブラッセル支店の代表で、車で2時間半程度で行けることから頻繁にお邪魔し親しくさせていただきました。先輩は、帰国後、本店総支配人を経て広島にある自動車会社の常務に就任され、その際にお電話でお話ししたこともありました。縁とは奇なるもので、幸運にも当社は、ご縁ありその自動車会社と単独契約させていただき大ビジネスを頂戴しました。当社は、ジャスダック市場に旧社名である日本ドレーク・ビーム・モリン鰍ナその頃、上場していましたが、そんなこんなで2,000円の株価がなんとピーク44,000円まで短期間で上昇しましたが、当時、業務があまりにも忙しかったため、結局、私は株を買えず恩恵は受けらませんでした、残念!実は、私が、当社に転職した1999年当時から、ソニーの17,000人削減等が新聞報道され、ちょうど日本全体での大リストラ時代のスタートであり、これまでの14年間、前職とはまた違った大変、刺激的な場面の繰り返しです。
企業の人事担当者からはよく言われます、「リストラなんて経験ないのでどうすればいいのかよくかわからず、できれば避けて通りたいが、お宅と付き合うことを決めたからには、実施する人事施策は、法的問題や労組・社員とのトラブルなく経営目標に沿ってスムーズに進め、しかも辞めてゆく社員の次の会社人生をきちっと決めてほしい」と。そんな人事担当者のお気持ちを受け、大切にしたいことの一つに"無念ながらも辞めてゆく社員の今後のやり甲斐を見出していただけるようどうご支援できるか"、ということです。2000年当時は、定年前に会社を辞めることなどまったく考えたことがない団塊の世代中心に大量の退職者が出ましたが、最近では、長期化する不景気、グローバル競争の激化、円高等により製造業を中心とする大企業が会社存続をかけて全社員対象の大リストラを実施しており、国内工場の閉鎖・売却、海外工場への製造移転等を進め、日本の空洞化がさらに進んでおり、今後の日本の成長産業を見通すことさえも困難な状況になっております。
既にご存知のように、世界では、現在の総人口約68億人から38年後の2050年には、93億人(約37%増)にどんどん膨張すると予想されている一方、日本では、現在の総人口数約1億2,700万人から、2050年には、9、200万人程度まで減少する(約28%減)ことが予想されており、就業者数も、現在の約6,400万人から2050年には、約4,400万人(約32%減)になるとの予想も出ております。特に直近では、これまでの日本の経済発展を支えてこられた団塊の世代の方々約700万人が年金生活者になりつつあります。
このようななか、日本の今後の経済成長を支える労働者は、何にやり甲斐を感じイキイキと働いてゆけばいいのでしょうか。そんな迷える労働者をサポートする担い手の一つがキャリアコンサルティングだと思います。実際のカウンセリング現場では、相談相手との信頼関係をベースに、当社のコンサルタントが不満、悩み、興味、価値観等を傾聴することにより、相談相手の自己理解を促進し抱える問題を共有化することにより、その問題を自力で解決してゆくプロセスをサポートしてゆきます。ご支援する方々の多くの悩みは、@リストラによる心の傷が癒えない、A自身のスキルや経験に自信が持てない、B転職経験なく自分の強みやPRポイントがわかっていない、C違う業界で働くのに抵抗がある、等です。心の傷が癒えず落ち込んだ気持ちをずっと引きずり自信を失くしてゆくことが本当に多いですが、キャリアコンサルタントがご不満をじっと聴くことにより、相談者自身が自分の声に向き合えるようになり、徐々に前向きな気持ちを取り戻していただけるケースが多いと思います。そして、カウンセリングを進めるなかで、相談者のこれまでの経験を棚卸し、誰もが持つ何処へ行っても発揮できるポータブルなスキルに気づいていただき、幅広い職業情報を提供することにより、さらに自信を持っていただけるようサポートしてゆきます。キャリアコンサルタントは、そんな相談者を支えるため、適切な心理療法、心理テストを活用しながらハンドメードに進めてゆくことになります。
誰もがそれぞれの強みを知り、再度、やる気を取り戻して頑張れるような社会になってゆけば日本も捨てたもんじゃない、明るい方向性が見えてくると思うのです。そんなことを考えながら日々暮らしております。

これまでの方々が書いておられるような趣味とかあまりないので、今、私が携わっている仕事のことを思いつくままに書きましたが、次は、S51J 弁護士の安田博延さんにリレーのバトンをつなぎたいと思います。

以上(2012.11.13)

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第13走者 井上 幸夫(S56年工学部卒業)

機械工学とストレス

私は三十数年前に神戸大学工学部機械工学科を卒業しました。機械工学は皆さんが普段使っている自動車、電車、飛行機などに応用され、生活の様々な場面で役に立っているはずです。私の学生のころは、機械工学は電気工学と並んで工学の主流でしたし、IT化が進んだと言われている今でも、その役割は重要です。ここで、「機械工学ではストレスやプレッシャーも扱っているのです。」と言えば、なかなか信じてもらえないかも知れません。ストレスやプレッシャーは心理学や精神医学の領分だろうとお考えの方も多いと思います。でもストレスやプレッシャーは、機械工学が扱う立派な機械工学用語なのです。
機械工学は、熱力学、流体力学、機械力学、材料力学などに細かく分けられます。皆さんもこれらの名前はどこかで聞かれたことがあると思いますが、ストレスはこのうちの材料力学でよく使われる用語ですし、プレッシャーは熱力学や流体力学でもよく使われています。ちなみに対応する日本語もちゃんとあって、ストレスは「応力」、プレッシャーは「圧力」です。さらに、単位もちゃんとあって、Pa(パスカル)というのがストレスやプレッシャーの単位なのです。
パスカルって、どこかで聞いたことがあるな、と思った方は結構鋭くて好奇心の旺盛な方だと言えます。そうです。天気予報に出てくる、台風の中心気圧を表すのに使われているヘクトパスカルのパスカルです。ヘクトというのは「百倍の」という意味ですので、1ヘクトパスカルは100パスカルということになります。ちなみに、キログラムやキロメートルのキロは、「千倍の」という意味で、1キログラムが1000グラムになるのと同じ要領です。
このパスカルというのは、1平方メートルの面積あたり1ニュートンの力がかかっているという圧力(または応力)を表しています。ついでに言うと、ニュートンという力の単位は、万有引力、というよりリンゴで有名なニュートンさんから名づけられた単位で、1ニュートンの力は、およそ0.1キログラムの物体を地球が引っ張っている力に相当します。単位というのはとても面白くて、1キロメートルや1キログラムにも面白いお話があるのですが、これ以上言いだすとややこしいのでこれ以上は別の機会にしておきます。
もとに戻って、ストレスの話ですが、単位があるということは、その大きさも定量的に扱うことができるということです。たとえば、私の現在の上司は「ツツミ」というのですが、ツツミをストレスの単位だとして、私が今朝感じたストレスは25ツツミだったとか、先日怒られた時は1.5キロツツミだったとか言っても、他の人にはわからないし、比較もできません。これに対し、機械工学では、1パスカルのストレス(応力)やプレッシャー(圧力)は、全世界共通で同じ量(大きさ)なのです。
ストレス(の単位パスカル)はニュートン/平方メートル、つまり分子がチカラで、分母が面積です。したがって、ストレスを小さくするには、分子のチカラ(あなたの肩にのしかかっているあのチカラ)を小さくするか、分母の面積(あなたのココロの広さです)を大きくするかすればいいのです。なんだか当たり前のことを言っていますが、機械工学で保障されたストレス軽減法ですので、「チカラは軽く、ココロは広く」を心掛ければ、ストレスは小さくなります。そのようにイメージするだけでも、効果はあると思います。 機械工学(とくに材料力学)は、モノが壊れないことを目的として研究してきた学問です。人間のココロが壊れないようにするにはどうすればいいか、についても多くの知恵を持っています。たとえば、映画や小説や音楽に感動してココロが熱くなれば、ココロはずっと強くなります。これを機械工学では「熱処理」といい、昔から良く使われている材料強化法です。他にもいろいろありますが、きりがないのでこれくらいにします。
生身の人間と機械を一緒にするのはいけない、とお叱りを受けるかも知れませんが、機械工学が、心の悩みで苦しんでいる人を少しでも楽にできれば、神戸大学で機械工学を勉強した私としては、とてもうれしいことです。東京六甲クラブは東京地区に於ける神戸大学卒業生のクラブですが、従来の中心メンバーの凌霜会(経、営、法の3学部)に加え、工学部などの他学部出身者が一緒に活動することで、新しい刺激になればすばらしいと思います。今後とも、よろしくお願いします。

次回は、奥田豊史さん(S55年経営学部卒業)にバトンタッチします。

以上(2012.08.30)

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第12走者 柴谷 元(S40年経済学部卒業)

ジョギングとウォーキング

私の健康法であり趣味でもあるものの一つがウォーキングである。週に2-3回のウォーキングを今も続けている。今はウォーキングしかしないけれど、もともとはジョギングをしていた。昭和53年ごろ、荻窪に住んでいた。サラリーマン生活も10年を超え、酒を飲み、体重が増え、仕事のストレスも強くなっていた。一念発起、1.5キロほど先の善福寺川公園まで走り、公園の自転車路を一周し、さらに走って帰るということを始めた。朝、5時半に出て、6時半前には帰宅するので、それからシャワーを浴び、朝食をとって出勤する。一度決断して始めてみると、なかなか良いものである。汗で老廃物がなくなる。体重が安定する。出勤を気持ちよくできる。さらになによりも、メンタルな面で余裕がでてくる。たまには徹夜に近い仕事をすることもあり、毎日走っていたわけではないが、時間に余裕のある限り、続けていた。
昭和53年から4年、バンコク、昭和62年から4年、シドニーと海外勤務を経験した。この間も週末には、バンコクのアパートの広い庭園の中、あるいはシドニーの森の中にあるような住宅地の道路にジョギングコースを見つけ、走りつづけた。
このような経験をしていたので、平成3年秋に帰国し、横浜の自宅に落ち着いてから、自宅周辺のジョギングコースを模索し始めた。地図を眺めていると、我が家から3キロ程南東に舞岡公園という広大な森林公園がある。帰国後しばらくは家の周りを10分ほど走る程度でお茶を濁していたが、ある週末、思い立って舞岡公園まで走ってみた。そして、すぐにこの公園の素晴らしさに惹きつけられた。約27ヘクタールと広大なこと、ならやぶななどの雑木林に覆われていること、手入れが良いこと、起伏があること、鳥と動物の楽園であること、谷戸といわれる地形を活かした田んぼとあぜ道が公園の中にあること、店も自動販売機もゴミ箱もないこと、一言で言えば、できるだけ自然のままにしてあること、などが気に入った要因ではあるが、何より、あまり知られていないので、近所の住人以外は訪れる人が少なく、いつも閑散としていることが素晴らしかった。それ以来、我が家を出て、舞岡公園に至り、公園の中を縦断して、公演の反対側の出口を出て、別の道から家に帰る、約7.5キロをジョギングコースと決め、週末、家にいる限り、走ることにした。約1時間かけて走るコースである。1時間も走り続けることは、つらいことである。けれども走った後の達成感を思えば、また走りたいと思う。
舞岡公園を走っていると色々のことに遭遇する。10年前には、蛇が目の前を横切っていくことがあった。最近は見ることがない、と思っていたら先日60センチくらいの蛇が山道を横切っていった。雉が突然、現れることは今でもある。公園を訪れる人が愛している川蝉がいて、公園の中の池の枯れ木に止まって、水中の魚を狙っていることがある。宮本武蔵の画を見ている感がある。しばらくこのかわせみに会わないと寂しくなる。りすが木の皮を大きな音をたてながら齧っているのは、大抵寒い季節である。そういえば、野うさぎも頻繁に出くわす年と、ぜんぜん現れない年がある。かえるは、かつて一度も見たことがない。
あまり知名度の高くない舞岡公園ではあるが、バードウオッチャーには良く知られているらしい。週末には大勢のバードウオッチャーが公園のそこここに陣取っている。大抵地味な服装で望遠レンズのついた立派なカメラを手に、ひっそりと佇んでいる中高年男子である。声をかけてはいけないか、と思って通り過ぎるのが、いつものことだが、あるとき、どんな鳥を撮っているのか聞いてみた。その人は、話しかけられるのを待っていたようにしゃべりだした。今狙っている鳥、デジタルカメラに収められた数々の写真、撮られる鳥がポーズすること、などなど。おまけに印刷した鳥の写真を数枚くださった。話しかけられることを待ち望んでいるバードウオッチャーはかなり多いようだ。頂いた写真はフレームにいれて、居間に飾っている。
秋、稲が実りはじめると、子供たちが作った案山子が田んぼの周りにずらっと立つ。その年の人気者をかたどった案山子が多い。公園を訪れる人がみんないなくなり、日が沈んでほぼ暗くなった夕暮れ、冷たくきりりとした空気の中、案山子の集団の中を走る。その完全な沈黙の中で、案山子から話し掛けられているようなテレパシーを感じることがある。
横浜の冬は最近では殆ど雪も降らないが、一度だけ走っている最中に激しい吹雪に会ったことがある。体は走って暖まっている。程よい疲れを感じながらも、規則正しく足を動かしていることに快感を得ている。おまけに吹雪が前方から全身に当たる。その気持ちよさ、幸福感に浸って走り続けた記憶はいつまでも消えない。
平成13年頃に、走っていて、つまずき、左足の人差し指を骨折した。それ以来、ジョギングを止め、ウォーキングに切り替えた。歩くことと走ることはかなり違う。運動として異なることは当然だが、もっと別の違いがあるように思う。歩いているほうが、走っている時よりも色々のことを考える。平成16年までは、毎日の勤務があった。歩いていても、仕事のことが頭をよぎる。Aにするか、Bにするか迷っているような時、ウォーキングしながら決断することがある。家の中でじくじく考えるより、清涼な空気の中で、歩きながら決断することが案外良い結論になると今も思っている。
また、走るよりは歩くほうが周辺の景色をより良く観察できる。舞岡公園の周辺は農家や果樹園が多く、夏になると庭先で直売しているところが多い。きゅうり、トマトなどの野菜、果物では梨を売っている。たまに、ひやかして、少し買って帰ることもある。
公園の近辺の住宅は庭を四季の花で満たしている。色々の庭を観察すると、一つ一つの草花の良し悪しではなく、庭全体を樹木と草花でどのように構成するのか、ということに注目して園芸をしている家庭が多い。イングリッシュガーデンほどではなくても、日本の住宅も、たとえ小さな庭であっても、工夫して美しさを競っている風情を見るのは楽しい。我が家の庭は、それこそ猫の額であるが、ウォーキング中に観察した庭を参考にあれこれ考えて鉢植え中心に庭作りをしている。ときたま、ご自由にお持ちください、と札をだして、草花の苗を並べている家がある。そこで頂いたぎぼうしの株が我が家で今、大きく育っている。
最近では、この舞岡公園縦断周回コースだけでなく、我が家を出て、1時間から2時間ちかく歩くコースを他にもたくさん作っている。その日の天候や帰りたい時間次第で、あるいは長く、あるいは短く歩くことにしている。走ることも、歩くことも、身体と精神に良い影響があることはこれまでの経験で十分わかった。これからも、できる限り長く続けたいと思っている。

次回は、井上幸夫さん(S56年工学部卒業)にバトンタッチします。

以上(2012.05.25)

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第11走者 黒田 英雄(S35年経営学部卒業)

囲 碁 雑 感

 この深遠なるゲームと出会って、幸せだったと思う。
<小学生に教える オーストラリアから近所の小学校へ>
 定年直後、「日本文化を広める」という大志?を抱き、オーストラリアの田舎の小学校へ数ヵ月教えに行った。メインは囲碁で、そのほか日本語、折り紙など。
囲碁講座の初歩、アタリのあと、シチョウ、ゲタの段階で、突然クラスの全員から"In this case…in this case…"と合唱されてしまった。英語で説明しているつもりが、なにしろボキャ貧で、「イン ジス ケース」を連発していたらしい。
お別れのとき、日本の小学生向けにコアラやカンガルーの絵を描いてもらい、それらを持ち帰り近所の小学校へ。そして小学校とのパイプができ、現在も小学生のための囲碁教室は続いている。
<英国紳士が感心した話>
英国はゴルフ発祥の地。スコアは自己申告、しかし誰もごまかさない。ところがその英国紳士が囲碁を学んで驚いた。
勝敗を決める最後の段階で、相手に自分の陣地を整地させる。「おお、何たるジェントルマンシップ! 自分の領地を敵に検分させるなんて、我が国ではとても考えられない!」
その紳士、こんどは日本将棋について辛口論評。「とられた駒が寝返り、すぐ敵となって向ってくる。あの発想は西欧にはない、いかにもえげつなく東洋的。捕虜は留置しておくもので、活用するものではない」
その将棋もコンピュータソフトがプロ棋士を負かす時代になってきた。囲碁はまだ私より強いソフトは現れてないと聞いているが…。
詰碁、ヨセの段階ではもうかなわないかもしれないが、布石から中盤に入るあの漠然とした段階での着点については、まだ人間のほうがまし…しかしそれも時間の問題か?
<囲碁という漢字>
囲碁とは「その石をかこむ」ことなり。その石とは相手の石のこと。ちなみにこの石では砦になってしまう。
たしかに囲めば有利になることが多い。たとえ相手の石が取れなくても、相手は眼二つ確保するために、手入れする。強い人ほど涙が出るほどつらいと感じるのでは。そして、囲んだ背には後光が出ているではないか。
<ビジネス訓に通じる囲碁十訣>
残念ながら定年後、その詳細を知り、もっと以前に学んでおけば、もう少しうまく世渡りできたのではないかと後悔している。
1、貪れば勝ちを得ず
2、界に入らば宜しく緩たるべし
敵の勢力圏に入ったら、あまり無理をしないで控え目に
どんな世界でも、ひとの縄張りでわがもの顔に振舞っていると、痛い目に会う
3、我を顧みて彼を攻めよ
4、子を棄て先を争うべし
子とは石のこと。多少の石を取らせても、それよりも先手を取るほうが大切
5、小を捨て大に就け
昔の諺に「小の虫を殺し、大の虫を生かす」というのがあるそうな
6、危うきに逢えばすべからく棄てよ
7、慎みて軽速なるなかれ
8、動にはすべからく相応せよ
相手が動くのは、それなりの理由がある
9、彼強ければ自らを保て
相手の勢いが強いときは、無謀な戦いをしかけず、自陣の整備に努めよ。
10、勢い孤なれば和を取れ
孤立しているときは、相手に譲って平和路線でいこう
江戸川柳>
たくさんあるようだが、言葉・生活習慣が現代まで変わってきており、意外とすんなり理解できるもの少ない。
傲慢なつらがにくいと負けた奴
仕合せをいたしましたとまた並べ
あの馬鹿が本因坊に二目置き
己が身の朽ちるも知らず番所の碁*1
のきやすと内儀碁石をひとつかみ*2
 *1 「己が身」→斧が柄とかけて、爛柯の故事をほうふつさせ、罪人が自身
番で碁に熱中している
 *2 亭主が負けそうになのを見て、女房が、「下手で見てられない。
どきなさいよ、あたしが代わりに打ってあげる」
<囲碁との出会い>
4〜5歳の頃、祖父が近所の人を招いて碁を打っているのを見ていた。碁盤と白黒の碁石があって、それを互いに碁盤目の交差点においていく。それをただ眺めていた。
高校のクラスメートから「碁をやろう」と誘われ、「知ってるよ」と彼の家へいき対局した。実際は何もわかっていなかったので、百手近く打って、「負けた」といったら、その友は「そうだね」と答えて、教えてくれた。それがおぼえ始め。
囲碁は実力が如実に出るゲーム。負かされたとき、言い訳がきかない。悔しくて涙が出る。しかし悔し涙が出ると、実力は上った。
大学では水泳部に入った。ぜんぜん体力・才能ともになく、ただ苦しい練習を、落伍するのがイヤで続けていた。練習の間隙にプールサイドで仲間と碁をやるのが楽しみだった。同期の水泳部員に上村久治君や故永野一彦君などがいるが、上村との対局はあまり記憶にはないが、永野とは何度も対戦したように思う。
会社に入った頃の棋力は初段ぐらいだったろうか。社内・外対抗戦、保養所での合宿など、年々少しずつ上がって現在に至る。思えばほんとに遅々とした歩み。 
次回は、柴谷 元さん(S40年経済学部卒業)にバトンタッチします。

以上(2012.03.08)

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第10走者 川上 泰正(S34年経営学部卒業)

前立腺がん治療顛末記

 偶然の気まぐれが大事を救ってくれた。
昨年2月に、勤務していた会社の健保から定期健診の受診申込みがあった際、必須項目の他に、オプション項目があって前立腺がんの早期発見に役立つといわれるPSA検査を一度も受けていないので、何気なしに選び、指定されたクリニックで受診した。受診結果は、びっくり仰天PSAの値は、安全値といわれる4以下でなく3倍を超える14もあった。がんの疑いが濃いということで組織を病変部から採る精密検査を受けることになった。
4月に、芝にある東京慈恵会医科大学付属病院で組織検査(針生検)を行い、前立腺がんであることが判明した。病期(進行度)は、8段階中の4段目の限局がんであり、その上の5段目の局所浸潤がんすれすれであるとの診断である。続いてCT検査をすると、現状では、骨やリンパ節には転移していないと聞かされ、胸をなでおろした。
7月には、本格的な治療にあたり、担当医から前立腺の全摘除術を勧められて、念のため、僕の持病である脳血管障害の湘南鎌倉総合病院担当医に照会したところ、全身麻酔は、生命に及ぼすリスクが高いとの回答をもらったため、その担当医は、全摘除術を諦めた。次に勧められたのが、当病院の放射線治療であった。外照射による放射線治療であるIMRT(強度変調放射線治療装置)がまだ導入されていなかったのである。都内の有数の病院にしては、最先端の医療設備の導入が遅れていることにがっかりした。そこで、セカンドオピニオンを申し出て、どこか別の病院を照会してもらおうと模索していた矢先、8月に入って、一昨年のガンマナイフ治療の定期検査を続けてきた築地神経科クリニックの担当医にその話を持ちかけたら、その担当医は、静岡市の藤枝平成記念病院の院長もされており、「最先端のIMRTを備えているから、是非当院で治療されたら良い」と勧められ、セカンドオピニオンを超えて、転院とIMRTによる治療を決断した。なお、G総合病院の担当医には、これまでの診察および治療のお礼と、転院に至った経緯をしたためた書状を丁重にお送りした。
IMRTによる治療を始めるに先立ち、内分泌(ホルモン)療法を3ヵ月続けるように、藤枝平成記念病院泌尿器科の担当医からいわれ、9月から、1ヵ月に1回の注射と毎月の抗男性ホルモンの服用を始めることとなった。これは、前立腺がんの抗腫瘍作用を高めるためと聞かされた。大した副作用も生じないまま無事3ヵ月が過ぎた。なお、担当医の住まいが東京にあり、毎月曜日に田園調布中央病院に来ていたため、内分泌(ホルモン)療法が、僕が藤枝まで行かずに済んだのは、大いに助かった。
いよいよ11月4日から12月30日まで、土、日、祝を除いて平日の毎日合計39回、品川から藤枝までを通う、時間にして八分程度のIMRTによる治療が始まった。
「検査・治療にあたっての同意書」にサインをさせられたが、それには、まれに発生する症状が書かれてあった。治療中出てくるものとして消化器症状(下痢、潰瘍、嘔気など、)泌尿器症状(頻尿、血尿など)、終了後1、2ヵ月後に出てくるものとして、消化器症状(血便、放射線直腸炎、腸管狭窄、潰瘍など)、泌尿器症状(血尿、放射線膀胱炎、膀胱委縮、尿閉)が記述されていた。結局治療中悩まされたのは、治療前からの持病に近い頻尿のみであった。
一番悩ませたのは、「治療までに200mlの水を一時間前に飲み干すこと。それ以後、放射線治療効果を上げるため排泄するな」である。この条件は、すごいプレシャーになって、僕を苦しめた。時々前の患者が時間通りに終わらないときには我慢できずにトイレに駆け込み、初めからやり直しとなり1時間後回しの失敗談も数回あった。
IMRT治療は、治療台の上に、自分で身体を横たえると、レントゲン技師が二人がかりで、予め僕の体型に合わせて作製した固定フレーム(コルセットのようなもの)を嵌めて、位置決めを終える。すると全身を取り巻くような回転式の数本のリニアックから左右に移動しながら病変部にピンポイント照射する。その時間は位置決め3分、照射5分くらいだった。病変部への照射は、1ヵ所あたり数秒に決まっていて、5ヵ所の違う角度から数回行っていたようだ。
それにしても、2ヵ月間規則正しく生活したため、頑張れたのだと思う。毎朝6時半起床。いつもの通り、1時間の散策とストレッチ体操をこなし、9時10分品川駅発ひかり号で出立、静岡駅10時6分着、在来線乗換藤枝着10時31分、病院送迎バス乗車時間5分F総合病院着10時50分、11時診療開始予定。在来線の延着以外は、遅刻なし。風邪も引かず。この間午後3時以降の大学OB・会社OB・監査懇話会の行事にはできる限り出席した。
かくて12月30日、予定表通り39回の照射を終了することができた。年内に無事終えて、これで正月三が日をわが家でゆっくり過ごせると思うと、正直ほっとした。
治療の成果は、すぐにはわからないようであるが、12月中旬の血液検査のPSAの値が 0.01であると告げられ、一応安心している。
この間毎日の治療を終わってまっすぐ帰宅したわけではない。初めての定期券(新幹線と在来線で因みに2ヵ月30万円弱)を有効に活用しようと、治療の身を忘れ好奇心がむらむら湧き上がった。2ヵ月に訪れた主な場所を日付順に記すと、駿府城公園と紅葉山公園、三島楽壽園、沼津御用邸公園、大井川鉄道と川根温泉、三嶋大社、御殿場線一周、静岡浅間神社となる。
初めての訪問先で印象に残るのは、楽壽園の三島溶岩流と楽壽館、川根温泉の日帰り露天風呂、御殿場線(旧東海道線)のスイッチバック跡地と複線の名残りをとどめる廃トンネルであった。
また、白雪をいただく富士山が、連日晴れてきれいに見える季節であったため、三島駅を過ぎて富士川鉄橋辺りの往復の新幹線の車窓からの眺めは毎日一人占めする思いであった。
現況は、再び1月から内分泌(ホルモン)療法に戻り、7月まで続ける。担当医曰く、「内分泌(ホルモン)療法は7月で終了する。その後、3ヵ月ないし6ヵ月ごとに定期的に血液検査をする。PSAの値が、再び4以上に上がってくることもないとは限らない。そのときは、状況を見て治療方法を考えましょう。」つまり、前立腺の全摘除術を回避しているため、全治宣言はできないということだ。
先天性脳血管障害の病気は、男性の平均寿命位まではなんとか生命を保てるようにしょうと築地の担当医が告げてくれているので、この言葉を信じている。再び前立腺がんになってもその進行を考えれば、もう受入れするしかないと諦観している。

次回は、経営学部昭和35年卒の黒田英雄さんにバトンタッチします。

以上(2012.01.14)

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第9走者 岸谷 靖雄(S37年農学部卒業)

戦争と平和

記憶
私の最も古い記憶は、4歳の時父に連れられて歩いている時、急にサイレンが鳴り出し、走って近くの防空壕に避難したことである。場所とか前後の事情は全く覚えが無い。多分父が勤めていた学校の近くだったと思う。両親は元々関西の出身であるが、父は東京の学校を出てから、そのまま旧制高等学校の教壇に立っていた。私は昭和14年2月東京生まれである。既に4歳になっていたので、もう少し記憶があっても良さそうだが、とにかく戦争の真っ只中ということと、当時の記憶がこんがらがって、その時の記憶はそれだけである。その後何度も空襲警報のサイレンを聞いた。当時私は東京の江古田に住んでいた。サイレンが鳴って暫くすると飛行機の音が聞こえてくる。上空に来て焼夷弾を落として行く。最初は1つの火の塊が、途中でいくつにも分かれて落ちてくる。今から思えば花火を見ているようであった。空襲が終わって父や兄に連れられて、父の学校へ行った。何しにいったかというと、落ちた焼夷弾を捜して、その中に残っている油を取り出した。記憶が定かではないが、その油を何かの燃料に使ったような記憶がある。焼夷弾がいくつにも分かれて落ちてくる有様は、今も頭の中にはっきりと残っている。サイレンが鳴り防空壕に逃げ込んだことが、怖かったという記憶は無い。多分その時は子供ながらに怖かったのだと思うが。

疎開
私は5人兄弟の真ん中である。兄、姉、弟、妹の順で全て健在で、非常に幸せな人間である。兄は母方の姓を継ぎ、私が岸谷の長男になっていた。江古田に住んでいる当時、母の両親が離れに住んでいた。その母の両親が静岡に転居した。それが疎開だったかどうかは分らない。私が6歳になった時であった。暫くして父は私一人を祖父母の所に疎開させた。当時兄は今で言う中学生であったが、私を連れて汽車に乗り、静岡まで連れて行ってくれた。戦時中であるから、旅行は大変だったと思う。ましてや中学生の兄である。それを思うと当時の中学生はしっかりしていたのだと感心する。静岡駅の西側に阿部川が流れている。阿部川を渡って暫く山側に歩いた所の山の中腹にある農家が疎開先であった。農家には牛小屋と隣り合わせに離れがあり、その離れを借りて住んでいた。私は幼稚園に行くことは出来ず、祖父が作ってくれた小さな机で読み書きを祖父母から教わった。農家の周りにはみかん畑が沢山有り、季節には毎日のようにみかんを取って食べた。いくらとって食べても叱られることは無かった。一人が毎日食べる量はしれている。静岡での私の生活はわりと平穏だった。ただ夜中に外のトイレに一人で行くことだけはできなかった。終戦近くなり夜時々東の方角の空が赤く染まった。東京が空襲でやられているのだと聞かされた。時期は定かでないが、終戦の少し前に祖父母と大阪へ移った。何時だったかは記憶に無い。汽車の切符を手に入れるだけでも大変な時に、三人が大阪まで行くのは大変だったと思う。大阪府貝塚市に祖母の姉が住んでいた。取りあえず三人はそこに落ち着いた。

入学そして終戦
大阪に着いた時未だ戦争は終わっていなかった。相変わらず毎日サイレンに驚かされ、私は祖父母と一緒に逃げ回った。ここでも焼夷弾の攻撃がひどく、ぱらぱらと落ちてくる焼夷弾を見上げながら逃げたことを覚えている。焼夷弾によって我が家の直ぐ裏の家まで焼けた。我が家は無事であったが、その時は数十軒の家が灰になった。その直ぐ後、近くの道路沿いの家が、海岸から山手に向けて数十メートル幅で数百メートル取り壊され、広い道路が出来た。これは焼夷弾によって家の類焼を防ぐため、だと大人から聞かされた。その道路は今綺麗に整備され、南海電車を横切って山手に伸びている。当時私は近所の子供と一緒にこわされた家の材木を拾いに行った記憶がある。風呂などの燃料にするためである。4月になり私は貝塚市立北小学校に入学した。家からは歩いて10分くらいの距離であった。北小学校は当時「はだし学校」と言われていて、通学ははだしで通う。足の裏が痛いのは我慢できたが、家の庭に飼っている鶏の糞を踏むのがいやだった。はっきりとは覚えて居ないが、入学式の日、先生が並んでいた端には、軍服を着てサーベルを持った軍人が座っていた。多分憲兵だったのだろう。終戦近くなって、歳の離れた従兄が出征した。私は皆と一緒に南海電車の貝塚駅まで見送りに行った。沢山の人達が日の丸の旗を振って見送ったのを覚えている。夏休みのある日家の外に人が集まりだし、深刻な表情でしきりに何か話をしている。それが玉音放送の始まる前だった。私はあまり覚えていないが、その後祖父から戦争は終わった、と聞かされた。私の戦争の記憶は、静岡以外は、空襲のサイレン、編隊を組んだ飛行機の爆音、焼夷弾が落下する光景、その下を逃げ回ること、そして防空壕に入ってじっとしていることくらいである。当時私は戦争の体験をどの程度怖いと思っていたのか、記憶にはないのである。

転校又転校
やっと学校に慣れた頃父から東京に帰ってくるように、と兄が迎えにきた。私は学校の手続きを終え、兄と二人で東京の父母の元に帰った。父母は前と同じ江古田に住んでいた。終戦直後は大変で、南海電車は貨物列車に人を乗せて走っていた。屋根の無い貨物列車に人を乗せ、列車の連結部分にも人がつかまって乗っていた。今から思えばあんなことを良く許していたな、と思う。仕方が無かったのであろう。私が東京へ帰った頃は、少し落ち着いてきていたのだろう。案外スムースに帰れたような記憶がある。帰って直ぐ東京の小学校に転入した。日本大学芸術学部の直ぐ近くの小学校だった。父は既に学校を変っていた。前は旧制高等学校だったが大学の先生に変っていた。終戦後は食べるものに不自由だった。父は時々兄を連れて買出しに出掛けた。東京近辺の農家に行くのである。米や麦そしてトウモロコシなどを買ってくる。又近くの森にどんぐりを拾いに行った。拾ってきたどんぐりは一週間ほど水に浸して、米や麦に混ぜて炊いて食べた。どんぐりが不味かったことだけ覚えている。父は時々学校からアルコールを持ち帰り飲んでいた。当時メチルアルコールを飲んで死んだ、という噂があった時期である。又キザミタバコの配給があって、私や兄がタバコ屋に並んで買ってきた。それを家で辞書の紙を使って手で巻くのである。当時家の近くに畑を借りて野菜を作っていた。広い畑ではないが、トマトやキュウリ、ナスなどを植えていた。そこには良く手伝いに行った。トマトの出来る時期には、バケツに水をくんで畑にもって行き、その場でトマトを洗って食べたことを思い出す。朝早く行くのでトマトが冷たくて美味しかった。そうしている内に年が明けた。父が大阪の高校に変ることになった。又転校である。1年生の終わりが近付いた頃である。今度は父母兄弟揃って大阪へ行った。両親にしてみたら、やっと大阪に帰ってきた、ということだったと思う。貝塚には他人に貸していた家があった。その家を返してもらい、そこに家族全員落ち着いた。前に私が住んでいた祖母の姉の家からあまり遠くなかった。北小学校には半分以上近付いた。父の実家の近くであった。又北小学校に戻り同じクラスに入った。クラスの人たちや、先生方からは歓迎された。しかしクラスの人たちから「江戸っ子だってネー、神田の生まれヨー」としょっちゅうひやかされた。今思えば軽いいじめである。小学校では給食が始まっていた。パンと牛乳が主であったが、時々不味いとうもろこしの粉で作った団子みたいなパンが出た。アメリカから来たメリケン粉で作った真っ白いパンは美味しかった。当時国道26号線を進駐軍兵士を乗せたジープやトラックがひっきりなしに通っていた。父は大阪に帰って自分の母校である岸和田高校の教頭になった。しかし私が5年生の終わり、豊中の桜塚高校の校長になって赴任した。私達家族は母方の祖父母と兄を残して桜塚高校の官舎に転居した。それと同時に私は豊中市立桜塚小学校に転校した。家は桜塚高校の校庭の端にあって、何時も学生のクラブ活動の声が賑やかであった。私の転校はこれで終わりではなかった。中学は豊中市立三中に入学したが、2年生の二学期、父が大阪府立和泉高校に転勤になった。この学校は岸和田にあり、私も岸和田市立岸城中学に転校した。又転校か、と思ったがもう慣れっこになっていた。この頃には戦後の混乱も大分落ち着いてきていた。学校の自治会やクラブ活動は殆ど自由に出来た。私はハンドボールや軟式テニスを楽しんだ。私は中学校の時から昆虫に興味を持った。豊中三中時代には生物部に所属し、能勢や箕面の山中を捕虫網を持って走り回った。毎年夏休みには能勢の妙見さんに夜間採集に行き、これが今大きな思い出として残っている。当時服部緑地には競輪場があり、桜塚高校の近くには竹薮が多く、筍の缶詰工場がたくさんあった。今は殆どが住宅地になって昔の面影は無い。

その後
私は大阪府立岸和田高校に進んだが、卒業すると同時に父が岸和田高校に変わった。私が同校在学中に父が来なくてよかった。当時昆虫学教室に岩田久二雄先生が居られるのを知り、兵庫農大に進学した。37年卒業して数年後農大は神戸大学に移管された。昆虫学教室には日本のファーブルと言われた岩田教授をはじめ、奥谷助教授、高田助教授、宮本助手、桃井助手等五人の先生方が居られ、昼食時には6人の学生も参加して、食事を共にしながら議論に花を咲かせた。私は一年生の時から、奥谷先生の部屋に机をもらい、応用昆虫学の基礎を勉強した。2年生の終わり頃から天敵である寄生蜂を主に勉強した。卒論はある寄生蜂の生態を研究した。岩田先生は農薬があまり好きでなかった。しかし私は農薬事業部を持つ製薬会社に就職した。入社後最初は福知山にある研究所で農薬の試験と、りんごやなしの木につくカイガラムシの寄生蜂の研究を行った。りんごやなしの木の害虫であるが、りんごやなしの木で害虫を大量飼育することは出来ないので、かぼちゃやジャガイモの芽で害虫を飼育して、それに天敵である蜂を放し、蜂の大量生産を行った。そのため南瓜の生産地から貨車単位でかぼちゃを仕入れたり、北海道から大量のジャガイモを貨車で仕入れたりした。これら寄生蜂の研究は福知山にある農場に研究施設を作り、寄生蜂の大量生産を行う工場も作った。販売を始めたが採算が合わず、結局は技術を国に渡し、会社での天敵研究と販売は終わった。天敵販売としては時期尚早であったのだろう。現在は複数の会社で天敵を販売している。昭和42年私は営業に移った。私は子会社を経て64歳の6月で現役を退いた。子会社で5年近く働いたが、退く前の年の12月会社の検診でPSA値26.5という驚くような数字が出た。その後藤沢市民病院で診察を受け、前立腺ガンが見付かり、MRIなど色々の検査を受けて、幸にも転移していないことが分った。6月に退職したが、その年の12月前立腺の全摘手術を行った。母方の祖父は胃がん、父は肺がんで亡くなっているので、覚悟はしていたが、いざ自分が患ってみると、如何に不安であるか思い知らされた。祖父や父の時代と違って、今は本人や家族に本当の病名を告げる。聞いた時は当分の間ショックが続く。手術を行って早や丸8年が経過する。未だに6週間に一回通院している。この病気の経験を本にし、2007年に出版した。六甲クラブの書庫に1冊置いてあるので、興味のある方は読んでいただきたい。8年前と違って、現在は前立腺ガンの治療は大きく前進した。早く分れば完治することも可能と聞いている。男性は遅くとも50歳になったら年に一回はPSA値の検査をおすすめする。今私は援農ボランティアや友人の会社を手伝い精力的に働いている。結構忙しい毎日であるが、ゴルフもしたいし、海外旅行にも行きたい。実家には母方の姓を名乗っている兄が居るが私は岸谷の長男である。年に何回かは実家に帰り、墓参りに行かなければご先祖様に申し訳ない。今世の中は平和である。戦時中のことや戦後のこと、又前立腺ガンのことなどを知って頂き興味をもって頂けたら幸である。

次回は、34年経営学部卒業の川上泰正氏にバトンタッチします。

以上(2011.10.06)

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第8走者 森本 靖之(S37年海事科学部卒業)

海の顔、大自然そして海賊

怖い顔
「関東地方の低気圧は明朝太平洋に抜け、明日は天気も回復するでしょう」と言う天気予報はよく耳にする。陸上に居る人は「明日は晴れるか」程度の認識しかない。しかし東の海上に去った低気圧の中には、海上でエネルギーを蓄え再び大型に発達しオホーツク海やベーリング海で居座る場合がある。
風の強さと吹き続く時間の長さが波高に影響する。そして吹く風の方向が変わらないとき、波は途轍もなく大きくなる。台風は風は強いが、中心が移動する即ち風向が変わるので、居座った大型低気圧の方が台風を凌駕する波高を造る。

もう20年以上も前の冬の或る日、私は北米航路の大型コンテナ船の船長としてベーリング海を東京港に向け西行していた。海面上25mのブリッジ(操舵室)と同じ位の高さに見える大波に遭遇した。頂部が強風に吹き飛ばされ白濁したどす黒い重量感のある山のような塊である。これが次から次へとやってくる。
流体力学上、波高20mの波は出現しないと言われているが、そう感じさせる程の迫力がある。

船と波とが出会う周期が、自船固有の横揺れ周期と共振すれば、大型船でも転覆に至る危険性が大である。舳先が波にぶつかるとき真っ白なしぶきが高く舞い上がり、前方の視界は白一色となり何も見えない。衝撃で机上の書類は飛び散り、船体の軋み音が悲鳴のように聞こえる。向こうのコンテナが手前のコンテナの背後に見え隠れする。 250mの船体が波打っていることを示している。

船体が40度傾斜した時のことは未だに忘れられない。ブリッジから下を見れば海しか見えず自船の船体が横の方に見えた。出航時には計算によりしっかりと復元性能を確かめており、必ず起き上がる確信はあったが、起き上がり開始までの僅か2〜3秒がものすごく長く感じられた。波頭を凝視しながら船体のローリング(横揺れ)や波濤の打ち上げが小さくなる進路を探して小刻みに変針する。こんなとき船長はブリッジに祀られた神棚に心の中で合掌している。他の乗組員に神頼みの姿は見せられない。
船乗りは波の強大なる威力を体で覚えている。

東日本大震災
 今年3月11日14時46分、事務所に居た私はそれまで経験したことがない揺れを体験した。本棚から何冊かの本が落ちて来たので反射的に何もない壁際に身を寄せた。テレビをつけた。震源地は三陸沖で津波の来襲を盛んに警告していた。都内の鉄道や地下鉄はすべて止まっている。5階の窓から下を見ると近隣のビルから多くの人が道路に飛び出していた。その夜は事務所に泊まることを決め、ずっとテレビを見た。

やがて本当に津波が来た!
防波堤を越え港を覆い、漁船や自動車を巻き込み木造家屋を軽々と載せながらどす黒い津波は平坦な農地や人が住む奥座敷にまで遠慮なく踏込んで来た。何たる光景か。波の怖さを知っている私でも唯々息を呑んで画面に見入るだけであった。

津波と風波は違う
ご存知のことと思うが、津波と風が起こす波とは構造が全く異なる。急激な地殻の変動により起こる津波は、波高が10m以上あっても波長が数kmから100kmと長く洋上では全くなだらかで、洋上航海中の船は全く気付かない。
これが陸岸に近づき海底が浅くなってくると波高は海底に持ち上げられたように高さを増し陸上に這い上がってくる。海抜38mの斜面まで津波が来たというのは、長い波長で海水が後ろから押されて這い上がってきた高さであり、津波の波高ではない。

母なる海
あれから5か月が過ぎた。海が嫌いになったと言う人もいる。残念なことである。地球表面積の70%を占める海は、約43億年前に誕生したと言われている。当時は有毒成分を多く含む死の海であった。それが数十億年の間に陸から水素や酸素、ナトリウムなど多くの元素が流れ込み今日の海が誕生した。やがてその中で原始的な生命が誕生した。母親の胎内で胎児は羊水に優しく包まれて育ち、やがてこの世に産声を上げる。この羊水と海水は、その主成分が同じである。私たちは海から生まれたとも言えるのである。

優しい顔
海はいつも恐ろしい形相を見せるわけではない。必死の思いで大荒れの大洋を航海した後、やがて静かな海が待っていてくれる。晴天の夜間、天空にはこれだけも星があるのかと、大宇宙の壮大さに言葉もない。子供の頃(60年も前のことであるが)に見馴れた「天の川」を英語でMilky Wayとはうまく言ったものだと思う。

海面が鏡のように静かな夏の太平洋で、航行中に出逢った珍しい光景も忘れられない。前方水平線近くが白く見える。まさかこの季節にアイス・シャーベットが存在する訳もない。ぶつかっても被害を被りそうに見えなかったので、不思議に思いつつ近づいた。そして遂に白い海面に突入した。なんだこれは? ブリッジから双眼鏡で海面を観た。なんとそれは帆立貝が集団で蓋を開けて浮遊しているところであった。
海は本当にいろいろな表情を見せてくれる。

今どきの海賊
しかし、これから紹介する海上の出来事は残念ながら自然現象ではない。
「海賊」の話である。これは大航海時代に遡るのではなく今現在起こっている話である。スエズ運河は1869年(明治2年)仏人レセップスにより開通した。その後拡張工事も進み、今やインド洋から地中海経由ヨーロッパへの海上幹線ルートである。サウジアラビアとアフリカ北東岸に挟まれた紅海の北端に運河は位置する。その紅海の南側にアフリカの角と呼ばれるソマリアがあり、幹線ルートは同国の北岸沖を通っている。

東西の冷戦が激しかった60年代、ソマリアにはソ連の傀儡政権が誕生した。しかし国は安定せずやがてソ連は引き揚げていった。代わって米国が介入したがこれもうまくいかず米国も引き揚げてしまった。そしてこの国に残ったのは米ソが置いていった武器と混沌だけであった。国内には産業も資源もなく、最貧国に挙げられている。

沖合の豊富な漁場には外国の高性能な漁船が魚を獲っていく。やがて漁民たちは手もとにある武器を持って外国の漁船を追い払うようになり、中には漁船を強奪し人質を取って身代金を要求するものが出てきた。身代金は簡単に支払われた。細々と魚を獲るよりこちらの方が余程儲かるという噂は広まり、各部族は「魚」に替え「漁船」を狙い始め、漁民はやがて海賊に変身していった。当初は漁船が対象であったが、沖合を航行する小型の商船も狙い始め、やがて大型商船も狙うようになった。機関銃と対戦車ロケット砲で脅された丸腰の商船は、スピードを上げて逃げる以外に何ら抗すべき手段がない。この数年でその件数が大幅に増えた。昨年は220件もの海賊行為が発生し1,016人が人質となり抵抗した船員が13人も殺害されている。

この事態を国際社会も看過できず、国連安保理は各国に航路警備のために艦艇の出動を決議した。EU艦隊やNATO軍、米国艦隊など欧米の海軍に続き、インド、中国など約20ヵ国から艦艇が派遣された。我が国も2隻の自衛艦を派遣してくれた。しかし自衛艦には自衛隊法により日本と関係のない船舶は護衛できないという制約があった。それまで日本の商船は米、独、露やインド等の艦艇が組む船団に護衛してもらったのに、自衛艦は日本と無関係な船を船団に加えることが出来ない。これは国際的にも恥ずかしい話であり、現場と乖離した自衛隊法を補完するべく、海賊対処法案が衆議院特別委員会に上程された。

海の男の仁義
船長協会会長として私は衆院から参考人招致を受けた。現場を通る船長の苦悩を披露し、船員法第14条に規定された「遭難船救助義務:船長は他船の遭難を知ったとき自船に急迫した危険がない限り救助に向かうこと」を引合いに出し、国籍に関係なく救助は実行されねばならず、それが海の男の仁義であると訴えた。海賊対処法は衆議院を問題なく通過した。この経験で私も初めて知ったことあがるが、数多ある日本の法律にはこれまで「海賊」という文言が一切登場していなかったことである。したがって海賊対処法は先ず海賊の定義付から始まっている。

最近の海賊行為は更にエスカレートして出没範囲がインド洋いっぱいに広がった。乗っ取った5千トン級の中型船を人質を載せたまま海賊船に仕立て、他船を襲うケースも出てきた。欧米諸国の商船では武装警備員を載せる船も増えつつあり、我が国でも対応の仕方が頭痛の種となっている。武力行為がエスカレートしない対応が望まれる。今まで幸い日本人の被害者は無く、また内地から遠い出来事であるためか、この現状は一般の人々にはあまり知られていない。

9.5億トンの貨物
我が国は石油や石炭、天然ガスなどエネルギーの99%、8億トンを輸入に頼っている。自動車やプラント等の製品輸出が1.5億トン、合計9.5億トンの貨物が我が国の貿易量であり、重量ベースではその略100%を船が運んでいることをご承知おき戴きたい。

以上、リレーの場を借りて我が国の経済活動を海上で支えている海運の一端を紹介させて戴いた。次回の走者は、37年農学部卒業の岸谷靖雄氏にお願いします。

以上(2011.08.27)

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第7走者 青山 徳次(S38年経済学部卒業)

クラシック音楽を聴きながら半世紀

我ながらキザなタイトルだと思う。大体自分の趣味をペラペラと人様にしゃべるものではない。特にクラシック音楽の鑑賞などと言う話は、同好の士ならともかく興味のない人には単なる自慢話を聞かされるようなものだ。中途半端な私などとは違って、プロの評論家顔負けの一家言も二家言もあるクラシックファンは多い。だが音楽鑑賞はその人の感性と結びついた個人の楽しみだから、読書や映画鑑賞と同様、他人と比較したり知識を披瀝したりするものではない、極めて独りよがりで自己満足の世界だと思う。
と言いながらこのような一文を披露するのは、齢70も越え、持ち時間も残り少なくなってきた昨今、一度くらい長年の趣味を語ってみたいという誘惑に負けたからで、読者の皆さんには申し訳ないが、身勝手な思い出話に暫くお付き合いを願います。

  1. 音楽鑑賞も成績に反映(中学時代の思い出)
    私が当時通っていた中学では音楽の先生が熱心で、生徒各自にラジオや演奏会で聴いたクラシック音楽の感想をノートに書かせ、これを成績評価に反映させることになっていた。この教育によってクラシック音楽が好きになり、当時の大阪では唯一の本格的オーケストラ、朝比奈隆率いる関響(関西交響楽団、現大阪フィルハーモニー)や、上田仁指揮の東京交響楽団などをよく聴きに行った。
    当時は未だ土佐堀のフェスティバルホールはなく、桜橋のサンケイホールや大手前の毎日ホールがその会場であった。今でも良く覚えているのは、道頓堀の松竹座で行われた指揮山田耕筰、独唱藤原義江の演奏会であった。「からたちの花」や「この道」など山田メロディが中心だったと思うが、晩年とは言いながら(山田69才、藤原57才)この日本を代表する二人の巨匠に接し得たことだけでも大感激であった。
    感動したと言えば、米国から来日した黒人だけの男声合唱団「デ・ポーア合唱団」、宝塚大劇場で聴いたフランスの天才ピアニスト サンソン・フランソワのリサイタル、など自分がどこまで分かって聴いていたかは別にして貴重な思い出である。
  2. 楽器の届かないオーケストラ演奏会(海外での思い出)
    会社時代では2回の海外駐在があり、一回目のベルギー・ブラッセルではヨーロッパ各地の有名な演奏家たちのコンサートに接することができた。晩年のウイルヘルム・ケンプの演奏会では買った切符の席が演奏ステージの上で、自分たちのすぐ前でケンプが演奏しているのでこちらが緊張した。そのほかベルギーの誇る名ヴァイオリニスト アルトゥール・グルミオーのリサイタル、古都ゲントの古い教会で行われたエリー・アメリング(ソプラノ)とイエルク・デームス(ピアノ)のジョイントコンサート、などや、ウィーンフィルをはじめアムステルダム・コンセルトヘボウ、ロンドン響、ゲンバントハウス管などヨーロッパの第1級オーケストラの演奏に思い出は尽きない。
    二回目の駐在地アメリカでの忘れがたい演奏会は、ゲオルク・ショルティ率いるシカゴ交響楽団のサンフランシスコ公演。7時からの演奏会がなかなか始まらない。30分も経ってから主催者から説明があり、昨日シカゴを出た楽器が途中の雪のため未だ到着していない(楽団員は到着しているのだが)、今暫くお待ち乞う、とのこと。ところが1時間経っても未だ来ない。ついにショルティが弦楽奏者と共に出てきて「しばらく私どもの室内楽でお楽しみ下さい」と言ってシューマンのピアノ三重奏曲やショルティ自身のピアノソロ(ショルティはピアノの名手)を聴かせてくれた。思わぬサービスに我々聴衆は大喜び、オーケストラの楽器は遂に到着せず結局サンフランシスコ交響楽団の楽器を借りて演奏した。おまけ付きの印象に残る演奏会であった。
  3. 建設機械メーカーがクラシックコンサート?
    会社時代の晩年、世はバブルに沸いていたが、いつも会社間でやりとりされている中元、歳暮の山をみてバカバカしいと思っていたので、当時の社長に「中元、歳暮をすっぱり止めてその代わりに音楽会にお客・関係者を招待したらどうか」と進言、以降3年間コンサートを会社名で主催した。いわゆる「冠コンサート」だが、日頃クラシック演奏会に縁の少ないユーザーや代理店の人々に大変好評であった。
    1年目は、アンドリュー・デイビス指揮、竹澤恭子ヴァイオリンのBBC交響楽団、2年目はロリン・マゼール指揮のピッツバーグ交響楽団、3年目はシャルル・デュトワ指揮のモントリオール交響楽団であった。
  4. 老後は安・近・質のコンサートと合唱団
     会社を卒業すれば年金生活。もっぱら安価で質の良いコンサートを近くで聴く、という方針で、主として武蔵野市民文化会館でのコンサートを家内と二人で楽しんでいる。それと共に、長年細々と続けてきたコーラスを「東京六甲男声合唱団」(東京在住の神戸大学グリークラブOBを中心に発足、今や他大学の卒業生や合唱経験のない人も入っての楽しい合唱団)で仲間と共に楽しんでいる。来年(H24年)4月14日に第4回定期演奏会を浜離宮朝日ホールで開催しますので、乞うご来場。
  5. オーディオと生演奏
    大して裕福ではなかった昔の我が家に何故か電蓄があった。中学時代に始めて買った(買ってもらった)レコードは78回転SPのフルトヴェングラー/ベルリンフィルの「運命」だったが、以来オーディオ技術はどんどん進化し、貧乏人の当方はLPからCDへのステレオ装置を追いかけるのが精一杯。家ではCDなどを楽しんでいるが、アンプやスピーカーにお金をかけて純粋に音を楽しむオーディオマニアには到底なれない。負け惜しみではないが、何ども録音をやり直して最高の音を聴かせるレコードやCDよりも、演奏者がステージの上で精魂込めて演奏する一発勝負の緊張感の方にはるかに魅力を感じる。

音楽やスポーツは好きだが中途半端な才能しかない私にとって、クラシック音楽を聴くという趣味は、ささやかながら我が人生を彩ってくれる貴重な財産である。この財産を持たせてくれた中学の音楽の先生と両親に今でも感謝している。

次回のリレー随筆(第8走者)は、我が敬愛する海の男、「日本船長協会」会長の森本靖之さん(37年神戸商船大学卒、現在、学友会東京支部・海事科学部代表)にお願いします。

以上(2011.06.28)

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第6走者 滝沢 章三(工学部建築学科S39年卒業)

イイジジーライダー

子供の頃から乗り物が好きだった。小学校の帰路、須磨寺駅横の線路柵によじ登って山陽電車が通過するのを飽きもせずに眺めていた。省線(JR)須磨駅の改札係の兄ちゃんと仲が良かった。改札ボックスの中に入って切符にハサミを入れるのを手伝った。あの頃はそんなことをしても誰も文句を言わなかった。景品付きのグリコやカバヤのキャラメルが1箱10円、市電の切符が子供で5円か7円だった。キャラメルを買うからと貰った 10円札を丁寧に折りたたんでポケットに入れ、須磨発・三宮経由須磨戻りの巡回市電に飛び乗って、車窓を流れて行く神戸の街を、これまた飽きもせずに眺めていた。

16歳のとき、学校をサボって明石の大蔵谷にある運転試験所に行って軽免許を取ってきた。試験車はボロボロのラビットスクーターだった。当然ながらオートバイは持っていない。近所の八百屋を口説いて配達用のバイクを借りて乗った。
大学に行くとき、建築をやろうか、飛行機のパイロットになろうかと悩んだ。建築に合格したのでそのままになってしまったが、今でも飛行機乗りになっていた方が良かったのではないかと思う事がある。
大学2年、姫路の教養を終えて六甲台に来た頃、須磨寺商店街の豆腐屋の息子が「知合いの廃品業者のところに電報配達のオートバイが放出された。まだ十分に乗れる。5 千円だ」と教えてくれた。アルバイトで家庭教師をやっていたので買える値段である。すぐに兵庫駅近くの廃品倉庫に行き、街でよく見かける空色のトーハツ125ccを手に入れた。
それから2年、くだんの廃品倉庫に淡路島で使っていた白バイが入った。メグロ(現、カワサキ)の単気筒500cc。その足で大蔵谷の試験場に行き自動2輪免許を取ってきた。しばらくそのメグロに乗っていたが、28歳のとき、二人で乗れるテントウムシのようなスバル360に換えた。「走れコータロー」と言う歌がはやっていた。

そして時が流れた。還暦を前にしてオートバイの夢を見るようになった。もう一度乗ろう!中古バイクの物色を始めた。
オートバイはそのスタイルによってアメリカンタイプとヨーロピアンタイプに大別される。前者の代表はハーレーダヴィッドソンで、サドル位置が低く足(Foot)をかなり前に置くような乗車姿勢になる。エンジンはV型2気筒が多い。後者の代表はイギリスのトライアンフやドイツのBMWで、サドル位置が高く足は後ろに引いて体軸線上に置く。日本のメーカーはいずれのタイプも造っている。まずは乗りやすいホンダのアメリカンタイプの750ccから再スタート、慣れたところでヤマハ・ロイヤルスター1300ccを求めた。このヤマハはアメリカンタイプなのにV型4気筒と言う変り種であった。

65歳になってヨーロピアンタイプに乗り換え、つい最近まで水平2気筒のエンジンを積んだBMW 1100ccに乗っていた。70歳になり、重たい車体をブンまわすのがしんどくなったので、少し軽目のホンダ・デュービル700ccに替えた。軽いと言っても250kgほどあり、時速150q位は簡単に出る。このオートバイはヨーロッパからの逆輸入車で日本ではほとんど見かけない希少車である。毎年夏には仲間と温泉と美酒を求め、無線で連絡を取り合いながら3泊か4泊の遠距離ツアーに出かける。高速道路で、マイクを仕込んだヘルメットをかぶったジジイが無線のアンテナを立てたオートバイに乗ってあなたを追い抜いて行ったら、ひょっとしたらそのライダーは私かも知れへんで。

次回の執筆者は経済学部38年卒の青山徳次氏です。

以上(2011.03.10)

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第5走者 中野 裕(文学部S36年卒業)

入社の頃と、タイ駐在の思い出

私は、昭和36年文学部英米文学科卒(9回生)で、英語の教師になることを目指して居たのですが、準硬式野球部で野球をやっていたことが、商社勤務への道すがらとなりました。大学の4年生になり、野球部の同僚(9人在籍)の殆どが就職を決め、決まっていないのはごく小数でした。公立学校の教師になるには、年末の試験を受ける必要があり、これに合格しないとまた一年棒に振ることになるのです。野球部所属の六甲三学部、工学部の同僚は全て就職先の内定を得、悠々自適の生活を送っていたと思います。理学部の先輩が自分の勤める商社(故鳥羽貞三さんが社長をしている会社)が野球部を強くするために全国から人を集めているので、東京に来ないかと誘われ、上京し、会社の人事担当常務との面談のみで、無試験での就職の内定を得ました。まさに「芸は身をたすく」を地で行ったと思っています。卒業までの間に卒論「The Study of Subjunctive Mood in the Tale of King Arthur written by Sir Thomas Malory」を英文で書き、しかも英文タイプで仕上げることが義務づけられていたこともあり、在学中にタイピスト学校を卒業しました。一分間に60ワード以上をクリアーしたわけです。野球部の活動に注力しつつも、英語の会話の授業には、可能な限り出席し、英・米国人の教師との会話に参加し、相当厳しく仕込まれましたが何とかクリアーしました。外人に対するインフェリオリテイコンプレックスはこの時なくなったと思います。

在学中に得たものとしては、友人関係(文学部の友人関係、それに野球部での学部を超えた友人関係、これは今も続いている)および野球部の先輩諸氏との関係が構築出来たこと、英文タイプが打てたこと(通信手段が電報に始まり、テレックス、イーメールと英文タイプの素養が生きたこと)、外人に対するインフェリオリテイコンプレックスがなくなったこと、卒論ではカード手法を用いたが(同じ仮定法がどれくらいの確立で出てくるか自分でカードを作成し利用した)、これが会社人となってからの客先カード作成、集計作業に大変役立ちました。

昭和36年(1961年)3月には、会社からの要請もあり、神戸支店にアルバイトとしての活動を開始、当時の支店長は元三井物産のベテラン商社マンであり、出来るだけ多くの商業英語を身につけるようにとの指導があり、会社では毎日英字新聞を読み、また会社の資料の閲覧をもとめられ、時間を見つけては、商社マンとしての心構えの講話があり、後に大変役立ちました。半日は事務所での仕事、半日は外回りで、神戸港の埠頭には、殆ど毎日通い、物流の何たるかを学びました。

4月になって、正式に社員としての辞令を得て、横浜支店勤務となりました。神戸支店と同様に「受渡し」業務が中心で、東京本社が契約した輸出入の「受渡し」を行っていました。横浜支店では、毎日英文での日記を書き、上司に提出が義務づけられ、否が応でも商業英語を使用するようになり、その上船荷証券(B/L)、保険証券(Insurance Policy)の裏面約款の翻訳など商業英語の習得に努めました。貿易の基本は「受渡し」と「財務・経理」にあり、営業はそれらの業務をマスターして初めて成り立つとの指導の元、業務推進を行いました。指導員として、大学の先輩の方が担当してくれ、このベテラン指導員のお陰で貿易実務のマスターの度合いが他の人よりも早く、またより充実していたと思います。当時の横浜は大桟橋の近辺を中心にパシフィコ横浜あたりから山下公園のあたりまで、ブイがあちこちにあり、大型の貨物船がところ狭しと停泊していました。

輸出では、自社の貨物の積荷が、艀から無事積み込み終了したかどうか確認するために、また輸入では自社の貨物が無事艀に積み降ろし完了するかどうか確認するために、停泊している船舶にスピードボートで出かけ、つり梯子に翻弄されながら、本船上に上がり、貨物の確認をしたのですが、目視だけでは、こころもとないので、貨物が無傷であるとの書類を手にするまでは、気の抜けない仕事でありました。支店の先輩の担当ではあったのですが、お手伝いとして、本船から要望があれば「潤滑油」の供給に、季節を問わずスピードボートで出かけて行っては、これもつり梯子に翻弄されながら、本船上に上がり「潤滑油」供給をしました。詰襟の学生服を身に纏っていた身には、なぜこんなしんどい仕事をやらないといけないのか疑問に思ったこともありました。しかし、本船上では暖かく迎えてくれる船員も居り、にっこり笑って握手をしてくれるとなんだかほっとした感じになったことが多々ありました。

当時、ソ連向けの鋼材の輸出の仕事が多く、この受渡しを行っていましたが、他の航路とは違い、ソ連船の場合、船荷証券へのサイン権は船長が持っており、船長のサインを貰わないとファイナルにならないような仕組みになっていました。他の航路・船では、一等航海士(チーフメート)がサイン権を持っており、このチーフメートの発行するメーツレシートに従い、エージェントである船会社が船荷証券にサインをしてくれることになっていました。従いメーツレシートにRemarkが入っている場合は、貨物主がエージェントである船会社に保証状を入れてこのRemarkを抹消してもらうシステムになっていました。ソ連船の場合は、船長がRemarkを入れてしまうと、エージェントである船会社では訂正が利かないので、Remark 付のFoul B/Lとなり、銀行に船済書類一式を持ち込んでも、銀行はこのFoul B/Lでは金にしてくれないことになり、ソ連船の場合は、他の船以上に神経を使い、船長へのお土産などを準備し、好感を持ってもらうように気をつけた次第です。

横浜支店の一年間は、貿易実務をマスターした一年であり、これが将来の我が商社マン人生に大きな影響を与えた一年であったと思います。貿易実務は世界共通であり、駐在した中国、タイ、フィリピンの現地職員に伝授し、それが今も生きていると思う次第です。

この後、東京本社に移り、金属部に所属し、鉄鋼全般・スクラップなどの営業を担当し、 1967年の初訪中(文化大革命時代の中国への長期出張)これが国交回復後の1973年まで続くのですが、この経緯などは高校8期生の50周年記念誌に載せた関係上、今回は1975年から 1982年および1986年から1989年の合計9年にわたるタイ駐在の思い出話を下記します。

タイ駐在雑感

第一回目のバンコク駐在のため、雲ひとつない碧空のバンコク・ドンムアン空港に降り立ったのは、1975年11月3日でありました。66年から始まった中国文化大革命のさなか、長期出張十数回の訪中を終えてのタイ赴任でありました。革命歌・舞踊を毎日のごとく見聞し、毛語録を毎日学習した重苦しい生活から開放されてのものでありました。 ドンムアン空港は、田舎のひなびた空港であり、外観は当時の広州白雲空港と非常に似通っていましたが、大きく異なるのは、広州には、毛沢東主席の詩歌がところ狭しと垂れ下がって居り、緊張感が絶えずありましたが、バンコクには、緊張感が全くなく、フリーカントリー(Thai Land)の様相を呈していました。 税関検査を終え、空港の玄関を出たが、あちこちが洪水になっていました、迎えに出てくれた先輩の説明では、11月からバンコクは乾季になり、雨が降らないが、北方800キロのチェンマイあたりで雨季に降った雨水が、メナム川(チャオプラヤ川)を行きつ戻りつして、バンコクまで来た時期と高潮とぶち当たり、海抜ゼロメーターのバンコクの下水道を逆流して、街にあふれているとのことでありました。道路の両側には、今は無きクロンと呼ばれる川が流れており、ボート・艀の類の船が往来し、船での行商が行われていました。のどかな良き時代のバンコクでありました。今はこのクロンは埋められ、道路の幅は広がっています。クロンに逃げることの出来ない水が行き場を失って時には大洪水を起こしていました。

雨季の洪水は年中行事でありました。高速道路が整備されている現在、下の一般道路を走ることも少なくなって来ており、洪水を見る機会が少ないかも知れません。

タイはラオス・カンボジア・ベトナム・中国・ビルマと赤色の社会主義・共産主義国に囲まれ、今にもピンク色に染まるような時代でありました。将にカントリーリスク100%と言われた時代です。その後の発展は東南アジアでとび抜けています。

タイは外国からの政府借款(ODA)を上手に使用し、インフラ整備に努め、アジアの国の中では珍しくインフラの充実した国となっています。これは全て国民の絶大なる信頼・尊敬の念を集めている現在のブミポン国王・ラマ9世の影響力によるものであることは周知の事実であります。タイ人は当時貧しいのに何故いつも微笑んでいるのか、疑問でしたが、生活してみて、タイは裕福な国であると思い始めました。 物質文明の中に居る我々日本人から見て貧しいと感じたのですが、豊穣な土壌を持ち食糧の自給自足が出来る国であり、海や川や池には沢山の魚が手でつかめるくらい居り、道端には野生の果物が生育し、布一枚あれば暮らせる国であるのです。仏教を支えにしたこころ豊かな国であるのです。微笑みの国、東洋のベニス、仏教の国と一般に言われています。ベニスは水が多いので、タイを東洋のベニスと呼んでいると思うのですが、私は遺跡などの美しい文化遺産を持つナポリに似ていると思います。この国に商社の駐在員として通算9年も駐在することになるとは夢にも思っていなかったのですが、今や第二の故郷と呼べるまでになりました。上記の野球部の同僚とは今も年に最低一度はタイ訪問を実施し、タイの良さを満喫しています。外国企業の進出により工業国になろうとしていますが、緑豊かな自然を保ち東南アジア最大の穀倉国としてのタイの良さを何時までも残し、農工業国として、日本を含め世界の食糧の宝庫としてのタイ国であって欲しいと願うものであります。

最後にブミポン国王のご長寿をお祈りして。  (完)

このリレー随筆の次ぎは、工学部の滝沢章三様(39年卒)にバトンをお渡しします。滝沢さんよろしく御願い致します。

以上(2011.03.10)

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第4走者 赤井紀男(教育学部S38年卒業)

コミュニケーションのとり方に思う

私は、教育学部・理科卒で、企業へ飛び込んだ異端児です。当時の教育学部卒の人は全てと言っていいくらい、教師になっていたので、企業へ行く人はほとんどいませんでした。かく言う私も、小学の4〜6年生のとき、軍隊帰りの体育系の正義感あふれる先生に感動し、教師になる事を決め、早い段階から、神戸大学教育学部と決め、入学しましたが、姫路分校時代に、下宿で、寝食を共にしたのが経営学部の人だったことや、クラブ活動においても、経営学部、経済学部、工学部などの友人が多くなり、彼らとコンパなどで語り合っていると、日本経済に寄与する意気込み・夢が素晴らしく、次第に企業への憧れを持つようになった。さらに専門課程では、理学部で授業を受けることが多く、益々、企業人になる事を決意した次第。この人生の大きな転換には、「生の声」を聞き、意見交換したことが大きいと思う。その後、企業で、製品開発に携わったが、同期生はもちろんだが、多くの先輩たちとのノミニケーションを通じ、色々な意見交換、助言を頂き成長させて頂いたが、その中で、「人間、考えることは同じで、時期も同じである、いかに早く行動し、成果を出すかが勝負」であることの言葉は、私の人生訓「早思・即動」――早く思い巡らし、60%程度の案が出来上がれば、即行動する―を持ち、生きがいのある仕事が出来たのは、FACE TO FACEのいいコミュニケーション(ノミニケーション?)が取れてきたことによると感謝している次第です。

ところが、ITの急速な進歩により、いつでも、何処でも、高度な情報を入手できる、いわゆるユビキタス時代となり、大変便利となってきていますが、コミュニケーションのとり方に疑問を感じる昨今です。
現在、会社などでは、PCが全員に配られ、出張報告、連絡、意見交換など、ほとんどのことをメールで済ますような状況にあり、海外との連絡もテレックスの時代を経験しているものにとって、スピードあふれる仕組みになっているように思われるが、込み入った問題でのやり取りでは、メールに頼りすぎて感情的になったり、連絡にしても、当日の変更を安易にメールでやり、読まなかった人に、迷惑をかけたりなどが発生する経験を持っている。コミュニケーションの基本は、FACE TO FACEであるということが判らなくなって来ているのではなかろうかと思うこともしばしばである。

家庭においても、若いお母さんを見ていると、子供を、遊園地や、児童館に連れて行っていながら、子供たちを適当に遊ばせていて、自分は、携帯電話で、メールしているのか、ネットで何かを検索しているのかわからないが、しきりに指を動かしている人がいる。子供は、そんな親を見てどのように思っているのかと思うと同時に、子供とのコミュニケーションのとり方、どのようになっているのか心配である。

児童虐待、少年の殺傷事件など、新聞をにぎわすことが多いが、これらの原因は、家庭内のコミュニケーション不足が、主たる原因になっているというのは言いすぎだろうか?
情報を欲しがるのは、情報を早く取ったものが勝つというのが世の中なので、人間の習性と考えるが、情報を取りに行く動作で、安心感を持つようになっている?
いつかのTVで、中学生が、友達からメールが来なかったら友達からはずされたように感じるというのを見たことがあるが、異常な感じを受けた。情報過多の時代、ツールとしてのPCや携帯端末に使われている感がある。

最近の企業では、PCを個人に与えず、グループで使うとか、CADにしても、入社1年は使わせないなどの工夫をし、ITを上手く使うことを進めている企業もあるようだが、個人も、コミュニケーションツールとしての上手な使い方を考えるべきだろう。コミュニケーションの基本は、FACE TO FACE であることを意識し、進めてもらいたいものだ。

次は、中野 裕さん(文学部S36年卒)にバトンを渡します。

以上(2011.02.01)

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第3走者 楠本昌彦(医学部S61年卒業、大学院医学研究科H4年修了)

クラブの禁煙化を歓迎

私は都内のがん専門病院で放射線診断医として働いています。 平成10年に神戸大学医学 部附属病院から転勤してきて、今年で13年目を迎えました。神戸大学時代から肺がんの 診断を専門にしており、当然肺がんの患者さんとの関わりが多いのですが、周知のよう に肺がんになることと、たばことは深い関係にあります。たばこを吸っていると肺がん になりやすい、これは子供でも知っている周知の事実です。

ではたばこを吸っていると、肺がんになりやすいだけでしょうか。 答えはノーです。 たばこを吸っていると、肺がん以外のがんにもなりやすいことが分かっています。 喉の 奥にできる喉頭がん、食道がん、すい臓がん、膀胱がんなどがたばこに関係するがんで、 特に食道がんは、たばこに加えてお酒とも深い関係があります。

さらに、たばこは、がんが出来やすくなるだけではなく血管も痛めるため、心筋梗塞、 脳梗塞といった血管の不具合が引き起こす重い病気にもなりやすくなります。また、肺 がんにはならなくても、慢性閉塞肺疾患(COPD)と言って、ちょっとしたことで息苦し くなる肺の病気にもなります。歯周病など歯にも悪い影響を与えます。しかも、このよ うな病気になるのは概ね60歳を越えるころからです。また肺がんが見つかる頃には、こ のような多種類の病気が同時にみられることも少なくありません。

では、自分自身がたばこを吸わないだけで十分でしょうか。答えはノーです。受動喫煙 と言って、他人の吸うたばこの煙でも健康に害があることがわかってきました。従って 、人が多く集まるような場所ではたばこの煙にさらされないような仕組みが必要です。 この度、東京六甲クラブも禁煙になることが決まったとのことで大変歓迎しております 。クラブに集まる方々や働く人々の健康被害を抑えることができますし、クラブ内にあ る立派な壁画「青春」の劣化や汚れを少なくすることにも寄与するでしょう。一部の愛 煙家の方々には少々不自由な思いをされると思いますが、ご自身の健康のためにこれを 機会に禁煙されることをお勧めいたします。

次は、赤井紀男さん(教育学部S38年卒業)にバトンを渡します。

以上(2011.01.17)

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第2走者 弓場 敏嗣(S39工学部卒業)

退職後の優雅な生活

3年前に退職して、年金生活を送っている。最近想うことは、生まれてこの方70年におよぶ年月のなかで、昨今ほど心穏やかに時間を過ごせることはなかったのではないかとの感慨である。物心ついた子供時代あるいは小学校での勉強や友達との遊びは、必ずしも心が躍るものではなかった。中学校では毎学期2度の定期試験が行われ、同級生との交友関係を含めてストレスの多い環境であった。高校時代には何となく先の見えない不安が立ちこめ、取り敢えずは受験勉強に通じる数学の問題集を解くことに熱中していた。一方、ドストエフスキーなどの文学作品を読むことで、哲学的不安感を昇華させていたように思う。大学生活は、学問をやっているとの実感もなく、知識の詰め込み教育に飽きて、勉学への意欲が減退したまま過ごした日々であった。大学院(修士課程)への進学は、学問への未練であるとともに、就職へのモラトリアムであったと、今にして思う。

私の勤め先は、民間のシンクタンク系研究所、国立研究機関、大学と移り変わった。各職場は社会的な存在意義を有し、それなりに活力があったので、刺激的で忙しい毎日を過ごすことができた。中でも在職25年に及んだ国立研究機関での研究生活は、自由で居心地のよい環境であった。とはいえ、若いときは自分自身の将来のために、管理職になれば組織としての存在感を示すために、研究成果をあげ続けねばならないことに多大な緊張を強いられていた。結局のところ、どんな職場であれ働いて給料を得るという環境は、そこで働く人間に安穏とした生活を送らせてはくれない。

さて、現在の生活はどうか? ストレスの原因となる他からの圧力は、家庭内を含めて、今のところはない。定年退職後に多くのひとが経験する社会的存在理由の喪失感は、個人によって程度の差があるようだ。社会的存在理由の文脈切り替えがうまくいけば、多くの場合、問題はないと思う。私の場合、居住する地域への貢献を願って、福祉や平和事業の市民委員活動に加わるとともに、昔自分の子供が世話になった小学校の学校評議員を務めている。また、解体しそうな旧職場のOB会活動を活性化したり、大学同期会友人とのネットワークを介した交流を活発化することを心懸けている。多少、頭を使うこともやらなくてはとの配慮から、顧問的立場での学術的な研究会活動や、ボランティア活動に近い大学非常勤講師にも携わっている。囲碁は4級程度の初心者なのだが、棋力向上を目指して近隣住民の囲碁クラブに顔を出している。

このように見てくると、現在の自分は、人生にかってない程の<優雅な生活>を送り得ているのではないかと思われてくる。あるいは、遠くない先、確実に待ち受けるであろう<死>に至る、つかの間の平穏なのかも知れない。それを自覚した上で、心静かに現在とこれからの生活を楽しみたいと願っている。

次回の執筆は、国立がん研究センター中央病院の楠本昌彦さん(S61医)にお願いします。楠本さんは肺がん専門医としてご活躍の一方、神戸大学学友会東京支部の医学部代表として同窓会の発展に寄与されています。

以上(2010.11.30)

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第1走者 繁田 惠弘(S36経済学部卒業)

道は続く

1966年に開設された「神戸大学東京凌霜クラブ」がこのたび「神戸大学東京六甲クラブ」と改称され、新しいスタートを切った。今回リレー随想のスターターに指名されたので、長らくクラブの運営に関与してきたメンバーの一人として、思い出に残る出来事を2件申し述べてみたい。

<クラブの移転問題>
先輩各氏、各企業の拠出による基金をベースにしてスタートしたクラブの運営も、長年の赤字により基金の残高が減少を続け、運営の危機が一部で指摘されていた。もう随分以前のことになるが、ある時の役員会の席上で幹事役より、クラブ存続の抜本策として「クラブの移転案」が提示された。赤字の主因は相対的に高い賃料であり、場所を浜松町〜品川、あるいは渋谷、新宿、池袋あたりに移せばそれが半額ぐらいまたはそれ以下になること。バランスシート上ではまだ1千万円を越す余裕があるが、撤去と引越に要する費用を考えると現状でぎりぎりのラインであるとの説明があって、会議の席は大騒ぎとなった。
大論争の結果、交通至便のこの場所はなんとしても死守すべきであり、そのために、会員増強や運営改革、それに強力な賃料交渉などにより、懸命に収支均衡を目指して努力することを条件にして、この場所に踏みとどまることが辛うじて決定された。もしあの時に移転やむなしとして場所を移していたらどうなっていただろうか。おそらく利用者の減少、会員減などによりクラブは存続し得なかったのではないだろうかと思う。 1966年にスターとしたこの道は、このときほとんど消滅しかかっていたのだと、あとになって気がついたことである。

<壁画原画の修復>
クラブの開設からほどなくして、中山正實画伯(大8)から寄贈をうけた六甲台図書館壁画「青春」の原画が、長年の掲示による傷みや汚れが目立ち、これを修復しようということになった。まだ収支均衡を達成する前のことであり、多額の費用をかけてこれを実行することは、なんとしてもこの場所を維持するのだという不退転の決意をすることでもあった。
当ビル8階にある出光美術館より、同美術館所蔵品の修復を請け負っている工房を紹介してもらい、原画の修復費用を見積もってもらうと、300万円強とのこと。ただちに会員に呼びかけて寄付を募るとともに、原画を搬出し修復に取り掛かってもらった。
修復期間中に所沢市郊外にある工房を訪ね、修復作業の進行状況を見せてもらった。よどんだ沼だと思っていたのが青々とした湖面になっており、くすんだ若者たちの像が活き活きとした青年の群像としてよみがえりつつあるのに感動した。絵の亀裂部分は本当に丁寧な手作業により修復されつつある。汚れやくすみの主因は喫煙によるものとのこと。これを契機に原画が掲示されている会議室は禁煙とすることになった。
会員の協力により目標の金額も集まり、数ヶ月の修復作業を経て原画が元の場所に設置され、披露されたときの感激は忘れることが出来ない。
クラブの運営状態だが、壁画原画の修復から2年後に遂に念願の収支均衡を達成した。以降も黒字が継続している。この道は、途切れることなく見事に繋がったのだ。新しいクラブ運営のスタートを機に、この道がますます広くなり、確実に未来に繋がるよう、みんなで協力していきたいと思う。将来に幸多かれと祈りたい。

次回は、電気通信大学名誉教授の弓場 敏嗣氏(S39工)にお願いします。

以上(2010.09.14)

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第11走者 山岡 高士(S46年工学部機械工学科卒業)

「社会へ出て45年」

1971年(S46)4月に社会へ出て45年となる。大学へ入学した頃から、後に“大学紛争”といわれた騒がしい時代であった。3年生時のほとんどが大学はロックアウトで、授業もなく、企業での“工場実習”もなく、「このまま社会へ出て機械技術者として勤まるのか・・・。」と思いながらの1970年5月25日に、漸く4年次へ進級した。

4年に進級した直後に日本IBM(株)からコンタクトがあり、“渡りに船”と就職した。サラリーマンとしての19年間は、製造業を中心とした企業の業務革新を支援した。41歳で独立し“ITを活用した業務革新支援”を業とする会社を創業し21年間を過ごした。2008年に医療情報とネットワーク関連の会社の社長を兼務することになり、4年前にその会社と創業した会社とを合併し退任、顧問になった。

起業して数年経った頃に、ある経営者の会で筑波大学の村上和雄先生(当時教授、現名誉教授)にお会いし、当時の先生の研究テーマ“人レニン”の研究についてお聞きする機会があった。レニンは高血圧を司る酵素で、フランスのパスツール研究所と米国のマサチューセッツ工科大学(MIT)と競争し、絶体絶命の状態から、ある出会いを機に逆転し、“世界の村上”になられた経緯を克明に聞かせていただいた。その後世界的な共同研究で“人の遺伝子構造”を100%読むことにチームとして成功された。先生は生命の誕生から約10億年の歴史が克明に描かれた遺伝子構造を“生命の暗号”と称されている。現在もDNAとして描かれている遺伝子構造の90数%はその意味(価値)が分からない状態とのこと。共同研究者のあるメンバー達は「今、分かっていないのは“ジャンクだ”」と言っているとのことだが、村上先生は「今後起こるかもしれない“パンデミック”等に対応するための冗長度だと考えたい」とされている。

約20年間に何度となく先生のお話を聞かせていただいているが、いつもその中身は京都大学の講師時代の60年安保時のご苦労と“人レニン”の研究時に世界の研究仲間から“ドクター35,000頭”とあだ名されたお話から始まって、その時点その時点での研究テーマの進捗状況を、我々にもわかり易くお話しいただいている。つい最近のお話では“眠っている遺伝子のON/OFF”に絡んで、“笑いが免疫に与える影響”を研究されている。笑いが“眠っている遺伝子をONにする”ことを調べようとされて、あの“吉本興業”と共同研究されているとのこと。その実証研究の一端としては、重症の糖尿病の患者さんを集めて、@糖尿病の権威の医者からその対処法の講演を聞いて、血糖値を調べる。翌日に同じメンバーにA吉本興業の“お笑い”を聞いた後、血糖値を調べる。Aではほぼ全員の血糖値が半減以下になったとのこと。最近は“心と遺伝子研究会”を主宰され“祈りと遺伝子”の研究を始められた由。このテーマに関する研究の成果のお話はまだお聞きしていません。

経営の第一線を離れて4年少しになるが“ITを活用した業務革新”というライフワークは変わらず、今も毎週、東京と神戸を往復している。9年前の11月に硬膜下血腫で2度の穿頭手術を受け、3年前の12月にはくも膜下出血、一昨年の7月と昨年の10月には大腸癌の切除手術を受けた。これらの身体上のインシデントも、村上先生の言われる“天から重要なメッセージ”と受け止め、陽気に、そして大いに“笑いながら”与えられた時間をライフワークとしての仕事を楽しみつつ過ごしていきたいと考えている。

【注】 “ドクター35,000頭”:“酵素:人レニン”は入手できないので、まず“牛レニン”を注出して確認するために、東京・品川の食肉センターに通って、「気がふれているのでは…。」と言われながら、説得して牛の脳下垂体を35,000頭分冷凍保存して貰い、それを先生や奥様、研究生が早朝に協力して処理(“冷凍かつ硬い殻”剥き)して、0.5ミリグラムの“酵素:牛レニン”を手に入れられたことが綽名の由縁。

次は、18回生で昭和46年、工学部卒の藤岡 昭さんにバトンを渡します。

以上(2016.04.11)

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第10走者 青野 修三(S46年経済学部卒業)

「あの有り難い方法」

高校や大学時代の友人が集まると健康面に話が及ぶことがよくある。
いまだに健康優良児みたいな人はまれで、ほとんどはなんらかの問題を抱えている。私は幸いなことに主な健診数値はほぼ正常値だが、聴力だけはかなり問題を抱えている。

健康診断で聴力が少し落ちていると指摘されたのは、十数年も前で、それ以降毎年会社の健診で指摘され続けてきた。はじめて指摘を受けた頃は、へえ、そうですかねえと思う程度で、自覚症状もほとんどなかったが、定年後のここ数年は思い当ることも多い。
聴力が落ちているといわれても、どのくらい悪いのかは分かりにくい。聴力は、高音域と低音域に分け、左右の耳ごとに検査数値が示される。したがって数値は四つでることになる。直近の健康診断の結果によると、低音域が右四〇、左二五、高音域が右六五、左五五である。これだとなんのことかさっぱり分からない。そこで検診結果表の解説欄の説明をよく読んでみた。私の場合は、左耳の低音域以外はすべて基準値以下なのだということが分かった。やはり悪いのだと認めざるを得ない。
実際に日常生活で不便を感じることもある。家族や友人知り合いとの会話途中で
「えっ、なんて?」
と聞き返すことがこのところ増えた。
また、テレビを観ていて、ぼそぼそと呟くように話す声の聞き取りに苦労することがある。特にドラマはそのせりふの性格上ぼそぼそ声でなければ臨場感が出ない場合があるが、その場面になると私の耳は急に聞き取り困難となり、俳優がなにを言っているのかよくわからず、ハタッと戸惑うことがある。まさかテレビの俳優にむかって
(いまなんて言った? もう一度喋ってくれ!)
と言う訳にはいかない。こういう場面になんどか出くわした挙句ドラマが終了すると、消化不良のような満たされない気分になる。聴力低下を本当に恨めしく思うのは実はこのような時である。

私は地域の男性だけの料理同好会に所属しているが、毎年、忘年会が行われる。料理の先生とアシスタントの女性も参加してくれる。昨年の忘年会では、たまたまその女性と席が向いどうしになったので、私は話題づくりのひとつとして聴力低下のため、最近はテレビドラマのセリフが聞き取れないことがあると話した。
「老化現象かな!」
茶化してこう言った。
彼女はにこにこと話を聞いていたが、ふっとなにかを思いついたような顔つきになり
「青野さん! いまのテレビって、文字を画面にだすこともできるんですよ」
と言う。
「へぇー! 洋画をみるとき下側にでてくるような文字が、日本のドラマでもでてくるの?」
「そうですよ。できますよ。試してみられるといいですよ」
激励調でこう言う。これはいいことを教わったと私はおおいに気をよくした。

新年になり、NHKの新しい大河ドラマが始まった。このドラマでも、密談などの場面では、俳優はぼそぼそと呟くことが多く、聞き取りにくい部分がある。
よし、いまこそ年末に教えてもらったあの有り難い方法を試してみようと思った。リモコンをとりだして、慣れないことをカチャ、カチャとやってみた。なんどか操作するうち、日本語のせりふ文字が画面の下に現れた。
(おっ! 文字がでた!)
これで問題解決かと思い、期待に胸ふくらませ、喜び勇んで画面をみつめた。しかし、すぐに(ああ、これはダメだ)と思った。
ほとんどは聞き取り可能な俳優の喋る日本語を聞きながら、画面下側の日本語の文字を追っていては、ドラマ全体がいかにも間延びし、迫力が抜けおちたようになってしまうのである。音を聞こえなくしても結果は同じであった。私はそうそうに、もとの文字のないふつうの画面に戻した。

いまでは家族から文句がでないよう、ヘッドホンを使い、音量を上げてドラマを観ることにしている。当面はこれでなんとか大丈夫だ。あの文字の出る機能は、今後運悪くさらに聴力の低下が続き、いよいよ困ったことになるかもしれない将来のためにとっておくことにした。

次は昭和46年工学部卒の山岡高士さんにバトンを託します。

以上(2015.05.12)

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第9走者 吉永 豊(S46年経済学部卒業)

「桜みながら独り言」

今年(平成27年3月30日)の桜は早かったな。
もう満開じゃないか。
一昨日の上野公園なんて人、人、また人で、ごった返しだったな。
桜見に来たのか、
人を見にきたか、ごみ箱探しに来たのか分かりゃしない。
トイレでぶるぶるしながら待たされてるなんて、かっこつかないねー。
女房の呟きが聞こえる、
男はまだいいよ、女の方はもっと大変なんだから。
そうか、女性の方は大か小かわからないんだよな?
そりゃ大変だ。

そうそう、外国人の花見客が増えたらしいな。
屋台のオッサン連中の顔がやけににこやかだな。
そうだよ、売上が倍増してるんだって。
江戸の飾り物、ハッピ、浴衣、帯、お守り仏像? そうそう焼酎もな。
特に中国人の観光客が増えてるそうだな。
何だって、本物の桜が見たい?
そうか、ならば、自国でも本物志向が強まるか?
いいよな、桜の効果大てわけだ。

まてよ、何を見てるのだ?若者よ、学生さんよ、え、桜か?何、スマホじゃないかい。
おいおい、親の敵か?スマホは、この期に及んでも桜よりスマホ様に熱中か。
いや、違うな、桜の写真を撮ってるのか。
そうか、風流なところもあるじゃないか。 感心したよ。 しかしだな、
撮るのはいいが後ろが支えてる、早く進めよ、何枚も同じ写真を取るなよ。
え、桜をバックに仲間同士の写真を、おい、いつまで待たせるのだ。
何、早く俺に撮ってくれって? あきれた、もう知らない。
君、俺の代わりに、え、スマホで検索中、
桜の開花予想ゲーム中?だって?
忙しいのよ? だって、一体何しに来たんだお前等は。
どこに居るつもりなんだ? ゲームじゃないんだよ花見は。

これ、見事な枝ぶりに満開の桜、
花咲か爺さんが咲かせたのだろうな? そうだよ、その下で、
若者がやけに賑やかそうじゃないか。
ゴザ敷いて皆で就活やってるな。
違うよ、就活じゃないよ、ほら、なんだっけ今流行の、
え、そう、婚活だよ。
なるほど、うまくいやってるな、花より団子だな。

思い出したよ。
桜の苦い経験だ、高校卒業した年だよ、
48年前の電報だよ、電報?、何があったんだ?
散ったのか? 
そう、届いたのだよ『桜散る』がな、大学受験スベッタ証だよ。
まいったよな。
だが、リベンジしたぞ、翌年にな。
今度は『桜咲く』だよ、電報だよ、ザマーミロ、咲いたんだよ。
そうか、今なら何が来るんだ、電報じゃないな、
届けばいいね、『桜満開』がね、ネットでスマホにね。

ところで、なんで桜に魅かれるのか? 分かるか?
桜は日本そのものだから。 ウオー、いいね。
パッと咲いてパッと散る、潔さ、か?
人間は? 何だとアホ抜かせ、今時そんな奴がいるか、人間に。
人と比較するんじゃない、桜が泣くぞ。
日本人で何だ、ケジメを付けられるか、潮時が分かるのか?
情けない連中が永田町に界隈にぞろぞろ出る、出る、
出るぞー、おい、お化けじゃないぞ。

他愛無い疑問が湧いてくる。
朝はどこから来るのでしょう? おい、違うだろうが。
桜は何故美しいのだろう。
表現を変えよう、花は何故美しいのだろう。
かっこつけるなよ。
厳冬を辛抱強く乗り越える。か?
全盛期が短い、か、散る時期を知ってる、潔い、か?
いやいや、『花は自分が美しい事を知らないからさ』と言った人がいたな。
お見事、まいったな、そうだよきっと。
明日、桜に聞いてみよ。

ならば、のたまってやろうか。
自分が美しいと思ってる薄っぺらな奴等に。
「おい、化けの皮が剥がれる前に散るんだよ」、て、ね。

次は、昭和46年経済卒の青野修三さんにバトンを託します。

以上(2015.04.10)

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第8走者 道野 徹(S46年経済学部卒業)

「コンピュータの未来」

IBMの人工知能ワトソンや人間のかたちをしたロボットとかが最近話題になっている。コンピュータがどこまで人間の知能に近くなるのか楽しみでもあるが少々不安にもなる。
50年ほど前、世にコンピュータが出た時は膨大な技術計算が瞬時にできることで研究機関、大学、企業が大型のいわゆるメインフレームと言われるコンピュータを導入した。それが今や小型で同等もしくはそれ以上の能力あるパーソナルコンピュータとなった。これを駆使する現在はさぞや生産性が上がったのではと思えるが、果たしてそうだろうか。革新的な技術、イノヴェーションによる生産性は創造性つまり人間の脳の働きの産物である。この人間の創造力が機械に取って代られるとまで行かなくとも、機械が手助けをして人間の創造力を飛躍させることになるのであろうか?
話は変わるが、空気が澄み渡った冬の晴れた日には、遠方からも富士山が大きく見える時がある。急いでカメラを取り出して写すと、なんと小さく富士山が写っているという経験をされたことあるのではなかろうか。又、耳が遠くなり補聴器をつけると、周りの雑音まで大きな音になり、かえって不愉快になると聞く。人間の目、耳などの器官は、必要とする情報だけを拾い又は強調するようになっているようだ。人間の脳は取捨選択して情報を取り入れているのだろう。機械にはこんな芸当はできないだろう、だが見落とし聞き逃しはない。一方火事場の馬鹿力ではないが、脳による思考、創造の発露も思いがけなく素晴らしい産物をもたらす。いわゆるひらめきと言うものである。アインシュタインの相対性理論や宇宙の誕生であるビッグバン理論などとうていコンピュータでは無理だよ、と言いたくなる。
だが、あらゆる先端の理論をワトソン君に教えると、人間も気が付かなかった理論がひょっとすると出てくるかもしれない。そして、今まで、ダークマターやダークエネルギーやブラックホールの理論は全て誤りであり、このような計算式で宇宙は表せるとワトソン君が新理論を打ち出すかも知れない。
失礼しました、これは私の初夢です。

次は昭和46年経済学部卒の吉永豊さんにバトンを託します。

以上(2015.02.22)

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第7走者 増原 浩二(H元年 農学部卒業)

数多くの人の縁により生かされている

27年前、6月にサッカー部を引退した私は、知り合いの広島大医学部の学生から、これからは、バイオテクノロジーの時代だと言われ、九州大学農学部を目指して、勉強していました。
年が明け、共通一次試験を受けたところ、今まで取ったことのないような良い点数が取れたため、急遽、志望校を神戸大に変更し、二次試験を受け、合格することが出来ました。
それまで、修学旅行以外ではほとんど広島から出たことのなかった私は、直前まで、全く想像もしていなかった、神戸大、神戸の街、人とこうして出会うことが出来ました。

初めての三宮には強烈な印象が残っています。
大学から紹介され、灘区大石に四畳半と二畳、風呂無し、家賃2万円の文化住宅を借りて、初めての日曜日、テレビもなく、することもないので、とりあえず、三宮に行ってみようと思い、どきどきしながら阪神電車に乗りました。
三宮に着くと想像を絶する世界が待っていました。
物凄い人だかりで押しつぶされそうになり、パトカーがサイレンを鳴らしながら走り回り、おまわりさんが狂ったように笛を吹いていました。 映画でみた、ニューヨークやロサンゼルスのような光景に「田舎者の来るところじゃないなぁ、やっぱり都会は違うのー」と逃げ帰ったのですが、テレビも新聞もない私に、あの日、三宮で暴力団同士の銃撃戦があったことがわかったのはだいぶん経ってからでした。
そんな偶然の出会いやとんちんかんな始まりの神戸は、今では、本当に第二の故郷と思っています。
今では、人生の10分の1にも満たない4年間ですが、かけがえのない経験や大切な人達との出会いをすることが出来ました。
大学時代、これからはバイオテクノロジーの時代だと言ったこともすっかり忘れ、サッカーと麻雀、パチンコに明け暮れた私は、ぎりぎりで卒業し、バブルの波に乗り、さしたる努力もせず、やりたいこともなく、なんとなく給料が良さそうだからという理由で銀行に就職しました。
神戸大学ということもほとんど意識することもなく、15年を過ごしましたが、縁があり、8年前に外資系生保の営業に転職してからは、心から、神戸大学で良かったと思っています。
ノルマに追われる日々や中間管理職としての矛盾に我慢が出来なくなり、自分の力が試せると思って飛び込んだ世界でしたが、世の中、そんなに甘くはありませんでした。
会社の商品、サービスにも自信があり、何より、自分は出来ると思って転職しましたが、それまで、毎日、顔を合わせていた先輩、後輩からは断られ、親しかった取引先にも相手にされない日々が続きました。
銀行で表彰されたり、お客様から、感謝されたりしていたのは、自分の力ではなく、銀行の看板で仕事をしていたおかげであり、お客様は銀行に感謝していたのだということを痛感しました。

そんな時、破れかぶれで20年振りに掛けた一本の電話が転機になりました。
その電話の相手は大学1年の時の4年のサッカー部の先輩です。
体育会の4年と1年の関係というものは、極端に言えば、王様と奴隷のようなもので、直立不動で話を聞き、絶対服従でほとんど口も聞けないという関係です。
20年前、1年間一緒にいただけで、ほとんど口もきいたこともない先輩なので、自分の名前を覚えているかどうかさえわからないという状況だったのですが、本当に切羽詰っていましたので、清水の舞台から飛び降りるつもりで電話しました。
泣きそうになりながら電話したのですが、覚えていて頂いただけでなく、快く会って頂き、ご契約をお預かりするだけでなく、今まで、知らなかったサッカー部OB戦や東京六甲クラブにも誘って頂き、行けるようになりました。
さきほど、いい加減な大学生活と書きましたが、サッカーだけは、真剣に取り組み、頑張っていたことを、覚えていて頂き、信頼される結果になったのかもしれません。
その後は、神戸大学の先輩にかわいがって頂けるだけでなく、同期、後輩とのつながりも出来、さらに、大学を超えた色々な人達の縁により、家族共々、本当に幸せな人生となっています。

銀行という狭い世界だけで、生きていた時には、神戸大学出身ということを特に意識することもなく、人との縁に感謝するということもなかったのですが、会社という看板を外した時、人とのつながり、縁というものが非常に大事だと気づきました。
がむしゃらに働いている若い時は、一日の大部分が職場であり、仕事をするにも、出世するにも職場でのつながりが一番重要と思ってしまいます。
もちろん、その縁も重要ですが、その縁だけにたよっていれば、私のようなに転職や、定年退職などで、突然、縁が切れるかもしれません。
地縁、血縁、同じ趣味、お子様つながり、もちろん、職場のつながりなど、人は、数多くの人の縁により生かされているし、その縁が多いほど、豊かな生活になると思います。
その中の重要な縁の一つが大学であることは間違いないと思います。
中国に「小人は縁に気づかず、中人は縁を生かせず、大人は袖すり合う縁も縁とする」ということわざがあります。
縁をつないでくれる場所として、先輩方がつないでくれた東京六甲クラブを我々、中堅、若手も次世代につないで行ければと思います。

次回は、西野 努さん(H5年 経営学部卒)にバトンタッチします。

以上(2012.05.08)

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第6走者 辻村 悠(H19年経済学部卒業)

「神戸っ子 冥利に尽きる」

神戸生まれ、神戸育ち。しかも灘区。神戸高校に通いだした頃から、神戸大学に入る気満々だった。私にとって、神戸大学は家から一番近い地元の大学であり、だからこそ神戸市民としてとても誇らしい憧れの対象だった。
いろいろあったが神戸大学になんとか入学し、私は大学生活を目いっぱい謳歌した。部活に没頭したり、友達と遊び明かしたり、試験前に焦ったり。それはまさに私の「青春」だった。

しかし、ここで転機を迎える。就職し、東京本社への配属が決まったのだ。今まで神戸市灘区から出たことが無かった私が、突然単身上京することになった。地元の友達はもちろん、大学の友達もほとんど関西圏に残ることになったので、一気に友達が周りから居なくなった。初めての一人暮らしということもあり、一人ぼっちを痛感した。1人では何をしていいか分からず、休日にも外出せず家に引きこもっていた。

そんな中、神戸大学の学友でもある兼光里江さんに誘われて、東京六甲クラブに通うようになった。いろんな業種、いろんな世代、いろんな立場の神戸大学卒業生であふれた、新しくも安心する世界がそこにあった。
私のような一般社員の方々から、大企業の役員さんや起業した若手実業家の方まで、普通に生きていれば集まることは叶わないくらい様々な人々が、神戸大学卒業という一つの共通点だけで一堂に会している。神戸大学卒業生として、とても誇らしいことである。また、いろんな方とお話することで、自分の幅が広がった気がする。
皆さんすべていい人で、会社とは違う空気に触れて気分もリフレッシュできる。私は時々しか参加できなかったが、顔を覚えていてくださることも多く、素直に嬉しかった。
この東京六甲クラブを築き、そして守ってきた諸先輩方にはどれだけ感謝しても足りない。本当にありがとうございます。これからは、私もそれを守る仲間に入りたい。微力ながら、お手伝いさせていただきたいと思う。

次回は、増原浩二さん(H元年農学部卒業)にバトンタッチします。

以上(2012.03.08)

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第5走者 吉田 雄一(H10発達科学部卒業)

微力ながら何かできれば

昨年末、久しぶりに六甲山に登ってきた。
登山の起点となる六甲ケーブルの駅は、私の通った発達科学部のすぐ近く。

とはいえケーブルは使わずに歩いて、最高地点までは約2時間。
山頂からは瀬戸内海の絶景が広がっていた。
今思えばもっと学生時代に登っておけばよかったと思う。

卒業以来、東京に住んで10年になるが、帰省するたびに海と山の両方が
楽しめて風光明媚、100万ドルの夜景と衣食住のすばらしい店がコンパクト
にまとまった町、神戸のよさをあらためて実感する。

話題を転じて、東京にある「六甲クラブ」にはかれこれ3年くらいお世話に
なっている。
きっかけは、有楽町界隈を歩いていた時に偶然目にした看板である。
しかし、会員制の怪しげな店を思わせる重厚なドアを目の前にして、
一度は撤退。その後ホームページで確認して、素性を確認した後、思い
切って中に入らせていただいた。
それからは、講演会に参加したりして、交流と勉強の場として使わせて
いただいている。

関東の人と話をしていると、最悪の場合、神戸大のことを知らなかったり
して、首都圏でのブランド力はそれほど強くないことを実感することがある。
それほど愛校心は強くない私でも悔しく感じることだ。
今後、六甲クラブからも神戸大のよさを発信していけるよう、微力ながら
何かできればと思っている。

次回は、経済学部平成19年卒業の辻村 悠さんにバトンタッチします。

以上(2012.01.14)

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第4走者 六十谷 知里(H11国際文化学部卒業)

「東京オフィス・リニューアルオープン」

「神戸大学の東京オフィスで働いてみない?」昨年末、そう声をかけてくれたのは、大学時代からの大親友で、このリレー随筆(2)のスタートを飾った第一走者でもある五十嵐さんでした。
神戸からこんなに離れた東京で、しかもこんなに年月が流れてしまったのに再び母校と関わるチャンスが巡ってくるなんて…本当に不思議な「縁」というものを感じました。
結婚を機に上京してからというもの、すっかり「神戸大学」とは疎遠になってしまっていました。大学の現状も知らないし、今どきの大学生なんてもっとわからないのに大丈夫かな、と躊躇する気持ちもありましたが、「私も卒業生の一人、大学に少しでも恩返しできれば」という思いで、東京オフィスで働き始めました。

年も明けてH23年、いよいよ新生神戸大学東京オフィスが活動を開始し、小西所長をはじめ、スタッフみんなで頑張ろうと意気込んでみたものの、来訪者もほとんどなく閑古鳥が鳴く有り様・・・このままだったらどうしよう・・・とすごく不安でした。
ところが大学HPにオフィスのことが載ったり、学生へオフィスのチラシが配布されたり、もちろん六甲クラブの皆さんのネットワークのおかげもあって、利用者数はどんどん増え、多い日には座る場所もないくらいになりました。
インターネット時代に乗り遅れている私でも、オフィスのことをひとりでも多くの方に知ってもらおうと、毎日ツイッターでつぶやくようになりました。
休憩ができて、PC・インターネット・プリンター・コピー利用・荷物預けもでき、フリードリンクで、キャリアアドバイザーという強い味方もいて、ほとんどが夜行バスで上京する学生さんには、とても便利だと好評で口コミで広まっていきました。「また来ます!」と言って笑顔で帰って行っては、「またお世話になります」と何度も来てくれるリピーターも続出。
ところがせっかく順調な滑り出しを見せた東京オフィスも3月11日、東日本大震災で状況は一変しました。あの日、外で地震に遭った学生が行く当てもなく、オフィスに来て所長はじめ、スタッフと一緒に六甲クラブに避難して、数名のOBの方と一緒に過ごしました。神戸から土地勘もなく東京に就職活動に来て地震に遭い、本当に心細かったと思います。一人でも二人でもこのオフィスを東京での拠り所に思ってくれる学生がいる、それだけでも嬉しいことです。
その後、企業の採用日程が延期となり、またしばらく学生の姿はまばらになったのですが、徐々に就職活動の波も戻り6月16日には来訪者1000人を早々と達成できました。これもOB/OGの皆さまのご協力があってこそ成し得た記録で、本当に感謝の気持ちでいっぱいです。

東京オフィスを見つけて飛び込みで入って来られるOB/OGの方、卒業してまだ数年の人たちが、「ホームページで見て一度訪ねてみたかったので、会社帰りに寄ってみました・・・」とわざわざ寄って下さる方、みなさん、懐かしさと驚きの表情で「ここにオフィスがあったんですね!」と声を弾ませて入って来てくださいます。そこから、卒業生のつながりで六甲クラブに入会されたり、就活中の後輩のためにOB/OG訪問を快く受けてくださったり、大学のつながりは本当に目には見えないけれど温かくて心強いものだな、とつくづく感じました。
学生さんたちが、そんなOB/OGの方々の気持ち・アドバイスを本当に素直に受け入れて、心から感謝する姿を見て微笑ましくなります。何より、学生さんたちはOB/OGの方と話す事を本当に楽しんでいますし、これからもっと東京オフィスが卒業生と現役学生とのつながりの場になればいいなと思います。
――― ベルト忘れてきました。アイロンありませんか。近くに本屋は?銀行は?電車の乗継がわからない。安く泊まれるホテルは?おすすめの観光地は?―――
ネット社会の申し子といってもいいくらい情報に溢れた中で暮らす今どきの大学生でも、東京ではわからないことだらけのようです。
面接で落とされては一緒に落胆し、エントリーシートが上手く書けないと言っては一緒に悩み、部活の話、ゼミの話、関西の地元の話、東京での生活の話や仕事の話をしたり・・・「東京オフィスはアットホームな雰囲気だから利用しやすい」なんて言葉を聞くと嬉しくなります。学年、現役・卒業、学生・教員などの垣根を越えて交流できて、リラックスできる場所・また来たくなる場所であったらいいな、と思います。
学生さんが、卒業しても神戸にだけでなく東京にもいつでも戻る場所がある、学生として利用できる場、社会人として貢献できる場、卒業生として語り継ぐ場、神戸大学の輪を広げる場にしていけたらと思います。
とはいえ、東京オフィスはまだまだ船出したばかり、今後とも応援よろしくお願いいたします!

次回は、発達科学部10年卒業、修士課程平成12年修了の吉田雄一さんにバトンタッチします。

以上(2011.08.27)

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第3走者 兼光 里江(H19経済学部卒業)

レッツ 若手メンバー強化

縁あって、私が神戸大学東京六甲クラブに足を運ぶようになったのは、就職・上京してまもない頃でした。「重厚な扉をよく開けて入ってきた!」と、諸先輩方にたいへん温かく迎えていただき、うれしかったことを覚えています。平成になって約20年経っていたにも関わらず「平成卒業」ということをとても喜んでくださり、そのプレミア感に驚きました。

神戸大学東京六甲クラブでは、たくさんのイベントが開催されておりますが、若年層が参加しやすい会といえば「若手の会」です。ここでは、平成卒業の先輩方とも多くお目にかかることができました。しかし、なかなか平成卒業の「若手」が増えない・・・。
今までは受け身で、このクラブのイベントに参加してきた私でした。でも、この“若手が増えない”ことがずっと気になっていました。

そんな時、クラブの名称が変わること、それに伴って設立された準備委員会メンバーへのお声掛けをいただきました。

月例のミーティングを重ねる中で、クラブに対する先輩方の熱い思いや、深い歴史、内装や備品の裏話まで、たくさんの貴重なお話を聞かせていただきました。クラブが永く続いていくためにも、偉大な先輩方の思いを受け継ぎ、微力ながらも東京六甲クラブ発展の一助を担えたらと思っております。

ちなみに、ここでは高校の大先輩にも出会うことができました。祖父と孫のような年齢差ですが、クラブがなければ出会うことのなかった縁です。ありがとうございます。

大(?)先輩の皆様には、いつもお世話になりっぱなしの私ですが(まだこれからもお世話になりますが)、一緒に少しずつ少しずつ、若手の会員を増やしていきたいと思っております!
東京にいる、たくさんの神大卒業生に出逢えることが楽しみです。

次回は、東京オフィスの六十谷知里さん(平成11年国際文化学部卒業)にお願いします。

以上(2011.06.30)

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第2走者 小村 由美子(H10国際文化学部卒業)

神戸大学との絆

このリレー随筆の前走者五十嵐順子さんは、神戸大学国際文化学部時代からずっと仲良くしている同級生で、縁あって、東京オフィスの行事でもたびたびご一緒している。私がこの東京オフィスの行事にたびたび参加するようになったきっかけが、五十嵐順子さんが講師をつとめた平成20年9月の若手の会であった。それ以来私は、神戸大学東京オフィスの行事にはよく参加している。行事に参加するようになったきっかけは若手の会への参加だが、それまでも東京オフィスの存在は大学の広報などで知っていた。今まで参加した行事を挙げると、新年互礼会、忘年会、オータムコンサート、木曜会、若手の会、ミドル会などわりと多い。他にも、学友会東京支部役員会に、五十嵐順子さんと共に国際文化学部卒業の代表として出席している。

この神戸大学東京六甲クラブの良いところは、やはり神戸大学全学の卒業生が利用することができるところだろう。国際文化学部では平成10年3月卒業の私が2期生なので、神戸大学全体の卒業生と交流できるこの東京六甲クラブの行事に参加することにより、私はより多くの先輩を得たことになる。国際文化学部が設立される前の卒業生の方の中には国際文化学部に興味を持たれる方も多く、学部について尋ねられることもよくある。「国際文化は、外国の文化を勉強するところなのか」とか「教養部のようなところなのか」など。学部についての話をしているうちに人の和もひろがる。よい学部である。

神戸大学では年に1度、大学全体の大きな同窓会、ホームカミングデイが開催される。午前に大学全体の企画が催され、午後に各学部の学部企画が催される。今年もつい先日10月30日に神戸大学で開催された。平成18年に第1回が開催され、今年が第5回であった。私は第1回から第5回まで皆勤している。日々忙しくしていてなかなか神戸大学に立ち返ることのできない卒業生などにとっては、このホームカミングデイは大学に立ち返ることのできる絶好の機会である。お世話になった先生や友人などとの再会を果たし、精一杯交流を楽しんでいただきたい。

神戸といえば、夜景の美しい街として全国的に有名である。神戸大学の構内には、神戸の街が一望できる絶景スポットがいくつもある。実は、大学構内いたるところ絶景スポットと言ってよいくらいである。大学が六甲の山の山腹にあるので、授業や課外活動などがおわり、夕方大学から最寄りの駅に行くために山を下るあいだ、実に見事な夜景を一望することになる。先日のホームカミングデイが終わった後も、最寄駅に着くまでの間、先生や友人たちと共に歩いて山を下りながら、実に見事な夜景を見ることができた。

今年度5月に東京六甲クラブがスタートするのにあたり、クラブ改革プロジェクトチームが発足し、クラブ発足に伴うそれぞれの分野の仕事をしている。私は改革プロジェクトチームの中の「会員増強の具体策」チームで勧誘チラシ作りなどにかかわっている。

次は、クラブ改革プロジェクトチーム「会員増強の具体策」チームの兼光里江さん(H19経)にお願いします。

以上(2010.11.30)

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第1走者 五十嵐 順子(H10国際文化学部卒業)

東京にある神戸の縁(えにし)

大学卒業を機に、就職で上京してきて10年余りが過ぎた頃、ひょんなことから神戸大学の同窓クラブが東京にあるということを知りました。場所を聞くと、銀座界隈の一等地、帝国劇場の地下。重厚な外観に少々気後れしながら扉を開けると、クラブの受付の方がにっこりと温かく迎えてくださったことが印象的でした。

それからは、仕事で近くまで来たときには立ち寄ったり、「若手の会」などのイベントに参加したり、会場を使わせて頂くことも。そのときには、皆さん、口々に「神戸大学はすごいね、東京にも同窓クラブがあるなんて」「とっても便利な場所だね」「食事もできるんだね」と感動されます。この恵まれた環境も、様々な先輩方のご尽力があって実現されたことだと知ったのは、クラブ運営の委員会でその長い歴史を知ってからでした。

私自身は、今でこそ、東京の生活には慣れたものの、上京してきたころは、職場にも関西出身の人がおらず、友達や知り合いもほとんどいなかったため、とても心細かった社会人一年目でした。仕事や生活の不安があっても、誰にも悩みを打ち明けられず、入社後たった3ヶ月で鬱状態になり休職。あの頃、このクラブの存在を知っていたら、きっとどんなに励まされたか。神戸大学を卒業して上京する在校生のみなさんには、ぜひ、クラブの存在を知ってほしいと思います。

関西弁で心ゆくまで話す、同じ母校をもつ先輩達と神戸という共通のテーマで楽しいひとときを過ごす。それに加えて、私自身がすごく嬉しかったのは、世代の異なる方々と交流できること。歴史をその目で見て、体験してこられた方の価値観に触れることができる。戦後の日本経済を支えてこられた方々の生き様を知ることができる。ものが溢れ、物質的には豊かになったけれど、人と人とのつながりが希薄になってしまった現在の成熟社会に生きる今の私達が忘れてしまったことを、思いださせてくれる。そんな温かみがこのクラブにはあるのです。

今年は阪神大震災が発生して丸15年が経った節目の年でもありました。当時、灘区で一人暮らしをしていた1年生の私ですが、安否を確認して助けに来てくれたのは、神戸大学の仲間でした。学生の一人暮らしゆえ、ご近所づきあいもなく、地元の情報も分からない。そんな中、大学つながりという縁がどれほど心強かったことか・・・

今は人と人とのつながりが希薄になってきた、無縁社会の到来だとも言われるようになりました。こんなに多くの人達が住まう大都会で、孤独な気持ちを抱えながら生きている人もいるかもしれません。東京になじめない人もいるかもしれません。かつての私のように。そんな今だからこそ、コミュニティが大切だと言われています。

このクラブを長きにわたって維持してくださった先輩方に心から感謝します。私には、神戸大学OGであるというおかげで、このクラブがあるのですから。願わくば、私がおばあさんになったときにも、ふらっと立ち寄って若き日の仲間と話ができるようなクラブであってほしい。後に続く世代の方との交流から、新しい価値観にも触れてみたい。そんなことを思いつつ、「今日はどんな出逢いがあるかな?」と楽しみに、またクラブへ足を運ぶのです。

次回は、鳥取在住にも関わらず、クラブのイベントにもよく参加してくれる同窓生の小村由美子さん(H10国)にお願いします。

以上(2010.09.27)

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