談話室(2013年)

 2013.11.26 進藤 宏 大学紛争の頃のグリークラブと1969年の「未婚」について


伊藤さんがグリーに入部された当時のことを竹本さんが書いておられましたので、懐かしく再度投稿いたします。大学紛争の頃の話です。

私たち19回生が教養から六甲台に上がった2年生の後期、期末試験が始まるその当日六甲台学舎が全共闘により封鎖されました。大学は就職を控えた4年生のため試験は全てレポートに切り変え、下級生もこれ幸いとレポートを書き、写し、出来る限り単位を稼ぎました。全共闘の諸君も同様に頑張ってレポートを作成、封鎖の恩恵を充分に堪能したと聞いています(大学とか、その他諸々の権威を否定するところから全共闘運動ははじまったはずですが、単位は矢張り切実な問題であったようです)。丁度、定期演奏会を終え、翌年3年生になる私たちがクラブの運営を引継いで少し経った頃でした。

1969年最初の演奏会である関西六大学合同演奏会(関学、同志社、立命館、関大、甲南の錚々たるメンバーです)に向け、竹本さん(現当団指揮者)の下、確か「シューマンの男声合唱曲集」に取組んでおりました。

学内の状況を反映し、部内には種々様々なメンバー、当時の仕分けでいえば、右翼・ノンポリ・民青・全共闘、あるいは一般学生・暴力学生と称される殆どすべてが揃っていました。
普段、練習場の外で顔を合わせば、議論・非難・実力行使(ゲバルトとも言いました)にと、すぐにいがみ合う連中が、部内では仲間として、かつ当然の事のように、同じ曲に取組んでいる。極めて不思議な空間が六甲台講堂に存在していました。
このような場を提供、維持出来る、そのことだけでもこのクラブが存在する意味があるのか、とも思っておりました(こんな甘いことを公表すれば、すぐに「自己批判しろ」とクラブ内のあらゆるセクトから糾弾されかねない雰囲気でしたが)。

いつも通り練習は続けていたものの、騒然とした環境の所為か熱が入らず、曲も遅々として進みません。この状態が続けば関西六大学への出演を辞退せざるを得ないことになりかねません。

部員総会を開き意見を聞いたところ
1. シューマンは、今の私たちが歌うのに相応しい曲なのか
2. ドイツ語で歌って分かってもらえるのか(これは永遠の課題です)
3. 私たちが共感をもって表現できる曲を歌いたい
4. 私たちが考えていることを、当日チラシにして配りたい
5. エール交換に「商神」はふさわしいのか
等々、特に「曲目の変更」はほぼ全員の要請でした。
つまり「私たちを取り巻く状況の中で、今の私たちが共感をもって歌える曲を歌いたい」が大勢を占めました。「いったん決めた曲を安易に変更するのはどうか」との意見もありましたが、いずれにせよ、シューマンでは進まず、曲目を変更しなければどうにもならないのは明白でした。

では「何を歌うのか」「チラシを配るとすれば内容は」「商神」の話。

曲目は以前4年生が歌ったことのある「未婚」に比較的すんなりと決まりました。「未婚」と言う曲が本当にベストであったのかどうかはわかりません。ただメンバーが知る限り、最も心情的に相応しい曲だったのでしょう(60年安保の頃に作られたと聞くこの曲が、70年安保を控えた当時の状況に合ったのでは)。決定したのが多分2月末頃、それからは通常の練習に、合宿にと「未婚」を歌いこみました。全員が納得し選んだ曲だけに、練習への集中力には素晴らしいものがありました。

一方、「チラシ」は案文を募ると、全共闘のアジテーションの類、いわゆる「我々はー、何々の闘争においてー」的なものも含め様々。最後は、確かシャンソンのジャック・プレヴェールの詩を引用した平易かつ格調の高いものに(建築科の部長が挿絵と文案を練りました、自画自賛ではありません、手元にあれば披露したいくらいです)。

六大学実行委員会の事前打合せでは、甲南大学が「演奏で表現すべき。チラシは邪道、絶対に認めない」と強硬に反対し了解が得られず、結局演奏会当日の委員会に持ち越すことに。否決されれば出演辞退も止むなしと緊張しつつ臨みましたが、幸いなことに、関西大学の「チラシの内容、表現に全く問題はない。配る、配らないは各大学が決定すればよいこと」で漸く決着が着きました。

「商神」に代わるべき歌は? メンバーは神戸大学のほぼすべての学部を網羅している。そのエール交換に相応しい歌は? 当時、学歌は制定されておらず、唯一全学的と言える学生歌「この丘に」を歌うこととしました。急遽中村先生に編曲をお願いし、軽快かつ歌いやすい曲にしていただきました。

演奏の結果は極めて好評を博し、合唱ジャーナルにて日下部 吉彦氏から「新曲にもかかわらずよく纏め上げた。」(確かそんな文章であったかと)と頓珍漢な絶賛を得たのも楽しい思い出です。
後日、出会った日下部氏に「みんなも喜んでおります。」と挨拶したところ、「新曲だなんて、知らないで書いて失礼しました。でも、とても良かった。」と改めて誉めていただきました。「想いというか、そういうものが伝わってきました。」とおっしゃったのを今でも覚えています。

前回の定期演奏会にて、久し振りに「未婚」を歌い、忘れていた「あの未婚」を思い出しました。当然ながら、当時感じた熱気、高揚感は無く、経った時間の長さのみが残りました。
1969年の「未婚」は多分、状況と、その中で息づいていた部員の思いが創り出した稀有な演奏だったのでしょう。その一員であったことに今改めて感謝をしています。

曲の選定にあたっては、少なくとも、状況に相応しい曲、共感を持てる曲、選定の意図が明確な曲、の何れかを満たすことが必要ではないでしょうか。そのような曲を歌えたらと思います。MGCさんが演奏された「枯木と太陽の歌」には感動しました。「年輪を重ねた人たちが年輪に相応しい重厚な表現をされていた」のに共感したからです。

その後大学紛争の激化に連れ、部内も紛糾の度を強め、5月の関西六大学合同演奏会を最後としてこの年のグリークラブは演奏活動を休止、クラブも一旦休部としました。秋頃ようやく大学紛争も収まり、クラブ再開へ動き始めました。その頃、私達3年生はクラブ運営に失敗した責任からほぼ全員が退部します。無責任にも1、2年生にクラブ再建の重荷を委ねたわけです。

古いことで、思い込み、間違い、不十分な表現等多々あるかと思います。忌憚なくご指摘いただきますようお願い申し上げます。

▲TOPに戻る

 2013.07.31 進藤 宏 スーパーボウル(アメリカンフットボール)雑感
(1981年のSan Francisco 49ers)


16歳のとき、今年San Francisco 49ersの雄姿をスーパーボウルに見ることができた。嘗て5度にわたりスーパーボウルに優勝し、1980年代最強のチームと言われたが、その後低迷が続き、久方ぶりの登場である。
初の海外赴任地であったロスアンジェルスから、1980年にサンフランシスコに転勤した。両市は西海岸でのライヴァルとは言え、SFは歴史的にやや古く落着いた雰囲気で日本人にもなじみやすい街でしたが、LAには、熱気と勢いがあり、経済的にも圧倒的優位にありました。
スポーツでも、LAは、野球のドジャーズ、バスケットボールのレイカーズ、フットボールのラムズ、が常にリーグのトップを争い、カレッジはUCLA、USCが全米トップクラスと、週末は地元チームの応援のためテレビ中継に噛り付いたものでした。ひきかえてSFは、野球のジャイアンツ以外、当時バスケットボールのクリッパーズ、フットボールの49ers、は共にリーグの最下位に低迷する有様。対岸のオークランドがアスレティックス(野球)、レイダーズ(フットボール)の強豪チームを擁するだけに、スポーツ好きの身には、SFの冬 (せいぜい摂氏10度位ですが) が身に応えました。

転勤してその年、49ersのシーズンチケット(80〜81年)を申込みました。LAでフットボール、バスケットボールのチケットと言えば、後楽園の巨人・阪神戦のチケットみたいなもので、極めて入手困難。それがSFでは簡単に、しかもシーズンチケット(8試合分)まで買えるのには正直驚きました。が、その年も大幅に負け越して終わりました。翌シーズン(81〜82年)前、79年からヘッドコーチに就任していたビル・ウオルシュがチームの大幅な若返りとディフェンスの強化を実施、加えてあのジョー・モンタナをこの年から正QBに起用。すると、ウオルシュの作戦がことごとく的中(のちに彼の作戦はウエスト・コーストオフェンスと名付けられます)し、ライヴァルのLAを2勝0敗と葬り去り、これまでの不振が嘘のように、その年確か13勝3敗で地区優勝、SF市民全員を、熱狂と興奮の渦に巻き込みます。そのあとのNFCのチャンピオンシップでは、当時の常勝軍団ダラスカウボーイズを、残り時間1分、今も "THE CATCH"と語り継がれるパスタッチダウンで破り、スーパーボウルではAFCのシンシナチベンガルズを圧倒し初めての優勝を遂げました。その日、試合中には森閑としていたサンフランシスコの街には、優勝決定とともに狂喜の嵐が吹き荒れ、車のクラクションが響き渡りました。誰も彼もが車のクラクションを押し続けたのです。試合後、車でダウンタウンに行きましたが、人、人、人で溢れかえり、すれ違う車は優勝を喜び、お互いにクラクションを鳴らし、興奮は冷めることなく、祝宴は一晩中続きました。
この後、ビル・ウオルシュの80年代に2回、次のコーチの80年代、90年代に各1回の優勝を遂げました。
そのあと、今回のスーパーボウル出場まで20年近く不振が続いたのです。過去、スーパーボウルでは必ず勝っていたので、今回も、と期待したのですが、残念な結果に終わりました。

当時のSF49ersは今でも胸躍る想い出ですが、不振にあえいでいたチームが適切な指導者を得、それに応える人材が機能したとき、昨日までとは全く異なったチームに変身する、その事実をまざまざと見、反対に適切な指導者と人材を得なければ簡単に凋落の一途をたどるという怖さを知りました。

教訓。

▲TOPに戻る

 2013.05.30 滝沢章三 オートバイを手放すの記


16歳のとき、学校をサボって明石の大蔵谷にある運転試験所に行って軽免許を取ってきた。試験車はボロボロのラビットスクーター。これが私のオートバイとの付き合いの始まりである。

大学2年、姫路の教養を終えて六甲台に来た頃、須磨寺商店街の豆腐屋の息子が「廃品業者のところに電報配達のオートバイが放出された。まだ十分に乗れる。5千円だ」と教えてくれた。アルバイトで家庭教師をやっていたので買える値段である。すぐに兵庫駅近くの廃品倉庫に行き、街でよく見かける空色のトーハツ125ccを手に入れた。

それから2年、くだんの廃品倉庫に淡路島で使っていた白バイが入った。メグロ(現、カワサキ)の単気筒500cc。当時としてはまだ少数派の大型オートバイライダーになった。28歳のとき、二人で乗れるようにとテントウムシのスバル360に乗り換えた。そして時が流れた。

還暦を前にしてオートバイの夢を見るようになった。「オートバイ」などと寝言をいたりしてみた。カミさんが諦めたので、ホンダのナナハンを求めた。当初は房総半島を中心に走ったのでボウソウ族となった。もう少しデカイものに乗りたくなったので、ヤマハの1300ccに乗り換えた。こいつは雪の降る夜中に盗難にあってしまった。落ち込んでいたらカミさんに慰められたので、BMW1100cc水平2気筒を求めた。BMWはよく走り、160q/h位は楽に出た。ETCと無線機を取り付け、仲間と一緒に西は神戸、北は青森まで走りまくった。73歳の時引越すことになり、オートバイを置く場所が無くなった。これを機に未練の一つを切り捨てた。切り捨てたつもりだが、未練が尾を引くのも人情。合唱仲間の長野さんと(彼もBMWに乗っていたが手術を機にバイクを手放した)レンタルバイクでどこか行くか、とこそこそと相談している。

▲TOPに戻る

 2013.01.21 吉澤 聡一 カラオケから合唱へ


東京六甲に入団して、約2年半となった。これまで合唱の経験は小学校を除いてほとんどない私だが、毎週楽しく練習に参加させていただいている。
入団のきっかけは、会社の先輩である竹本さんに誘っていただいたのが直接の動機だが、入団しようと思ったのはやはり音楽が好きだったこと、また中でもカラオケが好きだったことがその理由かと思う。
自分の趣味というと、これまでとかく下手の横好きでいろいろなものに手を出してきている。これは性格だろう。遥か昔を顧みれば小学校の時は自転車が好きで、赤城山や榛名山、妙義山など郷里の山々にサイクリングに出かけた。登りはもちろん切ないほどに苦しいのだが、坂を下り降りるときほとんどブレーキを掛けずに時速40km以上のスピードで走り降りる爽快感は何とも言えぬ気持ち良さで、このために続けていたように記憶している。
そのほかスキーや軟式テニス、硬式テニスなどを経験しそれぞれに楽しい思い出があるのだが、テニスにしろスキーにしろここ数年以上まったく遠ざかっている。
しかし、振り返れば、音楽だけは続いている。小学生の頃、熱心な音楽の先生に勧められ、そう言えば低学年から入っていた合唱クラブ。高校時代のブラスバンド。それ以降は音楽も聞くのが専門になってしまったが、社会人になってから30年以上カラオケは続いている。これは趣味というとあまりにおこがましく、単なる楽しみであるが。
なぜカラオケが楽しいのか。単にお酒が好きだから、女性が好きだから、というわけではない。もちろん嫌いではないが。そうではなく友人や会社の同僚・先輩、時には家族と通例は酒席の2次会で行くカラオケで、その場の雰囲気に乗りながらタガを外して歌うことが、ほとんど自己満足とも言えるが、限りなくストレス発散となっているのだ。これが楽しさの理由なのだろう。
いずれにしてもカラオケだけは続いている。音楽だけは続いているのである。これが東京六甲に入団して合唱をやってみようと思った心の下敷きにあったに違いない。そうだ。きっとそうに違いない! と、何やらひとりで納得。
合唱を始めて、これから何をしたいのかと言えば、歌うことの楽しさをさらに深めることと歌の技術の向上だろうか。カラオケは自己流で地声の発声だが、合唱の場合はそうはいかない。合唱の発声をしなければいけない。なかなかうまくいかないが。それと名曲にチャレンジすることで、過去又は現代の音楽の達人、巨匠に触れることができる。これも大きな刺戟であり、喜びだ。また、先輩団員の皆様との交流は音楽以外の話も含めとても刺激になり、大変貴重と感じている。
これからは、合唱を単なる興味から趣味に変えていきたいものだ、と思いながら、今日も練習後中華「万里」にて紹興酒の乾杯をしている。

▲TOPに戻る