談話室(2012年)

 2012.11.16 原田 修一 合唱未経験者の東京六甲入団のひとり言


―入団まで―
2009年6月23日(火)大変お世話になっている滝沢さんが、「東京六甲の練習を見においで」と誘われ練習後に一杯飲み会もあるからとの事で酒飲みの私は練習を見に行く事にした。(酒飲みの「さが」である)
練習に参加の際、音域を尋ねられ、バリトンであると答えたところ、團野さんの横に座らされ、楽譜を戴いた。曲はプーランクである。
音譜は多少読めるが、それはクラリネットの楽器を吹いていた頃で、ト音記号であったので、ヘ音記号の音が取れない。
團野さんが横で先に音を出して戴き、それに合わせる型で、歌って見た。(少し音がとれた)
―入団表明―
次回の練習日は6/30(火)である。一杯飲み会の会場、中華料理店「万里」で、なんとなく入団を表明してしまった。滝沢さんの戦略に見事、はまりました。
7月1日、正式入団とあいなった時に、東京都の合唱祭に是非参加しなさいと言われたが、自信もなくお断りをし、会場に聞きに行く事とした。
妻を連れ出し、感想も聞きたいので会場に行くと、皆さんのリハーサルの時間であり、團野さんが、リハーサル室に来ればと誘われ、妻と二人で皆さんの後から聞かせて戴いた。妻は、「なんと素敵なハーモニー。是非若い貴方も歌ったら」と、感激しながら妻の了承を得た。(皆さんもお若いですが)

―想い出―
自己紹介の時には、音楽経験年数が上手く伝わらなかった様である。
自分の音楽経験はクラリネット・アルトサックス等を吹奏楽団(ブラスバンド)で演奏していた。(6歳〜24歳まで)
そして、私は12歳の時に父と一緒にアマチュアの吹奏楽団(八王子)に入団した。父は37歳であった。(今もこの吹奏楽団は存在し、50年以上の歴史を誇っている)
来週の練習曲は東京都の合唱祭で歌う「浜辺の歌」と「中国地方の子守唄」を練習するとの事を聞いた。
大変なつかしく、クラリネットからアルトサックスに持ち替え、「浜辺の歌」をソロで演奏した事が想い出され、来週も参加する事を決めた。

―練習方法―
「よし、やって見よう」と思い、本格的に参加する決断をした。
しかし仕事の悩みがあり、かなりしんどい時であった。(今もそうですが)滝沢さんに誘われ、幸運にも歌がこの状況を払拭してくれた。(精神的に)
定期演奏会が4月に行う予定で、本格的に定演の曲の練習に入った。
参加できるか不安で、練習方法を考え、ipodを通してMIDIを電車の中で聞こうと思い、ヨドバシカメラに行き購入をしようとした所、iphoneで大丈夫ですよと勧められ、オッチョコチョイの私は携帯で録音も出来るしipodもあると聞き、早速機種変更をし、購入した。
これは後になって幸いした。
外国語の苦手な私は、練習を録音し通勤電車の中で聞く事が出来た。(ドイツ語が分からず辞書を購入。言葉の意味を理解しようとした)

―第3回定演―
「まさか、合宿までやるのか」と、皆さんの熱心さに驚きを覚えた。
プログラム作りや、歌詞集作り担当の滝沢さん、岸本さん、青山さんも一生懸命だったので多少、お手伝いをした。(女子社員も動員された)
あっという間に4月の本番当日。
朝から雪まじりの雨、大変である。客は入るのか、心配であったが、満席の来場者であった。ステージに立つと、昔からステージが好きだったのかなと思うほど、客席も良く見えた。妻の顔も見えた。手を振っている。(恥ずかしくないのか?)
「浜辺の歌」の時である、昔のステージを想い出し、背筋がゾクゾクした。涙が溢れてきた。あー、合唱団に入って良かった。久し振りの感激・感動・感謝である。

―現在―
こうして、合唱未経験者がもう4年目に入った。
今では、練習後の飲み会の会計役になってしまった。滝沢さんの後継ぎである。ひょっとして、二次会用の幹事として入団させられたのかな?(笑)
B1の高倉さんからはコンマス(コンパマスター)と呼ばれ、今週も「万里」で楽しんでいる。
お誘い戴いた滝沢さん、音をくれる團野さん、それと合唱団の皆様に未経験者をやさしくしていただいている心に感謝、感謝。

以上 B1コンマス
原田 修一

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 2012.09.21 橋田 晋治 LONDON 2012の夏−タイ家族旅行話


ロンドン五輪が始まる7月下旬から2週間、30歳代の銀行時代に最初の海外勤務地として家族同伴で6年間滞在したタイへ家族旅行した。最初の1週間は家内と二人、バンコック一泊目の朝は"LONDON 2012"なでしこJAPANの対カナダ戦快勝のテレビニュースから始まり、朝からいきなり気合いが入り気分がググッと高揚した。
早速街歩きを始めたが交通手段は専らホテルから直結しているスカイトレイン(BTS)を利用し交通渋滞から解放されて、すこぶるラクチンであった。こちらに来てまず感じた事は東京との温度差。夜間から朝方にかけてはエアコンをOFF にし、長袖シャツを着用していても十分涼しく感じられたが、何故か当地ではホテル、ショップ、レストラン、電車やタクシー内をフルパワーのエアコンでガンガン冷却するので、半袖シャツでは鳥肌が立ち思わずサマーセーターを羽織ることも多かった。またスカイトレインから降車したとたん眼鏡が真っ白に曇り何も見えないこともあった。連日の猛暑・熱中症の東京を逃れて南国タイに避暑に来た様な気分であった。街角で見掛ける若者達は以前より体格が良くなり活力がある、また女性達は色白でスマートな人が多くなったのではないか(勿論そうでもない人もいるが)。所得・生活水準の向上に伴う中間層の台頭がその一因だろう。消費ブームが肌で感じられ、日本食レストランの多いのにも驚いたが、どこもタイの若い人達で繁盛している。街の人々は皆さん一見の旅行者の私達にもにっこりとほほ笑み優しく接してくれ、家内はBTSの車内で何度も座席を譲ってもらって恐縮していた。

滞在二日目に予めメール連絡していた友人に再会した。彼は私が当地に滞在した70年代には日系自動車会社に勤務されていたが、今や在タイ47年にも及び外資系会計・法律事務所の要職に加えタイ国日本人会会長も務められている。翌日が私の76歳誕生日だったのでそのお祝いをも兼ねて中国レストランで会食を開いてくれた。お互いの健康を祝福して乾杯し、彼が厳選してくれた北京ダック、シーフード他のメニューを贅沢に味わい、異国での忘れられないバースデイ・イヴの会食となった。

76歳の誕生日の朝の目覚めも"LONDON 2012"男子サッカーで日本が優勝候補スペインを破ったニュースで始まった。どう云う訳か人は皆国外にいると愛国心が強くなる傾向があるらしいが、日本の若い男女達のオリンピックでの活躍で気分は愈々盛り上がり、爽快な朝が続く。この様にして"LONDON 2012"と当方の訪タイ日程はパラレルに進行していった。

在タイ一週間目、女子柔道で松本薫の金メダル第1号獲得をTVニュースで知った日の午後、次女と孫娘二人が元気で空港に到着し私達にジョインした。さあ明日からは皆でロイヤル・リゾート地のホアヒンで楽しく過ごそう。

ホアヒンはタイ国王室の保養地として古くから発展した。ゆったりとして優雅な雰囲気が漂い、美しい白浜と波の静かな遠浅の海が南北に細長く延々と続く、快適なリゾート地である。バンコックの南西230キロ、タイ湾に面し海の対岸はパタヤになるが勿論ここからは水平線以外何も見えない。ここを訪れる日本人観光客はまだそんなに多くない。私達は市街地から少し離れた、ビーチに面した広大な敷地の中に閑静でトロピカルな、この世の楽園をイメージして作られたと思われる様な手入れの行き届いた緑豊かな庭園の美しいホテルに滞在し、4泊5日の殆どの時間をそのホテルの中で過ごした。 孫娘達は連日プールで泳いだりウオータースライドを滑ったり、また海辺に出て乗馬を楽しんだり海上を猛スピードで駆け回るバンパーチューブ(別名ドーナッツボート)に乗って絶叫したりして夏休みを満喫している。私は波の音を聞きながらビーチサイドのデッキチェアーで読書をしたり、ホテル内の美しい庭園を散策したり、時には孫達と一緒に泳いだりしてゆったりとした時を過ごす。オリンピック情報は英字新聞や海外テレビ局のスポーツ放送に限られ、日本の選手達の活躍振りがよくわからないので、滞在3日目にホテルのビジネスセンターにお願いしてYAHOO! JAPANからの最新情報を日本語で確認した。

楽しい時間の過ぎるのは早い。ホアヒンでたおやかな時を過ごした5日目の朝再び猛スピードのシャトルバスでバンコックに戻り市内のホテルにチェックイン、明日は娘達3人が一足早く帰国する。
実はバンコックでもう一人タイ人の旧友に是非会いたいと思っていいた、70年代彼とは地場中小繊維関係企業経営者と邦銀支店の企業担当者としてお互いに切磋琢磨して信頼関係を深めていったが、同年生まれで何か心の通い合うものがあって、私の銀行退職後も永らく家族ぐるみの親密関係を続けてきたもののここ数年間連絡が疎遠になっていた。フランス・ベトナム・ラオス系の奥方が住宅街に経営されていた高級ベトナムレストランを連絡の足掛かりにしようと思い、訪タイ3日目には家内と二人で記憶を辿りつつ探し求めたが、それらしき店は見当たらず、やっとのことで探し出した場所は日本料理店の看板が掛かっていた。同日ホテルに帰り持参の古い住所帳を再チェックしたところ彼の携帯電話番号を発見し神に祈る気持ちでダイヤルを回すと幸いにも通じた。"I'm in London."と聞き驚いたが彼は私達家族での訪タイを喜んでくれロンドンでの予定を切り上げて帰国しバンコックで再会することを約束してくれた。
ホアヒンからバンコックに戻った日の午後早速彼に電話すると、彼は既に自宅に戻っており、娘達の帰国前のその夜急遽皆で会おうということになった。夜迎えの車が来て降ろされたのは何と彼の旧邸宅の跡地に奥方がベトナムの伝統的木造家屋として新築された、先日探しあぐねたレストランの移転先であった。
家内と娘にとっては16年振りの夫妻との再会となったが、最初の一秒で以前の親密関係に戻ることができた。その夜はハーブで包んで食べる本場のベトナム料理に感動しながら時を忘れて遅くまで旧交を温め合ったが、彼はその後事業を拡大された上、今やタイ国通商会議所会頭として多忙な日々を送られていることを知り、その後の彼の精進・活躍振りを心からうれしく思った。彼が英国留学中に学費を賄うためにアルバイトでバーテンダーをしていたと云って私達にお代わりをしたくなる程美味しいマルガリータのカクテルを作ってくれたり、刈谷市の豊田自動織機での研修時代に宿舎の五右衛門風呂に入って足を火傷しそうになった若い頃の思い出等を楽しそうに娘や孫達に話す彼の様子を側で聞いていてそのフランクな人柄は昔のままだと嬉しく思った。奥方は娘の幼女時代をよく覚えていてくれて昔皆でパタヤビーチの沖の島で遊んだこと等を語り合ったりしてその夜を楽しく過ごし、次回東京での早期再会を約して別れたがご夫妻との再会は今回旅行のハイライトであった。

娘達3人が帰国して年寄二人が残り二日間をバンコックで過ごすことになったが、マンダリン・オリエンタルホテルの川辺のテラスにある船着場までチャオプラヤ川をボートで渡りホテルでゆったりと落着いた日を過ごした他は特に名所旧跡の訪問もしなかった。

LONDON 2012日本人選手情報は相変わらず入手困難な状況が続いたがどうやら"なでしこJAPAN"はアメリカと決勝戦へ、男子サッカーと女子バレーボールは韓国と3位決定戦となった様子だ。日本の金メダルは松本、内村の2個のまま伸び悩んでおり、あとは終盤のレスリングとボクシングの格闘技を帰国後我が家で応援する他はなさそうだ。頑張れ日本!愛国心は益々高まる。旅の満足感と五輪への期待・不安感との入り混じった複雑な思いを抱えながら猛暑・熱帯夜の東京に向かって帰国の途についたのであった。

今回のタイ旅行は、LONDON 2012の開会式が私の76歳誕生日に当たったこと、リゾート地で親子3代で楽しい時間を過ごせたこと、70年代からの旧友二人に巡り合いお互いの健康を喜び旧交を温め合って異国に友を持つ喜びを実感したこと等忘れ難いものとなった。

余談: 旅行中私のいびきの轟音が夜通しうるさくて全く眠れないと同行家族全員から総攻撃を受け、ホテルの部屋をグレード・アップした上、私はリビングのエクストラ・ベッドで寝かされたりしてその場の応急対策を計ったが、帰国2日後病院を訪ね専門医による検査の結果重症の無呼吸症候群と診断され、その日以後CPAP鼻マスクを装着して睡眠している。違和感もあり慣れるまでにはまだ相当時間が掛かりそうだが、病気発見のきっかけとなったのも今回家族旅行であり家族の愛情を率直に喜んでいる。

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 2012.08.19 高倉 勇  ガン よもやま話


ちょうど3年前恒例のドックで、ガンが見つかった。

1、告知
癌の告知ってもっと重みのあるものと思っていた。 エコーで腹部にリンパ腫が見つかり精密検査を受け、結果は
"ああこれは悪性リンパ腫だよ"
'先生、それって癌でしょう'
"そうだよ"
とでかい声でやり取りし、終わった。
リンパ腫という名前が悪かった。10歳下の末弟が大腸がんの手遅れから、最後はリンパに転移して、54歳で10年前に亡くなった。この場合のリンパと悪性リンパ腫のリンパとは関係ないものだが、当時は私は知らなかった。リンパ癌と聞いただけで=死であった。そう死の宣告だと思った。正直ガーんと頭を殴られた感じであった。医者は他人事だと思って、あっけらかんと悪性リンパ腫だと言いやがったと。

おれはやることはやってきたし、いつ死んでもいいよとほざいてきた俺が、瞬間死んでたまるかと思った。いや生きたいと思った。人間っていい加減なものでした。いや私っていい加減でした。

2、一応闘病
2種類の抗がん剤治療を受けたが、治らず(リンパ腫は普通これで80%は治ると言われているが、アンラッキー! またこの薬での平均余命は3年とネットに出ていた。ということは今年死ぬということか)。
次いで、放射線で叩くと言われたが、これはセカンドオピニオンを活用して、逃れた。(癌経験者の忠告(まずは自分なりに本を読み勉強しろ)から、10数冊読んだが、私なりの結論は癌はまだまだ正解のない病気で(医者によっていうことが全く異なる)、抗がん剤・放射線(従来型の)は間違いなく副作用はあるが治る確率は低い=できるだけ避けるべし、と私は結論付けているから。
但し血液のがん(白血病・悪性リンパ腫等)には抗がん剤治療しかなく、また結構有効だということも理解した。それで医者の言うことを丸のみせず、かなり自分の意思(間違っているかもしれぬが、自分の命)に沿った治療を受けてきた。基本はもう73歳にもなり、ベッドに縛られて、生き延びるより、今の生活の質QOLを大事にしようというものです。
ガンとは仲良くしようと。カッコつければ共生しようと。お蔭で今ではだれも俺が病人だとは認めてくれないが。

3、お次は胃がん
6月末に恒例のドックに入り、胃カメラをやった結果、胃がんが発見された。早期発見だから、内視鏡摘出手術でOKだろうとのこと。
慣れたのかガンだと言われても全く驚かない自分が居りました。アー之は簡単だよと。

4、ガンの恐怖
今は日本人の二人に一人はガンに罹るということです。従いガンに罹ったと言っても驚くに値しませんが、ガンはやはりガンです。まだ正解の治療法も確立していないし、完治率は低いし、死に至るケースが大部分です。
共生などと笑いながらもガンでいずれは死ぬのだなあとは思っている。この影は陰に陽に意識の中に常にある。うっとうしいものです。

でも罹ってしまったものは仕方がない。ゴルフも男声合唱もしっかり楽しんでやろうじゃないか。とこう思って、人生悪くないなと思っている。(空威張りかな?)

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 2012.07.10 佐藤 良子 ミュンヘン・歴史トリビア


ミュンヘン、と聞くと、皆様がまず思い浮かべられるのは「ビール!」・・・でしょうか? ドイツの町で日本人が咄嗟に思いつくのは、東西に分断されていた「首都ベルリン」か、ビジネスマンの方だと「日本人村」デュッセルドルフ、或いは金融の中心フランクフルトあたり・・・?

私は「フランス語よりドイツ語の方が簡単そうだ」という、かなり安易な理由から(英語すらダメなので)留学先をドイツ語圏に絞って学校・先生探しを始めたのですが、幸い御縁があってミュンヘンのオピッツ先生に「拾って」頂くことになりました。それまで彼の地の歴史とか殆ど興味も無かったのですが、大学の校舎が立派ではあるものの音大にしてはちょっと風変わりだったこともあり、少々興味を抱くようになりました。その中から、ちょっとした「エピソード」をご紹介します。

@ 第2次大戦開戦前年、1938年9月に 英・チェンバレン、仏・ダラディエ、伊・ムッソリーニ&独・ヒットラーがドイツ・ミュンヘンに集まり「ミュンヘン会談」が開かれたことはご存知の方も多いと思います。
この会議の会場は現在、ミュンヘン音楽大学の校舎として使われています。
もともと戦前はナチ党の本部の一角で(総統館)、ミュンヘンの街は戦時の空襲で中心部が殆ど壊滅状態になったのですが、なんとこの本部建物はどんな爆弾にもビクともしなかった(ホントか〜!?)とか。
いまだに(外見はくすんで汚いのですが)現役で活躍し続けてます。
いわく付きの建築だし(1934年築)、戦後なぜ解体しなかったのだろう?とも思いますが、すべてが壊れてしまった中で、残ったものはなんでも有効活用しよう・・ということだったのでしょう。(それに空襲でも生き残ったぐらいだから、壊すのも大変?)
それにしても・・・優雅に?音楽を奏でる術を学ぶ音大とは、かけ離れたイメージ。

A 私がレッスンを受けていた1階の部屋には「開かずの扉」があり、それは地下への階段、更に街の中心部へ通ずる地下通路へと繋がっていて、もしも襲撃を受けた際に逃亡するためにヒットラーが掘らせた「秘密の地下通路」になっているそうです。(街の中心から音大までは1キロ弱の距離)
学生の中には運良く?階段までは見ることが出来た人も。音大は、ちょっとした「肝試し」に使えそうな場所でした。
なおヒットラーの執務室は学長室となっていました。必要以上に広く長〜い、まるで宮殿のような大理石の正面大階段は ヒットラーが軍靴でコツコツ音を立てて歩くのが好きだったから・・・なのだとか。

B 音大の住所はミュンヘンの「Arcisstrasse 12」。ここには20世紀初頭・ナチに没収されるまで、ミュンヘン有数の名士「プリングスハイム家」の豪邸がありました。当時、芸術文化の一大サロンとして大変有名な屋敷だったそうです。
「プリングスハイム」という名前、ある年齢以上の方は直ぐ気付かれると思いますが、日本でのクラシック音楽の普及に多大な貢献をされた「クラウス・プリングスハイム」という方が、まさにこの名家の出身です。
(指揮・作曲・教育の両面で活躍)
※かの柴田南雄さんも旧制高校時代に日比谷公会堂でプリングスハイム指揮の東京音楽学校オケの「マーラー6番」を聴き「魂を揺さぶられた」と記されています。

またこの音楽家プリングスハイム氏の双子の妹が「カーティア・プリングスハイム」、あの作家・トーマス・マンの奥さんです。
二人はこの「Arcisstrasse 12」のプリングスハイム邸のサロンで知り合ったとか。

プリングスハイム家はユダヤ系だった為、ナチスの台頭と共にミュンヘンを去りますが、その住まいの跡地にナチ党中枢の建物が建てられた、というのはなんとも皮肉。

C 時代は前後しますが、19世紀後半に音大が「再建」された時の初代校長は「ハンス・フォン・ビュロー」。
ワーグナーが提唱し、時の王・ルートヴィッヒ2世が私財を寄付し再建が実現したそうですが、この頃には既にビュローさん、奥さん(コジマ)をワーグナーに取られていました。当時、指揮者・ピアニストとして既に名を馳せていたビュロー、よく引き受けたものだ、とも思います。(2年で退任)・・いわゆる割り切り型?
ビュローの名誉の為に申し添えますと、彼はその後ベルリンフィルの初代常任指揮者になり、またリストの難曲ピアノ・ソナタも初演しています。
(ついでながら、あのラインベルガーも同時期、本校のオルガン科教授でした。錚々たるメンバー!)

D ナチ党の地盤というイメージが強いミュンヘンですが、反対にドイツ人自身による「抵抗運動」も起き、「白バラ」と呼ばれたグループのショル兄妹はじめ、若者達が命懸けで抵抗していました。ただその運動が戦争終結へは直接結び付かなかった感じで、多くの善意の人々が次々処刑されました。
戦時にギロチン処刑の行われた場所は現在、刑務所になっています(市の東部)。

以上、ミュンヘン・歴史トリビア?でした。

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 2012.03.08 竹本 鉄三 NHKの「ためしてガッテン」:
心肺機能が若返る、呼吸筋ストレッチ 紹介


1月25日のNHK、「ためしてガッテン」で、「心肺機能が若返る、呼吸筋ストレッチ」をやっていました。 ストレッチをしながら深い呼吸を繰り返すことで副交感神経が優位になり、手足の血管が広がる効果が期待できるそうです。「肩のウオーミングアップ」「吸う筋肉のストレッチ」「吐く筋肉のストレッチ」と、3種類の呼吸筋ストレッチが紹介されていましたが、最初の二つの「肩のウオーミングアップ」「吸う筋肉のストレッチ」は、静川さんがご指導されている準備運動の一部ですし、三番目の「吐く筋肉のストレッチ」は仲子先生の準備運動の「身体の側面の筋肉を伸ばす」運動で同様の効果が期待されます。つまり、これらは皆、我々が日頃ウオーミングアップのときにやっていることではありませんか!!呼吸筋を若返らせることで息継ぎが長くなり息が楽になるので、伸びやかな歌声になることが期待されます。
練習に出てきて歌う前のウオーミングアップをやり、呼吸筋効果で歌がうまくなる。楽しく歌ってストレスを発散し、おまけに心肺機能まで若返らせて家に帰る、まさに一石三鳥ですね。東京六甲男声合唱団は何と健康的なクラブであることか、再認識いたしました。参考のために、「心肺機能が若返る、呼吸筋ストレッチ」についての記事の抜粋を添付しました。もう少し詳しくお知りになりたいかたは、インターネットで「NHK、ためしてガッテン」を開き、1月25日の番組の欄をご覧ください。
呼吸筋を若返らせることで息継ぎが長くなり息が楽になるので、伸びやかな歌声になることが期待されます。楽しく歌って、健康になり、おまけに歌がうまくなる、まさに一石三鳥ですね。

■心肺が若返る!呼吸筋ストレッチ
※高齢者や持病のある方は必ず医師に相談の上おこなってください。
※イスに座った状態でおこなってもよい。

肩のウォーミングアップ

1.両足を肩幅に開いて立ち、背筋を伸ばしてリラックスする

2.鼻から息を吸いながら、両肩をゆっくりとあげていく

3.口からゆっくりと息を吐き、肩を後ろに回しながらおろす

1〜3を10回程度くりかえす




吸う筋肉のストレッチ


1.両足を肩幅に開いて立ち、胸の前で両手を組む

2.鼻から息を吸いながら腕を前にのばし、背中を丸めていく

3.口からゆっくりと息を吐きながら、1.の姿勢にもどしていく

1〜3を10回程度くりかえす

※軽くひざを曲げるようにしておこなうと背中がストレッチされやすくなります

吐く筋肉のストレッチ

 1.両足を肩幅に開いて立ち、片方の手を頭の後ろ、もう片方の手を
腰に当て、鼻からゆっくりと息を吸う

 2.吸いきったら、息を口から吐きながら、ひじを持ち上げるようにして
体の側面を伸ばす

 3.息を吐ききったら1.の姿勢に体をもどす

左右交互に各10回程度くりかえす


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 2012.01.17 藤田 善弘 発声法についての私見


テノール馬鹿を自認するのど自慢としてTRMCで機嫌よく歌っています。高校・大学を含めて結構合唱の経験も長くなったので日頃発声について自分なりに考えている事をご参考になればと思い書いてみます。

アマ合唱団で初心者がプロの先生や合唱経験者の指導を受けて発声を始めます。この時にアマ合唱参加者が入口で間違いをしているのではないかと思う事があります。それはアマでは発声法も教えられますが、同時に合唱曲のメロデイーやリズムを含めて自分のパート部の歌唱を教えられます。むしろ発声法は従で歌唱の方に重点が置かれるでしょう。アマは歌う楽しみで合唱をしているのでこれは当然です。しかし、発声を正しく会得するためにはこの順序は間違いのように思います。無論、指導者が教える発声法はどれも間違いではありません。殆ど全て正しい指導と発声実践法です。しかし、当方が考えている発声法の前段階は以下のような事です。

クラシック音楽(合唱含め)の声楽・発声は歌手の体全体・頭から足の先までを楽器の共鳴装置にする事です。声帯は使いますが、声帯だけを使うのではありません。ギターやヴァイオリンでは胴体全体が共鳴箱でこれをヘタに抑えると音は響かなくなります。同じように人体もどこかに力がはいると声は響かなくなります。ギターの弦は声帯に当りますが、響きは胴体全体で響きます。声も同じ事です。体全体が血液やリンパ液も含んでできるだけ偏りのない状態で共鳴させる事で良い響きがでます。ノド声はだめ、肩の力を抜け、と言われるのはこの事です。正しい発声をすると健康によいのは体全体を響かせ共鳴させるからです。血の循環が良くなるのでしょう。
単なるイメージ的表現ですが、サラダドレッシングは使う前によく瓶を振って中身をかき混ぜてからかけます。発声も同じ事で歌う前に体全体をよくほぐして声が体全体によく響くように調整します。いきなり歌ってもきれいに響く事はありません。発声はスポーツと同じで必ずウオームアップが必要です。プロの投手練習でも初めはストライクを取る事を目指すのではなくキャッチャーに向かって肩の力を抜いて投げる事を求められます。コントロールを求められる事はありません。

当方が習う順序が間違いと思うのはこの事です。先に楽譜をみてメロデイーやリズムに合わせて歌うとそれに気を取られて体全体を響かせる事が出来なくなります。正しい音程とかリズムを意識すると発声しても響きが失われます。頭脳が体の動きを規制してしまうので響きが失われるのです。その意味でイタリアンテノールの発声は体で歌い、テノール馬鹿と言われるのでしょう。剛速球投手が正確なコントロールを要求されて投手本来の球威を失って打たれてしまうのも同じ事でしょう。
発声の前段階としては音程やメロデイーやリズム等は全て忘れて体全体を開放して声だけ出すのです。当方の習った其の方法は以下のようなものです。

左腕(当方は左利きですので、右利きは右腕)を頭の上に軽くあげます。その片腕(利き腕―これは案外大事な事です)をドレミファソーファミレドの音形で声を出しながらそれに合わせて軽く自然に上下させます。軽いキャッチボールの動作と思えばよいでしょう。
発音はポ(PO)が良いでしょう。ポ、ポ、ポ、―――と声をだしながら腕を振りおろし振り上げる動作をします。但しこの時メロデイーとして歌ってはいけません。ポは音を遠くに捨てるように、会場の奥に届くように出します。単純な音形故、音程も意識しない事。腕を振るので音(声)を捨てる事が動作でできる事になります。大きな声も必要ありません。むしろ初めは小さな声で無理なく出します。口もポをわざわざ発音するのではなく軽く口を空けるだけです。イやエでは口に力が入ってしまいます。表現が悪いのですが、バカやウスノロのように口を開けます。
この単純な腕振りの動作を伴う声出しを毎日数分、繰り返すとノド声でなく肩にも口にも力の入らない発声が自分の体で理解できるようになります。

当方はこの発声法を関西二期会テナー歌手の高田浩平先生に習いました。ベルカント唱法の先生です。大学でドイツ式発声法を他の先生や先輩に習いましたが、当方には実践的ではありませんでした。ドイツ駐在中にちょっと声楽教室をヒヤカシ気味に参加しましたが、大学時代と同じ事をドイツ人の先生が教えていてドイツ式は長らく伝統ある声楽法として実践教育されているのだと思いました。しかし、当方のような体格のない日本人には向いていないと思いました。

アマでは口の形や舌を前に出す、ノドの奥を開くなどとも教えられます。間違いではありませんが、これは結果論でこれらを頭で意識しては正しい発声にはなりません。お腹で音程を支えろとも言われます。しかし、多くのアマの実践では口を使ってコントロールしているのが練習をみていると判ります。逆に、上のような方法―音を遠くに捨てるーで正しい発声をすると音程やリズム、メロデイ、歌詞のコントロールが不安定になります。多くのアマはこの不安定さを回避するために(無意識に)口やノドに力が入り肝心の声の響きを失わせてしまいます。自分には聞こえているが会場には全く届かない声になります。アマでも楽譜のよく読める人が音程やリズムの正確さを意識しすぎて案外、正しい発声ができていない事もよくあります。従って初めに余り音程、リズム、発音の正確さを求めすぎ意識しすぎると正しい発声が身に付かなくなる恐れがあります。これはアマには大きな矛盾ですが、プロでも間違った発声をしている人がいるのはこのせいでしょう。

まずは正しい発声、ノドに力の入らない発声・体全体を使った響きのある発声を自分の体にしっかりと覚えさせてそれから音程、リズム、発音のコントロールができるよう訓練する事が必要だと思います。この手順を逆にするとクラシックの声楽は成り立ちません。プロでも間違った発声をしている人は結構いるので正しい発声法を身につける事はそれなりに難しいことだと思います。無論、音程、リズム、発音を無視して良い発声だけで合唱してもこれまた合唱は成り立ちません。この難しさを解消する方法はただ実践練習だけでしょう。当方は声楽発声法を教授するほどの能力はありませんが、アマでも正しい発声法で歌えばもっと楽しい合唱ができるようになると思います。案外簡単なきっかけで発声のコツを身につけられればよいかと思い書いてみました。又自分の日頃の歌唱実践でリズムや音程が悪い事の弁解にもなったかと思います。

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