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神戸大学新聞の変遷

当新聞会では、1000号発行にあたり1904年の神戸高商学友会報から現在の神戸大学新聞まで続く歴史を振り返りました。ここでは、その変遷をまとめてあります。

神戸高商学友会報丘人筒臺学報
神戸商大新聞神戸経済大学新聞神戸大学新聞

▼神戸高商学友会報

1904年3月3日、後に「神戸大学新聞」となる「神戸高商学友会報」(神戸高商学友会編纂部)が創刊された。創刊号は活版130ページの雑誌型で、初代校長・水島氏の論説や学術記事、ニュース記事などが格調高き美文調で書かれている。学友会報は当初、年3回程度の発行であったが、1907年に月刊制に改められた。

 編集方針は1909年発行の学友会報22号で「本会報は本校および学友会同窓会、校内諸会の最近時事を掲載して各会員相互に最近の事情を報道し、密接な連絡を保たしむるを主眼とす」と決定。神戸高商のあらゆる人々にとってなくてはならないものとなっていった。

 当時の神戸高商学友会には編纂部のほかに興風部・講演部・語学部・運動部・武術部・端艇部の機関があったが、学友会報ではこれらの活動を幅広く網羅し、その活動ぶりを記録に残していた。

 学友会報は、1924年5月に177号を発行したが、翌6月に学友会報に「同窓会欄」を設けていた神戸高商同窓会が「凌霜会」に発展改組されたのを受けて、新たな機関誌「凌霜」が発刊された。これにより、同窓会が学友会報から分離。これを機に、編纂部では陣容新たに「丘人」を発刊することになったが、このころは学友会報と丘人が並行して発行されていた。

▼丘人

 1924年6月28日、「丘人」の創刊号が発刊された。創刊号では「尊い伝統を意義あらしめたい」と、その前身である神戸高商学友会報の号数を受け継ぎ通巻178号として数えられた。しかし、翌7月に発行された丘人第2号からは「丘人は丘人として新しい号数を追うことにした」と、丘人独自に号数を数えることとなった。同時に神戸高商学友会報からの通巻数は「学友会誌」に引き継がれることとなり、学友会誌は通巻第179号が同年11月に発行された。学友会誌は年3回、100貢以上に渡る内容で発行された。名称も「学友会報」を受け継ぎ、以後は「丘人」と「学友会報」が並行して発行されていた。

 しかし、学友会報が1926年に第184号を発行して途絶えている。ここからの通巻号数は、資料がないため不明確であるが、おそらく同年5月発行の丘人第16号を通巻185号として数えたと思われ、その数え方で、後の通巻号数とのつじつまが合う。

 丘人は1925年10月発行の丘人12号前後から、ブランケット版で発行されるようになった。紙面の内容は主に論文や学術記事が中心で、ニュース記事やスポーツ記事、広告などは扱いが小さく、「丘人は新聞らしくない」と当時批判されたという。しかし、編集部は「我々は唯單に一時的に読者の感興を低級な表現で踊らしたり半月や1カ月以前のニュースそれも書かなくても分かり切っていることや書いてもニュースの価値を有せぬものの如き単調な形式的なニュースなどを目的とするならば敢えて少なからぬ困難に戦ってまで此『丘人』の生育を念虜とはしなかった(丘人第17号)」と主張し、その後の紙面でもその方針を貫いた。

 ところで、当時の神戸高商編纂部は丘人のほかに「学生研究雑誌」なども編集しており、仕事も分担していたことから、編纂部を総務課・新聞課・學術課・文藝課の4つに分け、丘人はこれを期に「筒臺新聞」と名称を変えて発行されることとなった。

▼筒臺学報

1927年5月20日、「丘人」の後を次いで「筒臺(とうだい)学報」が発刊された。「筒臺」という名称は、当時学舎が筒井ヶ丘(現神戸市中央区)にあったことに由来する。これは、編集部から分離してできた新聞課が発行したものである。先ほど、「丘人は『筒臺新聞』と名称を変えて発行される」と書いたが、実際の名称は「筒臺学報」となっている。そうなった理由は、学校側が「新聞」という名称を使用することを許可しなかったためである。当時の「新聞」のイメージは、学校側にとってあまり好ましいものではなかったと推測される。

 当時は、神戸商業大学昇格が2年後に迫っており、筒臺学報の紙面もその関連記事が大半を占め、丘人と比べ、ニュース記事が充実しているのが特徴である。号数は通巻数ではなく筒臺学報独自に数えていたが、1928年4月に通巻201号が発行された。筒臺学報は1929年2月に第209号が発行されるまで続いた。

▼神戸商大新聞

 1929年4月1日、旧神戸高等商業学校は神戸商業大学に昇格し、筒臺学報も「神戸商大新聞」と改称。編纂部も神戸商大編纂部となった。同年5月には「神戸商大新聞」第211号が発行され、号数も通巻で数えている。

 神戸商大編纂部は、同年11月に新学友会が発足したと同時に新聞部と雑誌部に分かれた。神戸商大新聞の発行は新聞部が受け継ぎ、雑誌部は神戸高商時代の「丘人」を学術論文研究雑誌として復活させ、以後1941年まで発行した。

 当時は、時代が時代だけに原稿はすべて検閲を受け、削除すべき箇所や不掲載の項目などで必ずもめていたという。検閲反対闘争で、警察の厄介になった編集員もいたという。
 そんな中、神戸商大新聞は1932年1月に第250号を発行。神戸商大新聞250号の歴史を振り返っている。その中で「全丘人の力強き言論報道機関として大学新聞の使命達成に邁進するであろう」と記し、神戸商大新聞の更なる発展を誓っている。

 紙面の特徴としては、主にブランケット版6〜8面構成で1面に学術記事が掲載され、2面以降にニュース記事や論文が掲載されていた。なお、このころの新聞部の特徴を明確に示すものとして、同年4月に起こった「滝川事件」がある。大学の自治に関して大問題となったこの事件だが、神戸商大新聞も第255号で扱っている。これに関して、論説では「吾々も跡起たねばならぬ」と題し、「全600の学生諸君!! 起つのは今だ。京大問題は実に吾々自身の問題だ」と主張した。このように、このころの紙面には一貫した姿勢が見られる。思想や時代の違いこそあれ、こういった批判の精神や主張は現在の神戸大学新聞に通じるものがある。

 戦時中の紙面にはやはり戦争の色が強く出ており、「打倒米英われら征く」「学生兵いまぞ起つ 皇国非常の秋に殉ぜん」「学徒総出陣」といった見出しが紙面を飾った。その後、神戸商大新聞は1943年11月25日に第371号を発刊して以後、戦時体制のもとに休刊に追い込まれることとなった。

▼神戸経済大学新聞

 第二次世界大戦も終わりに近づいた1944年9月、神戸商業大学は神戸経済大学と名称を変更した。しかし、すぐに神戸商大新聞の復刊というわけにはいかなかった。結局、終戦後の1946年7月に「神戸経済大学新聞」の第1号が通巻第372号として発刊されるまで、実に3年近い期間を要したこととなる。

 また、神戸大学新聞の歴史の中でも最も短命だったのが、この神戸経済大学新聞である。神戸経済大学新聞は、1949年に新制神戸大学が誕生するまでの約4年間発行を続けたが、戦後のゴタゴタした時代に発行されていたため、ほとんど資料が残っていないのが難点である。わずかに残っていた資料もボロボロの状態で、読める状態ではないものが多い。結局、新制神戸大学の発足直前までに通巻389号が発行されていたことが確認できた程度である。それでも、わずかに残っていた資料からは編集員の強い主張が見られ、「学問の自由」の強い息吹を感じさせる。

▼神戸大学新聞

 1949年に新制神戸大学が発足するとともに、神戸大学新聞会が誕生。同年5月に「神戸大学新聞」第1号(通巻390号)が発行された。当時の紙面の様子は「人間にたとえれば幼年期を脱皮した青年期であった。感受性に富んだ青年期は、時代の変革を如実に反映し、あるときは右に、あるときは左にと振動を続け、政治主義一辺倒の新聞ができるかと思えば、芸術至上主義的な新聞に一日にして変ぼうする(神戸大学新聞第500号)」というものであった。

 1960年1月25日、神戸大学新聞は500号を発行した。500号は、それまでの新聞大判とは違い92貢からなる雑誌スタイルで発行された。500号では、表紙をめくると「神大五人衆」と銘打たれたグラビアがあり、また、記念号にちなんで発刊記念懸賞作品募集を行い、入賞作品を掲載するなどした。このような意欲的な紙面づくりは、後の編集方針に大きく影響を与えた。なお、500号は現在百年記念館に展示されている。

 話は前後するが、復刊後の神戸大学新聞は「小松問題」や「黒岩問題」、「松下処分問題」などをはじめとする大学をめぐる闘争に積極的に参加し、先頭に立って主張を展開した。しかし、そういった闘争に積極的に参加していった神戸大学新聞も、それらの流れのなかで徐々に読者離れにあい、「新聞」としての使命を果たせなくなっていった。そして、1972年6月12日に718号を発行したのを最後に、神戸大学新聞は1943年以来2度目の休刊に追い込まれることとなった。

 復刊を果たしたのは1975年1月15日であった。「沈黙の刻は終った」という見出しとともに、新生神戸大学新聞会が産声をあげた。その後もさまざまな主張を展開しつつも、学内スポーツ記事やニュース記事などを中心に、学内で広く支持を得るようになった。しかし、神戸大学新聞の歩んだ道は決して平坦ではなかった。広告収入の減少などから財政不足に陥り、発行当初はブランケット版4面であったのが、現在はA3版2面にまで縮小された。

 だが、そのような中でも紙面の充実を目指し、「今月の寸評」(現世相観測)や「編集員に聞きました」、「今日このごろ」などの新企画もスタート。中でも、最近のトピックを取り上げ編集員が主張を展開する「今月の寸評」(世相観測)などは読者の高い評価を得ている。また、六甲祭特集号での「神大毒舌集(96−99年)」や「神戸大学未来新聞(00−01年)」などは、神戸大学新聞で代々受け継がれてきた「批判の精神」の表れであると言えよう。さらに、1995年の阪神大震災時には、震災後1週間で避難所向け号外を発行。神大生の下宿情報、医療関係の情報、市街地の交通情報などをいち早く配信した。

 


 このような歴史を経て神戸大学新聞は1000号を迎えた。神戸大学とともに歩み、それぞれの時代を反映してきた神戸大学新聞であるが、それでもその根底にある姿勢は一貫している。神戸大学新聞719号に掲載された「沈黙の刻は終った」の一節にはこう記されている。「さて、現在、大学において新聞を発刊しようとする私たちが目指す新聞とは何か。それは、真に文化の闘いを担える新聞である。すなわち我々学生自身の生活、思想と密着し、我々の本物の目、耳としての役割を果たし、自由に語りうる口としての働きをすることである。(後略)」

これからも、神戸大学新聞は神戸大学とともに歩み、文化を伝え続ける。


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