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コラムの部屋 ・ 8月掲載分
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8月29日掲載
最近poenique(ポエニーク)という詩の投稿サイトにちょくちょくと顔を出している。もちろん私は詩を書くような人間ではないし、何人かの好きな詩人を除けば、ろくに詩集すら読んだこともない。たぶん最後に詩というものを書いたのは小学校時代の宿題だろう。そういうわけで、当然のことながら投稿などは一度もしたことがない。しかし、そのサイトへ行くと、人の「表現したい」という欲求を強く感じることができて、私は何か気に入っている。
詩の投稿に限らず、信じられない量の自作の小説、漫画、音楽などがインターネット上に存在する。もちろん人によりそう思う動機はさまざまだろうが、自分の気持ち、考えたことなどを多くの人に伝えたいという欲求は普遍的なものなのだろう。インターネット人口がこれほどまでに膨れあがった要因の一つは、これまでは個人が多くの人に対して表現する手軽な手段がなかったが、みんな何かを伝えたいという思いを抱えていたからではないか。そしてその手段が普及しつつある今、これまでは目立たなかった個人が、表現の世界での主導権を握りつつあるのかもしれない。
そんなことを考えながら、投稿された詩やそれに対する批評をながめているわけだが、どうしても時々考えてしまうことがある。コラムを書かなくてはいけないのにネタがなくて四苦八苦している人間がいる一方で、見返りもなし、必要すらないのにわざわざ詩を書いたりする人たちもいるのだ。世の中にはコラムを書きたくてしょうがないといった人もいるかもしれない。680字程度のコラムの投稿サイトでも運営してみようかと思う今日このごろである。【親方】
8月22日掲載
東大阪の自宅の近くに、市立図書館がある。この2階に地元の文豪、司馬遼太郎の業績をたたえた「司馬遼太郎コーナー」なるものがあり、著作の愛蔵版や、資料が展示されている。
その中でひときわ目につくのが直筆原稿だ。何色もの色鉛筆で、不要な単語を削り、新たに文章を付け加え、欄外に編集者の意見まで書き留めている。
私は、手書きより、パソコンでの方が早く文章を書ける。私がパソコンで文章を書くときは、まず思いついたアイデアを個条書きに並べ、それに肉付けして文章に仕上げる。こうすると、原稿用紙に向かって「さあ書くぞ」と意気込んで執筆するのとは違い、パズルを解くような感じで、気軽に文章をつづることができる。
この方法で文章を仕上げると、一番最初に書きならべたアイデア集は、本文の中に埋め込まれて消えてしまう。下書きも残らない。残るのは、小奇麗な完成品だけだ。
しかし直筆原稿には、印刷された作品からは読みとれない、執筆者の試行錯誤の一部始終が刻み込まれている。司馬遼太郎の生原稿を見たとき、歴史小説の大家が「少しでも面白い作品を」と思って工夫を凝らした跡を如実に見ることができる。丹念に加筆修正された原稿からにじみ出る、司馬氏の熱意と苦労…。パソコンで文書を書くと、このような味わい深さは全く消え失せる。
作家にあこがれた中学時代、私は原稿用紙にわざと殴り書きし、覚えたての校正記号を使い、小さく汚い字で「加筆」していた。手書きで長文を書かなくなった今、そんな幼稚なまねをしていたころが懐かしい。【ナオ】
8月15日掲載
夏休みが始まりはや2週間。昔から、今年の夏こそ有意義にすごしてやろう、そう誓い続けて10年以上が経過するわけだが、やはり今年も不可能だと気付いた。夏休みの最大の魅力は「何をしても自由ですよ。山でも海でも好きな所に行って好きなことをしてください」という点につきる。しかし、私のような没個性的な人間にとって、この2カ月という長すぎる休暇は、まさに何をすればいいのやらと途方に暮れるだけで終わってしまうのだ。
しかし純粋な子供たちなら違うだろう。毎日が充実しているに違いない。そう信じて近所の子供たちに「夏休みは充実してるのかな?」などと犯罪者すれすれの馬鹿なことを聞いてみたのだが、少ないながらも喫煙、深夜徘回など大して私と変わらない生活をしている子供もいることを知り、がく然とした。
当然ながら、夏休みには魅力があると同時に、非行への誘惑もある。夏休みが子供たちを非行に走らせる原因などという極論はもちろん論外。しかし、近年増加する男女の共働き、最近はやりのゆとり教育、夏休みという異常に長い空白の期間。これらの子供たちをとりまく環境と、彼らにとってある意味魅力的であろう非行行為との間に何の関係もないとは言いきれない。
夏休みの歴史は古く、今の大人たちがすべて長い夏休みの経験者であり、その長さに疑問を抱かないでいるのは仕方ない。しかし現在、社会は核家族化、女性の社会進出などで大きく変化している。本当に我々、特に今の子供たちにとって、
これだけ長い夏休みは必要なのか? この小さな疑問で少しは暇がつぶせそうだ。【ワルサー】
8月8日掲載
恥ずかしながら、私が新聞会の末席を汚すようになって一年余り。自分の書いてきた文を読み返すに、記事というものはつくづく恐ろしいものだ、と思う。
文章を書くためには、自分の頭で事象を認識し、判断、解釈した上でそれを言葉にしていかねばならない。さらに、新聞記事は詩歌散文と違って、流麗な文句で雰囲気を伝え、あとは読者にお任せします、というわけには行かない。誰が読んでも同じように何が起こったかを理解できる、ということが必要だ。自分の思いを前面に出してはならないからこそ、自分の知能程度と認識力が如実に反映される。
事件の発端から結末、周囲の動き、その背景。自分がそれらをどのようにとらえ、いかに解釈したか。記者に与えられた単語と文法を用いて、文章を組み立て、紙面に載せる。いわば、己の脳みそを切り開いて、紙面というふるいにかけ、衆人環視の下にさらしているわけだ。
それは、新聞記事を書くときに限らず、楽曲を作るにしろ絵をえがくにしろ似たようなもので、表現活動には常に付きまとってくることだ。さきほど「読者にお任せ」できると書いた詩や歌も、自分の感性をさらすという点では、新聞記事などよりはるかに小恥ずかしいものだと思う。
とかく、毎回記事を書き進めていると、文章に浮き出てくる自分の思考の軟弱さと知識の欠乏に嫌気がさす。そして、何とかできあがった原稿を読み返し、めずらしく満足できる文章が書けたようだ、と喜んでいると、頭の中で冷笑的な声が聞こえてくる。「貴様の思考回路は読者諸氏に披露できるほど立派なものでございますか」と。【ピーター】
8月1日掲載
前期期末考査が終了した。手応えからして、私の修了単位は二桁にも満たないだろう。しかし、教官の愛と友人の大切さを再確認できたという点において、この考査期間は実りあるものであった。
大学の講義の中には毎年全く同じ内容を繰り返すものが少なくない。そういった講義では試験で問われる内容も例年似通ったものとなるため、昨年までの出題、いわゆる過去問が大きな意味を持つこととなる。
この過去問という存在は、「学究」と対をなす大学の「実践」の面を象徴しているように思われる。インターネットを駆使して過去問を探し当てる者がいれば、サークルに代々伝わる必勝ノートを上回生から授けられる者もおり、そうして友人が獲得した獲物のおこぼれを期待するばかりの者もいる。過去問さえ手に入れば点数が確約される試験では、学生の学力を計ることはできない。無論、そうした試験は学生の学力を計るためのものでは、ない。いかにして過去問を手に入れるのか、行動力、情報収集能力、人脈、その他諸々を含めた、いわば総合的問題解決能力を求めているのだ。
噂によれば、国文学舎で行われるある講義では、5年前からまったく試験問題が変わっていないという。浅はかな者はそれを教官の怠慢と見るかもしれない。そういった風評に耐え、あえて学生の未来のために自身を省みない。愛あればこそできることだ。「中途半端な専門知識よりも、実社会において真に必要とされる能力を伝えたい」。一見するとただ眠そうなだけの教官の目の奥に、しかし私は教育者としての愛と情熱を確かに見て取った。【カラメル】
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