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先生は平成16年春に「歩いて視て想うー卒寿を越えて」という随想集を出版されました。それまでに昭和61年73歳のときに1冊目「歩いて視て想う」、平成12年87歳のときに「歩いて視て想うー古希から米寿までー」を、またその間平成10年には「祖父聞書―萬吉と米花商店」で太平洋戦争までの米花商店と米花家の様子をまとめておられます。
これらの中に書かれていますが、改めてお尋ねします。姫路の乾物商のひとり息子である先生が、家業を継がれず研究者の道を進まれたのはどうしてですか。 |
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当家は姓でわかるように「糀屋」からはじまり、色々な食品を手がけるなか明治になって乾物問屋を営みました。私の生まれた頃は姫路の福中町に店がありました。昭和8年に神戸商業大学に入学し平井泰太郎先生の指導を受けていましたが大学2年の時に父が急死、家業を継ぐかどうかという事になったとき、祖父は乾物商の未経験者が継ぐことを諫めました。いまひとつ、前年に平井先生が当家を訪れ父に私が研究の道に進むことを推して下さり、父がそれを承諾していたことを祖父が理解してくれていたこともありました。
それで卒業後は丸紅に就職、調査部勤務となったのです。 |
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大学へ戻られたわけは? |
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丸紅では染色加工や機業地の調査に各地を回りましたが、このことが後の研究に大変役立ちました。平井先生の働きかけで昭和19年に大学の付置研究所(昭和24年経済経営研究所となる)が立ち上がったときに大学へ戻る事が出来ました。以後経営機械化研究からはじまり、経営立地研究が私の生涯の研究テーマになったのです。 |
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先生はいつもご自分の事を「楽しみ学派」とおっしゃっていますがー。 |
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昭和40年代後半の頃に、先輩教授から「君は楽しみ学派だなあ」と、多分に皮肉を込めていわれたことがありました。当時はその冷やかしを聞き流しておりましたが、今は現場主義の研究者として私自身大変気に入っております。 |
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先生は研究だけでなく、尼崎のぴっころ劇団に深く関わっておられるように、演劇・歌舞伎・能楽など芸能に多彩な興味をお持ちですね。会議や講義で各地へ赴かれたときには毎回とてもそれらの鑑賞を楽しみにしておられたと聞いています。そんな先生をうらやましく思われたのかも知れませんね。 |
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特に能楽、謡には深く関わっています。父が生前謡曲に特に熱心で、その刺激で私も大学入学後すぐに入部して謡を始めました。戦後も故藤井茂先生の心配りのおかげで謡を続けてきました。今も月2回昔の仲間と謡っております。 |
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先生は「叱られることのさわやかさ」「ひとりよがりの戒め」とよくおっしゃいますが。 |
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はい。学生時代からの謡曲の師、故宇治正夫先生からたいへん厳しい稽古をつけていただきました。大学の先生という立場にいると「叱られる」ということはめったになく誠に有り難いことでした。この厳しさの中に、研究者としての日常のあり方ともっともかかわることがあると思っております。 |
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「卒寿を越えて」先生が益々お元気で活躍されることを祈念しています。
ありがとうございました。 |