岸  正和 曰く 本文へジャンプ
エッセイ

2005年12月10日(土)から

  目   次

2005年12月10日(土) 北京におけるあるアンバランスの具体例、及びその一考察
2005年12月17日(土) 大・人本主義と小・人本主義
2005年12月24日(土) 大・人本主義とニート
2005年12月30日(金) 2点の補足など
2006年 1月 7日 (土) カネの抽象性とヒトの具体性
2006年 1月14日 (土) 社会不安の先送り
2006年 1月21日 (土) 代表なければ不利益なし
2006年 1月28日 (土) 経営とは、不確実性から生じるリスクの各ステークホルダーに対する分配である。

2006年 2月 4日 (土) 気が付けば黒
2006年 2月11日 (土) 「lifetime commitment」をめぐって
2006年 2月18日 (土) 格差社会を前に
2006年 2月25日 (土) ウィンストン・チャーチル
2006年 3月18日 (土) 学ぶということを、学んだ
2006年 4月 1日 (土) ギャンブルに勝った英国人
2006年 4月15日 (土) 無能なベテラン社員の問題
2006年 4月29日 (土) 戦略は権力を必要とする。
2006年 5月 6日 (土) 戦略不全は権力不全に起因する。
2006年 5月21日 (日) 埋 木 舎
2008年 9月 7日 (日) 弁護士増員に関する政府と市場の役割分担



2008年 9月 7日 (日) 
 ■ 弁護士増員に関する政府と市場の役割分担


お休みとしては少し長すぎたかもしれませんが、また書き始めます。

 

近頃、弁護士の増員についての議論が喧しい。弁護士増員のペースが速すぎるのでペースダウンしろとか、そもそも年間3000人も司法試験に合格させるべきでないとか、弁護士界からの弁護士増員に対する反対意見が特に目立つ。このような意見に対し、違和感を覚えてしまうのは私だけだろうか。かかる見解の論者たちは、「弁護士の」数について、果たして国がどの程度決定できると考えているのだろうか。

司法試験は国家試験であり、その合格者数についてであれば、国は完全にコントロールできる。しかし、「司法試験合格者の」数を完全にコントロールできるということと、「弁護士の」数を完全にコントロールできるということは、一応別のことなのである。司法試験に合格できれば、弁護士として活躍できるというわけではないからだ。現に、司法試験に合格できても法律事務所に就職できず、開業資金もないため弁護士になれない人が増えつつあるし、長年弁護士業を営んできたが、ほとんど稼げないため弁護士業を廃業する人が出始めているらしい。

このような事態は当事者にとっては悲劇であろうが、弁護士以外の様々な資格の世界においては昔からごく普通にあったことである。例えば、教員免許を持っていても教師になれるわけではなかったし、司法書士や税理士、社会保険労務士等の資格をとっても、開業や就職ができない人や、一旦開業しても稼げないため廃業する人は珍しくなかった。もし弁護士の世界が最近までそうでなかったとしたら、それは弁護士が不当な既得権を持っていたと考えるべきなのではないだろうか。このような既得権を失うことは弁護士にとっては大きな痛みであろうが、一般国民にとってはどうでもいいことか、あるいは法律サービスの供給が増えて競争が促進されることによるメリットに対する期待もあり、むしろ喜ばしいことであると考えられているのではないだろうか。どうも弁護士に払っているお金が高過ぎるのではないか、と考えている人は少なくないだろう。

結局弁護士の数を最終的に決めるのは、国ではなく市場である。国は、市場が必要とする法律サービスを供給するのに必要な弁護士の数を、現実の弁護士の数が上回るように、司法試験の合格者数を調節しなければならない。市場は多すぎる弁護士の数を適正な数に減らすために淘汰という最良の武器を持つが、少なすぎる弁護士の数を適正な数に増やす術は何ら有さないということを、まず理解しなければならない。国が常に心配すべきなのは、「司法試験合格者の数が多すぎないか」ということではなく、「司法試験合格者の数が少なすぎないか」ということなのである。弁護士の数を減らすのは、国の仕事ではなく、市場の仕事なのである。

司法試験の合格者数を増やすことに対する反対意見の主要な論拠は、司法試験の合格者の数を増やすと弁護士の質が低下するという点にある。しかし、これまで長い間規制に保護されてきた弁護士達にはわかりづらかろうが、資本主義社会、自由競争社会における市場は非常に厳しいものであるため、質の低い弁護士をかなりの精度で選び出し淘汰してしまうだろうというのが、一般的なビジネスパーソンの見方である。弁護士の質を向上させるには、弁護士を競争させるのが一番であり、そのためには司法試験の合格者数を増やす必要がある。自分たち弁護士の質が高いのだと主張するのは弁護士の勝手だが、その主張の正誤を判断するのは市場である。誰が弁護士として相応しいのかを最も正確に判断できるのは、国でも日弁連でもなく市場なのである。

また、弁護士の質を判断する基礎資料として何を用いるべきかという問題もある。単なるペーパーテストの結果だけを基礎資料として判断する(司法試験合格者数を絞り、その後は競争を緩やかにするということは、こういうことでもある)のと、ペーパーテストの結果に加えて、就職活動における人物評価、開業準備における資金調達等の能力、開業後の経営能力、そして弁護士実務で要求される理論と実務を架橋する応用能力等々あらゆる能力の有無をも基礎資料に取り込んで総合的に判断する(司法試験合格者を増やすが、合格後も競争させ続けるということは、こういうことでもある)のと、どちらがより適切であろうか。市場は万能ではないが、少なくとも司法試験よりは多元的に判断することにより、弁護士の質を確保しようとするのであり、その判断のプロセスに、市民はどの弁護士と契約をするべきかという意思決定を通じて自ら関与することが可能である。

このように司法試験合格者数を増やすということは、弁護士の質および量に関し、市場すなわち市民が主体的に判断することにつながるのである。この、市民が主体的に司法に関する判断をするということこそが一連の司法改革の目的とするところであり、弁護士界はこれを妨げてはならない。




6月3日(土)からしばらくの間、お休みをいただきます。



5月27日、都合によりお休みをいただきます。6月3日(土)から再開します。



2006年 5月21日 (日) 
 ■ 埋 木 舎


小泉純一郎首相、安倍晋三官房長官そして竹中平蔵総務相の3人には、ある共通点がある。それは尊敬する人物として吉田松陰をあげることである。

 

かくすればかくなるものと知りながら

已むに已まれぬ大和魂

 

に歌い込まれた、自己の信念に忠実な生き様や、

 

身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも

            留め置かまし大和魂

 

という辞世に歌われた、潔すぎる死に様が今日の権力者の心を打つようである。私も松陰は嫌いではないが、尊敬できるか否かと問われれば、否と答える。理由を一言で言えば、松蔭には大人を感じられないからである。本来兵学者であったとはとても思えない、あまりにも直線的で無謀な事の進め方には、知性や熟慮といったものが感じられない。むしろ松蔭の敵役である井伊直弼という人物を、私は尊敬して止まない。このようなことを考えながら先日私は、直弼が青年時代を送ったとされる「埋木舎(うもれぎのや)」を一度見ておこうと思い、彦根を訪れた。

 

直弼は、彦根藩主井伊直中の14男として彦根城内で生まれた。この井伊家は、江戸幕府譜代大名筆頭という名門中の名門である。しかし14男の直弼には家督を継ぐ見込みはなく、17才で父を失った後は、藩の掟に従い三百俵の捨扶持で彦根城中堀の向う岸にある屋敷にて暮らすことになった。この屋敷を、直弼は「埋木舎」と号した。

 

譜代大名筆頭という大大名の子の住まいとしては物足りないと、埋木舎の門前で私は感じた。後ろを振り返ると中堀を挟んで、彦根城の櫓が聳え立っていた。門をくぐれば、目の前に柳の木が立っており、その傍らには、

 

むっとしてもどれば庭に柳かな

 

という直弼の句を記した立て札があった。直弼は風に逆らわぬ柳という木の在り方を、こよなく愛したそうである。

また、環境が突然変化し将来への不安を感じた17才の直弼は、次のような歌を詠んだ。

 

世の中をよそに見つつも埋木の

 埋もれておらむ心なき身は

 

埋もれ木として生きていくべき宿命を理解しつつも、埋もれ切ることを絶対に許そうとしない自己の才能に対する強烈な自負を捨て去ることは、若き日の直弼にはできぬことだったのだろう。結局直弼はこの埋木舎において、文武両道の修練に没頭する以外の生き方を見つけられなかった。埋もれ木としてひっそりと朽ち果てていくこと以外に何も求められぬ日々を送りながら、只管に「なすべき業」を自ら探し求め続けた。国学、書、禅、焼物、居合術、柔術、馬術、弓術等の勉強や修行に、睡眠時間を4時間に抑えて打ち込んだのである。特に茶道、和歌、能は達人の域に達し、「茶、歌、ポン(鼓・能)』という綽名を付けられたそうだ。

 

しかし、天はこの逸材をいつまでも埋もれさせておかなかった。直弼32歳の時に、藩主である兄の子の死により兄の養子に迎えられ、更に36歳の時にその兄が亡くなるという2つの偶然が重なり合うことにより、直弼は彦根藩13代藩主に就任する。埋もれ木が、遂に大輪の花を咲かせ始めたのである。その後幕府の大老職に就任した後、日米修好通商条約を締結し、開国というその進むべき唯一の道へと、日本を速やかに導いたことは周知の通りである。

この日米修好通商条約締結に際し、「異人嫌い」で有名な孝明天皇の勅許を得なかったことが独断と批判されたが、むしろこれは英断と言うべきであろう。啓かれた者にとっては、日本のとり得る針路は開国以外にあり得なかったのである。啓かれた者が啓かれざる者を啓いてやるためには、非常に長い時間がかかる(或いは、いくら時間があっても啓いてやれない)。しかしながら、互いに競い合いながら日本に向かって来る欧米列強は、気長に待つということはできないのである。したがって、誰かが独断という非難を引き受ける覚悟をし、英断をする以外になかったのである。直弼は大老として、更には名門中の名門に生まれた男として、暗殺される危険を含む全てを引き受けた。決して松蔭のように、「かくすればかくなるものと知りながら 已むに已まれぬ大和魂」と、田舎芝居の決め台詞のような歌を詠むわけでもなく、静かに、淡々と「なすべき業」に取り組み続けたのである。

 

桜田門外の変の2ヶ月ほど前の正月に、直弼は彦根でお抱えの絵師に自身の正装をした画像を描かせ、これに自作の歌を賛した。その掛け軸が埋木舎の一室に掛けられている。この歌が直弼の辞世にあたるとされているのだが、抑制の効いた見事な歌であるように私には思われる。

 

 あふみの海磯うつ波のいく度か

         御世にこころをくだきぬるかな




5月13日、都合によりお休みをいただきます。5月21日(日)から再開します。



2006年 5月6日 (土) 
 ■ 戦略不全は権力不全に起因する。


戦略は権力を必要とする。したがって、権力が機能しないところでは戦略も機能しない。戦略不全は権力不全に起因する。

最近、三品和広神戸大学大学院経営学研究科教授の「戦略不全の論理」と「経営は十年にして成らず」(共に東洋経済新報社)を読んだ。これらの著書で三品教授は日本企業の戦略不全の原因を、経営者の長期政権の減少に見出している。例えば、「戦略不全の論理」226頁には以下のような記述がある。「日本企業の多くが慢性の戦略不全を患う最大の理由は、社長の在任期間が戦略の最低スパンに届かないことにある。その結果、経営は短命社長から短命社長へのバケツリレーに委ねられ、戦略の非可逆性原則を満たすことができないのである。」

確かにその通りなのであるが、より本質的・根源的に遡って戦略不全の原因を探れば、そもそも日本企業の内部に権力が不在であることにあるのではないだろうか。集中した強い権力が企業内に存在せず、細分化された権力が社内にいくつも存在する(所謂派閥など)が故に、「経営は短命社長から短命社長へのバケツリレーに委ねられ」てしまうのである。「社長の在任期間が戦略の最低スパンに届かないこと」は、あくまでも現象に過ぎない。このような現象を生ぜしめている本質的原因は、企業内に権力、権力者が自然と育たないことにある。更にその原因を日本人の民族的特性、或いは戦後民主主義に求めることは可能であろう。強いリーダーが育つ土壌が日本、特に戦後の日本には無いのである。

強い現場が何でも解決できると思われていた時代もあったが、実際は、円という通貨が長期間過小評価され続けたこと、貯蓄に熱心な国民から銀行を通じて低コストで資金を安定的に調達できたことなど、幸運な環境があらゆる問題を解決してくれただけだという見方もある。私は、日本企業の現場の力を評価する人間なのだが、現場の力を過大評価すること、更には絶対視することには、警戒心を持っている。上述の「幸運な環境」を望めそうにない今後暫くは、現場、現場と声高に叫ぶのをやめて、強い権力、リーダーを生み出し、その戦略に基づいた行動をとるほうが、現場の各構成員にとっても利益となるのではないだろうか。もちろん、日常業務など戦術以下のレベルでは現場の声は大事にされなければならず、その限りでは現場主義も分権化も大いに結構である。あくまでも、戦略レベルにおいて全社を統合する権力が必要であると言いたいだけである。




2006年 4月29日 (土) 
 ■ 戦略は権力を必要とする。


私は、「日経ビジネス」という雑誌を定期購読し、これを毎週、広告以外は全て(とはいっても、広告がかなり多い雑誌ではある)読むという、かなり模範的な読者なのであるが、この「日経ビジネス」の424日号の48ページに、森精機製作所に関する以下のような記述がある。「毎年必ず100人程度の新卒社員を安定的に採用してきたことも大きな意味を持つ。いくら新しい設備を導入して生産能力を拡大しても、それを担う人材が不足していては資産効率が下がるからだ。森社長は『受注産業で波のある業界こそ、淡々と人を採り続ける意味がある。人材不足に悩むメーカーも多いが、うちは苦しい時期に採用した人材がこれから戦力として貢献してくれる』と話す。」

経営はスピードであると喧伝される昨今ではあるが、本当にチャンスが到来したとき、迅速に攻めに転じてこれをものにすることができる会社というのは、このような会社である。不況期に人材や設備に対する投資を怠ってきた企業が、好景気が到来してからいくら迅速に行動しても、それらを怠ることなくいつチャンスがきてもいいようにと備えてきた企業には敵わない。スピード重視と声高に叫び、好況期には人を採りまくり、不況期には採用を抑制するという目先重視の企業が、長期的な戦略を持ち、静かに淡々と安定的な採用を継続する企業に、スピードで負けるのは必然である。スピード重視ということと戦略重視ということは、決して矛盾するものではない。

企業において戦略に責任をもつ経営者は、短期の因果関係のみに目を奪われるのではなく、長期の因果関係にも強い関心を持たなければならないことには、多言を要しない。「新卒社員の採用を抑制すれば、人件費の総額を圧縮することができ、利益を確保できる」という考えは、恐らく誰にでも理解できるだろう。しかし、「新卒社員の採用を抑制しすぎると、不況期を抜け出したときに反転攻勢をかけるための人材が不足する。仮に同業他社がその準備を整えていれば、我が社はそのときにどう頑張っても利益を出せないかもしれない。」という考えについては、理解できる人とできない人が出てくる。理解できる人、即ち経営者とその周辺の人々は理解できない人を説得しようと、ある程度の努力はするが、誰かが「そうすると俺たちの給料が大幅に下がるのか。ひょっとするとリストラされるのか。冗談じゃない。」と一喝すると、説得を諦める。

戦略は権力を必要とする。長期の因果関係を理解できない(或いは理解しようとしない)連中を黙らせるためには、強い権力が必要なのである。世の中には、人の話を聴こうとしない輩が余りにも多すぎる。また、ゴネる奴が得をするという現実を経験的に学んでしまった連中も。現実社会は、話し合いで解決できない問題だらけなのである。

以前、「強いリーダーを持たない危険性」の存在につき指摘したが、具体的には今回書いているように、「自己の利益のために共同体の利益を犠牲にする人々」を黙らせる機能が共同体に備わっていないような場合に、この危険性が顕在化していると言えよう。私は基本的に世襲的なるものに対して、嫌悪感を持つ人間であるが、しかしこの「強いリーダーを持たない危険性」に対して強いのは、同族企業である。上述の森精機も一応は同族企業である。やはり、オーナー兼社長という存在は、効能も副作用も強力である。これらのうち、副作用の方に注目した議論をした方が、一般受けもよく、利口に思われるのかもしれないが、しかし効能についても特にジャーナリズムは、しっかりと伝えていかなければならないのではないだろうか(ちなみに私の愛する「日経ビジネス」は、これまでしっかりと伝えてくれている)。




4月22日、都合によりお休みをいただきます。4月29日から再開します。



2006年 4月15日 (土) 
 ■ 無能なベテラン社員の問題


フランスの若者向け雇用制度(CPE)が13日、正式に廃止された。このCPEを巡る最近のフランス社会の混乱は、私にとって非常に興味深いものであった。

このホームページの読者の中には、私がCPEに賛成しているのではないかと感じられている方も多いのではないのだろうか。

確かに、私は労働者の地位を高めることが、これから労働者になろうとする若者の就業機会を奪うという結果を導いているのではないかという疑問を持っている。よって、CPEの根底にある「解雇しやすい制度こそが、企業の採用意欲を高める」という思想は、十分理解できる。

しかし、私の問題意識の根底にあるのは、以前にも述べたように、「人は自己の努力によりコントロールできない事情(ここでは生まれる時代)によって差別されるべきではない」という、所謂人間平等の思想である。この思想から考えるとCPEには、これから職に就こうとする若者のみが自由解雇リスクを負担させられるという、既に職に就いている年長者との関係で、自己の努力によりコントロールできない事情による差別が存在すると認めざるを得ない。この点で私はCPEには賛成できないと考えていた。

人間平等という出発点から考えて、先進国の企業が国際競争に勝ち残っていくために本当に必要な制度は、解雇や賃下げのリスクをあらゆる世代の人達がその能力に応じて平等に負担する制度である。無能なベテラン社員が指名解雇あるいは賃下げされ、優秀な若者が就業機会に恵まれ、企業内で抜擢される、そんな社会こそが「人は自己の努力によりコントロールできない事情によって差別されるべきではない」という人間平等の思想の根付いた理想社会であると、私には思われてならない。

また私は最近、色々な業界の方と一対一で話をするチャンスに恵まれているのであるが、私の本音のみを語ろうとする性格のせいもあって、相手もかなり本音の部分を語ってくれる。それらを総合すると、どうも企業、特に小規模企業の一番の問題点は、無能なベテラン社員の存在にあるようである。

近年の就職難や様々な事情により、優秀な若者と無能なベテラン社員が小規模企業で席を並べることになる。ここで「文明の衝突」が起こる。やはり両者の間では明白な能力の差があり、且つその差の原因となった幼少期からの人格態度の差がある。優秀な若者は無能なベテランの能力や人格を軽蔑し、自分より偏差値が10も20も低い大学の出身者である人々の指示をいつまでも聞かされてたまるかと、転職のために努力を集中する。これに対し無能なベテランは優秀な若者の能力に脅威を感じ、何とかして若者の能力や人格に欠陥を見出そう、あるいは職場から追い出してしまおうと、意味の無い努力をする。いずれにせよ、優秀な若者は小規模企業から速やかに姿を消す。小規模企業は飛躍のきっかけとなる人材を確保するのに失敗し、いつまでも小規模企業であり続ける。そこでは、無能なベテラン社員たちが仲良く仕事をサボりながら、安月給を貰い続ける。

結局は、経営者が現場をどれだけ把握できるかが問われる問題なのであろう。




4月8日、都合によりお休みをいただきます。4月15日から再開します。



2006年 4月 1日 (土) 
 ■ ギャンブルに勝った英国人


学生時代繰り返し読んだ本に、塩野七生氏の「ローマ人の物語」シリーズがある。このシリーズは、年に一冊ずつ出版される、ローマ建国の頃からの歴史小説で、今はどの時代まで進んでいるのか軍人皇帝時代までしか読んでいない私の知るところではないが、当時の私にとってとても大きな本だったし、またその影響は未だに私の中に残っている。

前にも書いたように私は法学部の学生時代、憲法学のゼミに所属していた。私はそこで教授の意見に反論ばかりしていた“Fighting Student”だったのだが、そのような私の理論的ベースの多くがこのシリーズや塩野七生氏の他の著書から得られたものだった。

憲法学者が個人の尊重に最高の価値をおき、これを侵害する恐れが強い国家権力を何とかして縛ろうとする(所謂人権保障と権力分立というものである)のに対し、入るゼミを間違えたとしか思えない私は、当時の日本に必要なのは強力なリーダーシップをもつ指導者であり、彼に権力を集中させ、長期にわたってこれを行使させるべきであるという、今となっては小泉純一郎首相、日産自動車のカルロス・ゴーン氏、そして松下電器産業の中村邦夫氏などのケースにより、相当程度は正しいということが証明されてはいるものの、当時の日本ではまだ少数意見に過ぎなかった危険思想の持ち主だった(ただそのゼミには高校時代にファシストだったという早熟の秀才も在籍していたので、ゼミ生の中では特別おかしな考え方というわけではなかった)。

これらの塩野七生氏の著書の中で「羊に率いられたライオンの群れよりも、ライオンに率いられた羊の群れのほうが強力である」という言葉(古くからのヨーロッパの格言だったか、或いはマキアヴェッリの言葉だったかよく覚えていない)が繰り返されていた。上述のような危険思想の持ち主であった私は、この言葉に深い感銘を受けた。ただ、その一方で憲法や会社法の勉強もそれなりにしていた私は、歴史が繰り返し証明してきた強いリーダーの持つ危険性もある程度理解していた。

そんな私が強いリーダーの是非につき考える度に辿り着く凡その結論は、「強いリーダーを持つ危険性」も「強いリーダーを持たない危険性」も共に存在し、両者のうち何れを重視すべきかは、その共同体の置かれている時代、環境により具体的、相対的に決定されるべきであり、したがって一般論として結論を出してその結論を絶対視してしまってはならないというものである。よって、憲法学者や弁護士が好むような、強いリーダーが絶対に生まれないような制度はよろしくないと考える。強いリーダーがある程度生まれにくい制度は必要であろうが、そのような制度的な困難を克服して強いリーダーが生まれるのであれば、それはその共同体の置かれている時代、環境において、「強いリーダーを持たない危険性」が具体化しているが故に起こり得たものであろう。そのようにして登場してきたリーダーが、ヒトラーのような悪魔なのか、或いはチャーチルのような傑物なのかは、事後的にしかわからない。まさにその共同体の構成員の質が問われる、一種の賭けと割り切るしかないのである。

そう言えば前にここで少し触れたP.ドラッカー教授は、一貫してカリスマというものを否定し続けたことで有名な論者であるものの、チャーチルは例外であったようで絶賛している。チャーチルという強力なリーダーシップを持つカリスマが英国に勝利をもたらし得たのは、例えば日本の真珠湾攻撃により日独伊三国同盟に基づきドイツがアメリカに対し参戦することとなったことなど、いくつかの偶然によるものだろう。とすれば、チャーチルがドラッカーも絶賛するような傑物であることも、やはり事後的に明らかになったと考えるべきであろう。ギャンブル好きで有名な民族である英国人は、このとき賭けに勝ったということであり、逆にドイツ人は賭けに負けたということである。




3月25日、都合によりお休みをいただきます。4月1日から再開します。



2006年 3月18日 (土)
 ■ 学ぶということを、学んだ

先週の土曜日、母校のゼミの指導教官だった浦部法穂現名古屋大学法科大学院教授の還暦祝いの会が大阪で催され、私も出席した。懐かしいゼミの同期の面々と久々に再会し、楽しいひとときを過ごすことができた。2次会会場への移動の際、同期3人で並んで歩いていると、3人ともカジュアルな服装で来ていたせいもあって、学生時代に戻ったような錯覚を、私は覚えた。

このゼミ、そして浦部先生の大きな特徴は、「教えないこと」だった。勉強をしたい人間はすればよいし、したくない人間はしなくてよかった。単位の認定も、ゼミ論文を提出するかどうかで決まった。論文の内容は成績評価の対象にならなかった。とにかくゼミ論文を提出すれば「優」が貰えるが、提出しなければ「不可」になる。出欠はとらないし、ゼミでの討論への参加姿勢などが評価されるわけでもない。ゼミ論文だけきちんと出しておけば「優」を貰えるという、所謂「楽勝ゼミ」であった。

このようなゼミや指導教官を批判するのは容易だろうけれども、それでゼミ生はだめになったのかというと、そうでもなかった。同期は12人いたが、うち半数の6人は司法試験の受験生だったため、勝手に勉強をしていた。このうち、2人は弁護士になり、1人はまだ頑張ってアルバイトをしながら受験勉強を続けている。挫折をした3人も、地方公務員や法律事務所の事務員などの仕事を頑張っているようである。3人いた女子学生は、皆志望どおりに地方公務員に納まっているところを見ると、それなりに勉強をしていたのだろう。就職志望だった2人も、大企業に入って真面目に頑張って生きているようである。残りの1人も大学院に進んだ後、ある大学で講師をしている。すごいゼミというわけではないが、司法、行政、学会、そして産業界に、法学部のゼミとして、それなりに人材を供給できたことは、間違いないだろう。学生が教師に依存せず、教師が学生を信頼する、私がいた頃の浦部ゼミには、そんな理想的な雰囲気があった。大人の、大人による、大人のためのゼミだった。

ゼミや大学で学んだことは何かと問われれば、私は、勉強というものはあくまで自分でするものだ、という常識だと答える。

まずは自分で本を数冊読み、知識を得ながら、疑問点を見つける。何冊か本を読んでも解消できない疑問点は、知識のある人に聞いてみる。ただし、このような疑問点は誰に聞いてもわからないことが多い。そこから、学問、研究が始まる。これが勉強であるということを、私は大学で学んだ。司法試験に合格するために何を暗記すればよいのか、などということは、大学もゼミも教えてはくれなかった。

また浦部先生には、自分で筋道を立てて物事を考えるということ、そしてその考えを表現することのお手本を、その著書やゼミでのコメントを通じて示していただいた。先生の考えに対し、常に反対意見を述べるという不埒なゼミ生だったが、それにより多くのことを学ばせていただいたと思う。もしかしたら私が一番大きなものを、あのゼミから得ていたのかもしれない。

私は今、法律学の勉強から離れ、経営学の勉強の入り口に立っている。経営学の知識はあまりないが、勉強の仕方はわかっている。あとは、扉が開くのを待つのみである。

 

これは余談だが、私がここで繰り返し述べている日本の若年層の不幸は、勤労者の権利(憲法28条)が全ての国民の勤労の権利(27条)に優位してしまっているために、生じてしまった現象である。既得権者である勤労者の権利を保護すると、新規参入者である若者(勤労者ではないが、全ての国民には含まれる)の勤労の権利が結果的に侵害されてしまうということが、ここ数年の不況により証明された。27条は28条の前提となるものであり、全ての国民に27条により勤労の権利を保障した上で、28条により勤労者の権利が保障される(憲法27条が28条を制約する)という考え方が、そろそろ憲法学者から主張されてもよいのではないだろうか。



3月4日、11日の2週間、都合によりお休みをいただきます。3月18日から再開します。


2006年 2月25日(土)

 ■ ウィンストン・チャーチル

去年の11月頃、「戦略の本質」(野中郁次郎一橋大学大学院国際企業戦略研究科教授 他著)を、そして最近、「ドラッカー365の金言」(ピーター・F・ドラッカー クレアモント大学院大学教授著)を、それぞれ読んだ。いずれも非常に面白く、読んで良かったと心から思うことのできる本だったのだが、後者を読んだ後、そこに書かれていたある歴史上の人物のことが心に残り、同様の経験をした前者を読み終えたときのことを思い出した。その人物とは、ウィンストン・チャーチルである。

「今日では、もしチャーチルがいなければ、アメリカもナチスの支配に対し手を出さずに終わったかもしれないことを実感するのは難しい。まさにチャーチルが与えてくれたものこそ、ヨーロッパが必要とするものだった。道義の権威であり、価値への献身であり、行動への信奉だった。」と「ドラッカー365の金言」の115頁にあるように、もしイギリスがこの強烈な個性を有する老人という切り札をもっていなければ、我々は全く違う世界に生きているのかもしれない。

同様のことは「戦略の本質」の334頁にも、以下のように記されている。「第二次世界大戦の英独戦を書いた名著『ヒトラー対チャーチル』の著者ジョン・ルカーチは、人間の意図や価値を排除する決定論的で科学的なアプローチに反論し、次のようにいう。『決定論的な科学哲学によれば、歴史は物質的条件や制度や組織によって『つくられ』、もはや傑出した人の思考や言動によっては形成されないことになっている。だが1940年の時点で、世界の大部分、そしてそれ以降の20世紀のほとんどの運命を決定づけたのは、二人の男、すなわちヒトラーとチャーチルであったことは疑いようもない。』」私も、歴史が傑出した個人の意思により大きく動いてしまうことはありうると信じている人間の一人であり、かつチャーチルがその「傑出した個人」の一人であったと考えている。よって、これらの2冊の本、特にチャーチルに対する深い尊敬と愛情をもって書かれた「戦略の本質」を楽しんで読むことができたのかもしれない。このチャーチルの個性は、彼の最大の敵であったヒトラーとの対比により顕在化される。

例えば、348頁の「命題6 戦略は『言葉(レトリック)』である」に、「言語能力は政治の基本である。そして戦略も、時間軸を含んだ『起承転結』のレトリックで表現されることが重要である。しかし、全てのリーダーにこの言語能力、レトリックの能力がそなわっていたわけではない。チャーチルは自ら歴史を執筆し、書くことを好んだが、ヒトラーは過去の習慣や制度を放棄さるべきであるとして、歴史を重視せず、自ら文書を書くことは少なかった。」とある。文章を書くということは、自己を客観視することである。ヒトラーとチャーチル、共に強烈な主観、信念を持つことのできる強い精神の持ち主であったと思うが、ヒトラーの主観、信念には客観的な拠り所があまりにも欠けていた。ヒトラー、ナチス、あるいはゲルマン民族といった特定の人々以外にとっては決してついていくことができないものであった。これを真面目に文章化すると、書き手の精神が壊れかねない。

これに対し、チャーチルの主観、信念には客観性、普遍性があった。文字が読めて、彼の考えに共感する人々は世界中の至る所に多数存在した。彼は自分が考えたことを表現するという営み自体が楽しくて仕方なかっただろうし、多くの質の高い読者に支持されるという喜びも得られただろう。「書く→読者の支持→充実感→更に書く」という幸福なサイクルが彼の書く才能を伸ばし続け、この才能が彼の人生では強力な武器となった。

また、361頁には、以下のような記載がある。「チャーチルとヒトラーの対比(ルカーチ『ヒトラー対チャーチル』)でいえば、チャーチルは懐かしい祖父に対して覚える親しさと素朴な人間らしさを持ち、ときに目に涙をいっぱい浮かべることがあり、それを恥じる様子もなかった。共感の場づくりに優れ、他者との対話のなかで本質を直観し、その理論づけ、正当化が巧みであった。状況に応じたユーモアのセンスに満ち、最悪の事態にも、にわかに浮上するタイミングを知っていた。ヒトラーは人間感情と他者の弱点を見抜く直観に優れていたが、そこから得た本質を概念的に再構成し、理性的に説得する能力に欠けていた。チャーチルほどの人間的暖かさや感情の豊かさに欠け、ユーモアがほとんどなく、たまにユーモアらしきものを示しても下品に見えた。いわゆる即興の場を生み出す知的パフォーマンスに欠けていた。」この記載に挙げられているヒトラーにはなく、チャーチルにあったものこそ、現代市民社会のリーダーに必要なものであると、私は思う。すなわち、本質を見抜き、理論づけ、正当化をしていくという理性的な能力、そしてユーモア、逆境の中での強さ、素朴な人間らしさといった感情的な魅力により、他者の共感を得る能力というものこそが、現代のリーダーに求められており、したがってこれらを見事に兼ね備えていたウィンストン・チャーチルに、リーダーの理想を見る人々が今なお多いのだろう。




2006年 2月18日(土)

 ■ 格差社会を前に

昨日のテレビ東京「ワールド・ビジネス・サテライト」のエンディングで、御立尚資ボストン・コンサルティング・グループ日本代表が、格差社会の問題について発言されていた。格差が生じることを正当化するためには(このような言い方ではなかったかもしれないが、趣旨は大きく異ならないはずである)、前提として①格差が親から子へと承継されないこと、および②敗者復活の道があることの2点が必要であるということだった。確か財界の偉い人が、先週似たようなことを仰っていたと思う。

私の意見もほぼ同様である。ここに私の4大原則をまず列挙し、その後各々につき簡単な補足を加えることにする。

     格差の無い社会より、格差のある社会の方が良い社会である。

     格差があまりにも大きい社会は望ましくない。

     格差の生じる原因は、本人の努力の有無により一応の説明が可能なものでなければならない。

     敗者復活の余地が残されなければならない。

まず①については、マーガレット・サッチャーの名言、「金持ちを貧乏人にしても、貧乏人が金持ちになれるわけではない」を思い出せば十分であろう。格差の無い社会というのは、人間の個性、多様性を否定し、己の成長を求めて努力するという人間らしい心を枯らし、その結果人間から可能性を奪うという意味で、まさに最悪の社会である。

次に②であるが、これについては今の日本では色々な意見があると思う。その中で私がこのように考えるのは、格差があまりにも大きい社会というのは、弱い立場の人間の生存権が犠牲にされ易いからである。年俸何十億円で働く社長がいる一方で、その会社の社員が額に汗してボロボロになるまで働きつつ、首にならないかと怯えているというような社会を、我々日本人が好むとは思えないし、そのような企業、社会の生産性が高いとも思えない。アメリカでも、生産性の高い企業というのはかなりの金を従業員に分配している。また、格差が大きすぎる社会では敗者復活が困難であろうから、原則④との関係でも問題であるし、さらには「格差の相続」が生じ易い為、原則③との関係でも問題となる。

さらに③であるが、単純な例を挙げれば、「貧乏人の子供が貧乏人になり、金持ちの子供が金持ちになる社会」は許されないということである。親の地位、能力、財産・所得などは、子供本人の努力によってコントロールできないものである(以前、どの時代に生まれるのかということも、本人の努力ではコントロールできないと私はここで述べている。世代間格差もこの原則に反するということである。)。このようなもので子供の人生がほぼ決まってしまうような社会にしないために重要なことは、全ての人間がその能力に応じて等しく教育を受ける機会を得られることである。塾に行かなければ学力が身につかないような学校教育は、早急に改められねばならない。また大学の数が多すぎるため、助成金が幾らあっても足りず、その結果学費が高くなりすぎて、結果的に貧しいが有能な人間が大学に行くことを諦めて、結局金持ちのバカ息子が大学に集まっているということになっていないだろうか。高等教育を受けるに十分な能力と意欲を兼ね備えている人間は、残念ながら常に少数しかいない。もし彼らの人数に合うだけの大学しかなければ、今の規模の助成金で学費をかなり低額にできるだろう。

最後に④である。一度失敗したらやり直しのできないような人生であれば、誰もチャレンジをしなくなってしまう。その結果社会の進歩は止まることになる。また、何にチャレンジするのでもなく(したがって自覚できるような失敗をした経験も無く)、だらだらと生きてきて負け組に入ってしまったような人(このような人が今の日本人の多数派であると思う)であっても、一念発起して自分を変えるための努力をすれば、幸せになれるような世の中でなければ、あまりにも多くの人がやる気を失ってしまい、これもまた社会にとって損失が大きい。更に、才能のある人が努力しても失敗することが多い現実社会では、そのような人に対して何度でも再挑戦をする機会を保障しなければ、社会は未来のリーダーを獲得する機会を失ってしまう。

以上ごく簡単に論じさせて頂いたが、この私自身司法試験に合格することができず、新たな道を模索している負け組の一員に過ぎない。ただ我が身をこのように思うとき、私の脳裏にいつも浮かんでくるシーンがある。それは、北方謙三の小説「三国志」に描かれた、若き日の曹操が董卓軍との戦いに惨敗し、まさに命からがら逃げ帰った後、共に戦おうとしなかった反董卓連合軍の諸将を前に、次のように述べるシーンである(本が手元に無いため引用としては不正確なものになる。しかし私の心に浮かび上がってくるのは、以下のような光景であることには、間違いは無い。)。

 

「私は負けた。完膚なきまでに負けた。しかし戦って負けた。そして諸君は戦わずして負けたのだ。」

曹操の声はよく通っていた。

「戦って負けた私は、戦わずして負けた諸君に、決別を告げる。手負っている兵ばかりだ。兵の手当てを終えたら、陣を払わせて頂く。焼け焦げた洛陽の地を、私は踏むつもりはない。」

そのとき、兵が一人駆けて来た。

「殿、ご無事でしたか。ご無事かどうか、気が気でありませんでしたぞ。」

曹操が言った。

「生きている。また、戦える。」

その瞬間、全軍から地鳴りのような歓声が沸き起こった。

私は、この社会が敗者復活の可能な社会であることを、心から信ずる。




2006年 2月11日(土)

 ■ 「lifetime commitment」をめぐって

私は昨年6月から経営学に関する本を読み始めてきた者なのだが、それらの本では日本的経営の特徴の1つとして、「終身雇用(lifetime commitment)」が挙げられている。私はこれを見るたびに、「commitment」という語がどうして「雇用」と訳されているのか不思議でならなかった。「commitment」を英和辞典で引くと、委託、委任、約束、公約、献身、傾倒、そして(政治などへの)参加といった多くの訳語が並んでいるが、「雇用」という語は見当たらない。「雇用」という訳が全くの誤訳であるとは思わないが、上記の辞書に記載された訳語や、普段色々な書物を読んでいて目にする「コミットメント」とは質的にかなり違う(あまりに具体的過ぎて、「commitment」が持つ意味の広がりを失ってしまっている)気がしていた。それではこの「lifetime commitment」をどう訳すべきか、という難問は、私が昨秋から開始した神戸大学経営学研究科への急接近策(何故か北京にまで行ってしまった)により、そのかなりの部分が解決されることになる。

昨年105日の午後に神戸大学六甲台キャンパスで催された、現代経営学研究所主催のシンポジウムに私は参加した。なぜか法学部の大教室が会場として用いられ、しかも法学部の五百簱頭眞教授が飛入りで参加されるなど、法学部卒業の私としては懐かさを感じずにはいられないひと時だった。

このシンポジウムの終了後キャンパス内のレストランでパーティーが開かれ、私もこれに参加した。そこで神戸大学経営学研究科の社会人MBAコースに通っているという方と、お話をする機会を持つことができた。このMBAコースに私は強い関心を持っており、またその方が非常に親切だったこともあって、MBAコースの受験対策などについて色々と貴重なお話を聞かせて頂いた。そのついでに私は、彼に上述の疑問をぶつけてみたが、やはり彼もよくわからないようだった。

その数週間後の1025日、私は北京にいた。今度は神戸大学経営学研究科主催のシンポジウムに参加するためである。そこで行われた加護野忠男教授の基調講演で、例の難問の大きなヒントを得ることができた。

それによると、「lifetime commitment」をどう訳すべきかというのは、その翻訳者自身も悩みぬいた超難問だったということだった。すなわち、日本的経営研究の大御所にアベグレン博士(ボストン・コンサルティング・グループの創設者)という方がいる。彼が著した「日本の経営」という本の中で、日本的経営の特徴として、企業別労働組合、年功序列制度、そして「lifetime commitment」の3つが挙げられていた。この本を最初に日本語に訳されたのが、加護野教授の師匠である占部都美神戸大学教授だったのだが、加護野教授によると、占部教授はしばしば「lifetime commitment」をどう訳すべきかは非常に難しい問題だった、とこぼされていたそうである。そのような占部教授の悩みを知った上で、加護野教授は「lifetime commitment」を「忠誠主義」と訳したそうである。

このシンポジウムの後にも例によってパーティーがあり、そこで私は加護野教授と話す機会を得たので、この件について尋ねてみた。すると傍にいた女性(おそらくは研究者)が、「それについてはアベグレン博士ご本人に直接聞いたことがあるけれど、彼も『忠誠』が正しいとおっしゃっていました」と教えてくれた。

11月上旬、今度は楽天の三木谷浩史会長の神戸大学学園祭での講演を聴くため、私は神戸六甲を訪れた。その講演の終わりの質問コーナーで、私は「楽天がTBSとの企業統合を目指す目的は何か」「その目的を達成するために他のより合理的な選択肢は無いのか」という2点を質問したかったのだが、質問は学生優先ということで遠慮させていただいた。しかしその後のニュースを見るたびに、やはりあの時質問をしておくべきであったという思いを強くしている。

その講演が終わった後、またパーティーがあった。参加してみると、神戸大学経営学研究科のMBAホルダーの方々が数名来られていた。私は、その人達や経営学部卒業生の方に、例の「lifetime commitment」に関する話をしてみた。そして自分の見解として、「『commitment』というのは、心の問題であり、『雇用』と訳すよりは『忠誠』とぼかして訳すほうがベターだと思います。私のように法律の勉強をしてきた者から見れば、『lifetime commitment』というのは、雇用契約書には書かれていなくても、自然法や社会契約、慣習などのように不文の紳士協定として、使用者は経営が苦しいときでも被用者を解雇しないこと、また被用者はサービス残業や休日出勤を厭わなかったり、お金でライバル企業に引き抜かれないことを相互に約束しあっている、そういうことを言っているような感じがします。今度20日にアベグレン博士の講演が六甲台であるから、それを聴きに行けば何かわかるだろうと思っています。」と私は言った。

そして1120日、いよいよアベグレン博士の講演である。講演の終わりに加護野教授が「lifetime commitment」に関しての自説を述べられた。「commitment」は心の問題であり、「雇用」は制度の問題であるといったことを強調されていたと記憶している。これを受けてアベグレン博士は、「lifetime commitment」というのは、ある種の社会契約であり、雇用契約書の中身云々以前の問題として、使用者は安易に解雇をしない、また被用者はサービス残業をするなど、互いを拘束しあうルールが日本社会には存在しているということを表現したものであるという趣旨のことを述べられた。

偉大な研究者の考えが、素人である私の考えと表現の上ではほとんど変わらないということを知り、私は非常に興奮した。このような経験をすると、その学問を好きにならずにはいられないものである。

ともあれ、「lifetime commitment」をどう訳すべきか、というのは未だに難しい問題であると思う。「commitment」の中心にあるものは、雇用に関するお互いの約束であろうから、「終身雇用」という訳は的を射たものなのだろうが、それだけに限定されてしまうのもコストとしては高すぎるような気がする。特に日本では首切りはいけないという面のみが強調され、被用者側が使用者に対して強烈な忠誠心をもって仕事をするという面が忘れ去られてしまう嫌いがある。その結果、「lifetime commitment」が本質的に双務的なものであることが軽んじられてきたような気がする。とすれば、加護野教授の「忠誠主義」はかなり出来の良い訳であると言えよう(偉そうな言い方になってしまい本当にすみません)。

この問題を考えると、鎌倉幕府の「御恩、奉公」の関係を思い浮かべてしまうのは、私だけなのだろうか?

追伸(2月12日) 読みながら、「一所懸命」という言葉を思い出した。




2006年 2月 4日(土)

 ■ 気が付けば黒

一昨年の秋、司法試験の論文式試験に不合格となった私は、遂に親から就職するか、それとも家を出るか、どちらかにしてくれと、所謂最後通牒を突きつけられ、就職活動を始めることにした。そのとき既に32歳になっていた私(正社員としての勤務経験は無かった)には、当然のことながら大学の同期が就職したような会社に就職できるわけがなかった。一言で言えば、「入れてくれるところに入るしかない」という状況だった。

そんなとき某司法試験予備校で、某商工ローン会社の求人広告を見つけた。司法試験の択一式試験合格経験者を対象に、法務部員を募集するという内容のものだった。「商工ローン」と聞くと、私の世代は社会問題となった「日栄」を思い出す。絶対にあんな仕事をしたくはない、と思いつつ、しかし法務部員なら貸付や取立といった、「汚れ役」はやらなくて済むし、あくまで法に則り処理するだけだから構わないか、などとも考えたり、色々と悩んだ末、取り敢えず面接の練習として行けるところまでは行ってみようという軽い気持ちで応募してみた。

暫くして電話がかかってきた。会社説明会、筆記試験、そして面接試験をしたいので来るように、ということだった。そこで私は、母親にこれを報告した。これに対し、母親は絶対に行くなと言った。どんなに落ちぶれても、人様を泣かすような仕事にだけは就いてくれるな、今までやりたいことをやりたいだけやってきたのだから、その結果はきっちり受け入れなさい、そうきっぱりと言った。なぜかその時、私は嬉しかった。そして母親に、就職するつもりは毛頭無いけれども、これから受ける面接試験の練習の為に、取り敢えず行ってみると告げ、数日後その会社を訪れた。

会社説明会は、その会社のビジネスモデルが合法的なものであることを説明することが主目的であるような内容のものであった。利息制限法の上限金利を超えるが、貸金業法には違反しないという、所謂グレーゾーン金利で金銭を貸し、貸金業法のみなし弁済規定を利用して、合法的に債権を回収するというのが、そのビジネスモデルである。募集の対象の法務部は、その債権回収の一環として、簡易裁判所での訴訟活動をするのが仕事だということだった。また、給料などの待遇は親会社の有名消費者金融会社に準じること、そして残業は少なく、司法試験の受験勉強と両立しやすいということなどが説明された。

この話を聞きながら私は、不快感を覚えた。詳細な説明はここでは省略させていただくが、要するに、法的に弁済する必要性が無い金銭を、相手の無知に乗じる形で弁済させることにより成り立っているビジネスモデルである。相手を騙すわけではないが、相手の無知・誤解を活用するというわけである。その会社の社員たちは、このようなことを得意気に話していた。

私は、この会社には絶対に就職しないと決心していたので、「何か質問はありますか?」と聞かれたときに、こう言った。「御社のビジネスモデルが合法的なものであるということは理解できましたが、今後の法的リスクについてどのように考えられて、どのような対策を具体的に採られているのですか?つまり、このようなやり方はそう遠くないうちに、法律改正や判例変更で合法性を否定される可能性が高いと思われますが、もしそのような事態に陥った場合には、御社はどうされますか?具体的に説明していただきたいと考えております。」その瞬間、場が凍りついた。暫く沈黙が続いた後、彼らは色々と話し出したが、具体的な回答と言えるものではなかった。このやり方が法的に否定されることは無いだろうということを、彼らは繰り返し述べていた。

その数日後、予想通りその会社から不採用の通知が届いた。

それから1年以上経った先月の中頃、2つのニュースが私にこのことを思い出させた。1つは、先月13日の最高裁第2小法廷判決で、上述のみなし弁済規定の適用範囲が大幅に狭められたというニュースである。この判決により、上述の商工ローン会社のビジネスモデルは、ほとんど成り立ち得ないものとなってしまった。新聞記事によると、敗訴した企業(上述の商工ローン会社である)の社員は、「これからどうすればいいのかわからない」と嘆いているそうである。

そしてもう1つは、例のライブドア騒動である。法に触れない限り何をやってもいいという考え方を持つ人間は、気が付けば法に触れるところまで行ってしまっているものである。黒を黒と認識するためには、白の中にいなければならない。いつもグレーの中にいると、いつの間にか黒がグレーに見えてくる。

また堀江という人間については、別の機会にじっくりとここで意見を述べたいと思っているが、今日1つだけ言わせて貰うと、「金で買えないものは無い」などと、もし彼が本気で考えているのであれば、彼は本物の馬鹿だと思う。例えば、金でお世辞は買えるが、尊敬は買えない。金でお世辞を買って勝ち誇っているような人間は、尊敬という心情を知らないのだろう。人の心を動かすことの難しさを知ることは、大人にしかできぬことなのかもしれない。

こんな人物を「救世主」と崇め奉ったこの時代は、やはり相当「悪い時代」なのだろう。



2006年 1月28日(土)

 ■ 経営とは、不確実性から生じるリスクの各ステークホルダーに対する分配である。

経済がグローバル化した今日、企業は世界との過酷な競争に曝されている。この競争においては、まさに「一寸先は闇」と言える。今日好調な企業も、1年経てば苦しんでいるかもしれない。逆に今日苦しんでいる企業も、1年経てば市場からの絶賛を浴びているかもしれない。昨日株価が大幅に上昇したソニーの、ここ数年の栄光と挫折、そして再起への歩みを見れば、経営は不確実性に満ちていることがよくわかるだろう。

企業経営とは、この不確実性から生まれるリスク・損失を、多様なステークホルダーのうちの誰にどの程度、どのような方法で引き受けさせるかを決めることである、という捉え方もできる。取引条件で顧客、取引先そして下請企業に、配当や株価で株主に、利率や支払方法で銀行等の債権者に、役員報酬の総額や支給方法で経営陣に、そして人件費総額とその配分で従業員にという具合に、色々なルート、方法を通してリスク・損失を配分する営みが、企業経営の重要な一面なのである。

その目的は、企業を長期的に存続・発展させ、そのステークホルダーの利益を最大化することにある。この目的を達成するためには、各ステークホルダーがお互いの価値・貢献度を認め合い、誰が欠けてもうまくいかないという意味の相互利用補充関係にあるという意識を強く持つことが重要である。

私がここでこれまで述べてきた非正規雇用の問題は、リスクが長期的に具体化したときに、これによる損失が人件費総額の圧縮という形で従業員に配分されることから生じるものである。この配分された損失を、更に現在及び将来の従業員間で配分する際、方法として新卒採用の削減に依存しすぎたために、結果として若年層の多くが非正規雇用の労働者になってしまっている。これは企業にとって将来の成長機会を奪うものであり、速やかに是正されるべきものである。このような状態がなかなか是正されないという事実は、今の日本企業の各ステークホルダーの中で、若手社員の質及び量こそが企業の将来価値を決定する主たる要因であるということが、あまり理解されていないことの証左であると言えよう。

あるいは、そもそも各ステークホルダー、なかでも外国人投資家・機関投資家などに代表される株主が、企業の長期的利益に無関心になってしまっているからなのかもしれない。ごく短期的にでも株価を上昇させたうえで株式を売却すればすぐに投下資金を回収でき、企業との関係を断ち切れる株主に、企業の長期的利益を重視してもらうことを期待するのは、性質上難しいことなのかもしれない。株式公開企業にとって受難の日々が続くだろう。また、企業の幹部である中高年の役員や従業員の中には、会社には自分が退職金を貰うまで頑張っていただければ結構ですという、「後は野となれ山となれ」タイプの人も少なくはないのかもしれない。

雇用維持を重視する日本的経営を「正しい」ものであると言うためには、雇用維持のために犠牲となった人達、即ち新卒採用の機会を十分に与えられなかった人達を、危機の去った後に救済することが必要であるということを、私はここで繰り返し述べてきた。今週の国会でも、小泉首相や民主党の江田五月氏等から、非正規雇用の人達を正社員として雇用することの必要性が叫ばれているようである。

経済界もこの問題から逃げられないことに一刻も早く気付くべきである。この問題に率先して取り組む企業こそが、若い世代に尊敬され、したがって将来、社会から大きな利益を享受できる企業となりうるのである。

また社会の指導層ではない一般国民も、この問題は自らの収入を減らしてでも解決しなければならないものであることを理解しなければならない。結局は日本人の質が問われる問題であることも、これまで述べてきたとおりである。




2006年 1月21日(土)

 ■ 代表なければ不利益なし


今週末は非常に忙しいので、今年に入ってすぐにあるところへ作文として提出した文章を、一部手直ししてここに載せることにさせていただく。

 

取締役など企業の幹部に30歳前後の若手が一定の割合で常に在任していることを義務付ける制度の構築を、経営者などに提案し続けたいと考えています。

近年の日本企業の行動を外部から観察していますと、非常に短期的な視点から小さな利益を追い求めるあまり、将来の大きな利益が等閑にされているような気がしてなりません。例えば、昨年新日本製鉄が、出資比率38%に過ぎない上海の合弁会社BNA に対し、自社の競争力の源泉ともいえる溶融亜鉛めっき鋼板の製造ライン技術などを全面的に供与してしまいました。これにより数年間は利益が新日鉄に転がり込むことでしょう。しかし、これらの技術がほとんど支配力をもたない合弁会社を通じて中国企業に流出していく可能性はかなり高いように思われます。そうなった場合、将来の新日鉄社員はどうやって中国企業と競争していけばよいのでしょうか。

もちろん新日鉄の経営陣の間でもそのような議論はなされた上で、それでも技術供与した方が自社にとって利益になるのだという結論が出たのでしょう。しかし、どのような施策をとることが会社の利益になるのか、という問題は、「利益」をどう定義するか、即ち短期的利益と長期的利益のいずれをどの程度重視するかが、とても重要になってくるものです。とすれば、やはり意思決定に携わる役員各々の今後会社と関係を有する年数には、相当程度のばらつきがあった方が良いのではないでしょうか。今の日本の大企業役員会では、50代以上の人の占める割合が高すぎます。このような役員会に会社の長期的な利益を重視することを期待するのは、非常に難しいと思います。

そこで冒頭に述べた制度が必要になるというわけです(以下、省略)。


追伸

今(本日夕方)放送中のテレビ東京系の番組で、フリーターなどの増大した理由として、近年企業が新卒採用を控えてきたことが指摘されたのに対し、ある中年女性が「でも、今年は大量に採用されている」と反論していた。

この発言の意味は不明であるが、自信満々の表情で、気合十分に発されたためか、他のメンバーは黙ってしまった(いかにも日本的な光景だった)。

論理的に考えれば、ある時代の新卒採用の減少から生じる問題を、別の時代の新卒採用の拡大で解決できるという考え方は、間違いである。特に新卒採用の減少から非正規雇用の労働者にならざるを得ない立場に追い込まれた当人の立場からすれば、より若い世代の新卒採用が増えたところで何の意味もない。むしろ、それによって中途採用のチャンスが奪われる場合もあることも考えれば、有害ですらある。あくまでも、新卒採用の機会が奪われた世代を、正社員として中途採用することこそ、問題の正しい解決法なのである。

またこの手の番組では、フリーターなどの非正規雇用の労働者を、自発的な非正規雇用労働者と非自発的なそれとに区別して、今はどちらについて議論しているのかを明確にするべきであろう。いつも無意味に議論が混乱しているように感じているのは、私だけなのであろうか。




2006年 1月14日(土)

 ■ 社会不安の先送り

雇用維持云々の話からはしばらく離れることにしようと思っていたのだが、一昨日のテレビ東京の「ワールドビジネスサテライト」で、日本経団連の奥田会長が、「日本経済が不況から脱出できたのは、雇用維持を重視する所謂日本的経営のおかげである。もし企業が従業員の解雇を徹底的に行っていたら、深刻な社会不安を招いたであろう。」という趣旨の発言をされたというニュースが流されていたのを見て、またこのテーマで書かざるを得ない気分になった。

もっとも、このニュースはフラッシュニュースとして放映されたものであるため、上記発言の詳細は不明である。よって、「奥田会長の発言」に対する意見、反論としての文章を書くつもりは、私にはない。私が普段から思っていることを書いていくだけであるが、このHP読者の皆様の中には奥田会長と面識のある方もいらっしゃるだろうから、もし拙文の中に奥田会長に伝えるに値する何かがあれば、お伝えいただければ幸いである。

 

「日本経済が不況から脱出できたのは、雇用維持を重視する所謂日本的経営のおかげである。もし企業が従業員の解雇を徹底的に行っていたら、深刻な社会不安を招いたであろう。」という考え方に対し、私はある程度は正しいと思うが、ある程度は間違えていると思う。

仮に日本企業がアメリカ企業のような従業員解雇を行っていたとしたら、深刻な社会不安が起こっていた可能性は高いと思うし、そうでなくても需要の収縮が激しくなり、重度のデフレスパイラルに陥っていたと思う。また私は、現に働いている従業員の雇用を維持する代わりに、新規採用を停止または縮小するという措置の問題点をこれまで指摘してきたが、個々の企業の見地から現実的に考えれば、新規採用を少なくとも縮小することもなしに、現従業員の解雇を進めることなど、極めて難しいだろう。結局、日本企業は目の前にあった現実的・具体的危機に対し、悩み苦しみながら、選び得る手段の中で最良のものを選択し、遂に勝利したのだと考えることもできるのかもしれない。

しかし、この「勝利」はあくまで戦術的勝利に過ぎないと考えるべきであろう。日本社会は、深刻な社会不安の目を断ち切ったわけではない。あくまでも社会不安を先送りにしたに過ぎないのである。これまでこのHPで何度も指摘してきたように、若年層のフリーター、派遣社員や契約社員など非正規雇用、そしてニートの問題が大きくなっている。この人達の問題を解決することなくして、勝利を宣言するのは早すぎるのではないだろうか。

日本人の大きな欠陥は、勝利宣言を急ぎすぎることにあると私は考えているのだが、この問題についてもそうである。戦術的勝利と戦略的勝利を混同してはならない。

戦略的勝利を収めるのに不可欠なのは、既得権を持つ人々の、「美しき階級的自殺」である。企業において正社員が、フリーター、派遣社員や契約社員の中で正社員になりたいという意欲を持ち、能力的に問題がない人を正社員にするために、あるいは20代~30代前半の世代を中途採用するために、自分たちの収入が下がることを納得できるか、また社会全体においてニートの問題に本腰を入れて取り組めるか、我々日本人の精神の質が問われているのだと思う。時間をかけて、ゆっくりとしかし確実に、一部の世代に集中した痛みの負担を、皆で共有していく方向に進めていくことが、企業や社会の健全で長期的な発展に必要不可欠であるということを、理解しなければならない。

そんなことを考えながら新聞を読んでいると、今、大企業の労働組合はベースアップの要求に懸命だということである。正社員が自身の給料分働いていると仮定すれば、隣で同じ仕事をしている派遣社員は自身の給料の何倍分働いているのか、本当に賃上げが必要なのは誰なのか、もう少し考えたほうがいいのではないだろうかと思いながら、筆を置く。




2006年 1月 7日(土)

 ■ カネの抽象性とヒトの具体性

明けましておめでとうございます。

本年も宜しくお願いします。

 

前回、次のタイトルは「カネの抽象性とヒトの具体性」にするつもりだと書いたのだが、このタイトルで書き出せば、そのうちに筆を滑らせて色々と物議を醸すようなことを書いてしまうような気がするので、結構気が重い。したがってタイトルの変更も考えたのだが、それも年末年始真剣にこのテーマについて考えながら過ごしてくれた模範的読者の皆様に申し訳ないだろう。そこで、やはりこのタイトル・テーマで、あっさりと書くことにする。

 

資本主義の「資」とは、究極的にはカネのことである。このカネは価値そのものであり、したがって抽象的である。個性はなく、どこにいっても1億円は1億円の価値を持っている。

これに対し人本主義の「人」とはヒトのことであるが、このヒトは厄介なものである。個性があり、一人一人が具体的存在である。よって、これからの日本ではヒトこそが高い価値を産み出す源泉なのであると言われれば、全くその通りなのであるが、ヒトの産み出すことができる価値にはそれぞれ違いがある。高い価値を産み出すことのできるヒトと、そうでないヒトがいるということは、これまでに書いてきたとおりである。

このように、カネとヒトとは全く異なる性質をもっているにもかかわらず、これを無視あるいは軽視して例えば、「資本主義の時代から人本主義の時代へ」などと言ってみたところで、具体的な問題、例えば時代環境が人件費総額の圧縮を求めてきたときに、新規採用の停止あるいは大幅削減と、その時点の従業員解雇とのどちらに軸足をおくべきかなどについて、何の解も出て来ないのではないだろうか?このような「人本主義」という概念の曖昧さが、大・人本主義と小・人本主義という雇用維持に関して方向性が大きく異なりうる2つの考え方を内包してしまう原因となっているのだろう。

 

また、大・人本主義と小・人本主義のそれぞれの冠を入れ替えるべきなのかどうかは、難問であり、しばらくは答えが出せそうにない。

現従業員の雇用維持にこだわることは、世間では美談として語られがちであるのだが、必ずしもすべてのヒトにとって美しい話ではない。ニートは勿論のこと、フリーターや派遣社員の低賃金労働など、若い世代にしわ寄せが来ていることは認めざるを得ない。日本では、会社は労働者のものであるという考え方が根強いが、それは対株主関係では今後も大切にしていくべき考え方なのであろう。しかし、若い世代との関係では、少し考え直す余地はあるのではないだろうか?

 

現在、日本経済は回復軌道に乗っている。また、団塊世代の大量退職を目前にして、就職・転職市場は「売り手市場」になってきているそうだ。よって、私がここで書いている問題は過去の問題になりつつあるといえよう。しかし景気は、いつかはまた後退する。そのとき、またこのような問題は起こる。今度起こるときは更に深刻なものになる可能性もある。そのとき、このような議論はなかなかしづら