文理学部・文科の思い出 
          
                          
上田 雄(国史学 昭和29年卒業)        

   学 歴 詐 称

 私が昭和6年(1931)に生を亨けたのは、父の実家のあった兵庫県武庫郡住吉村であり、幼児期を過ごしたのは同じ武庫郡の本山村、小学校時代(当時は国民学校)は同じ武庫郡魚崎町で育ったが、中学入学と共に再び本山村に移転し、其処から中学、高校、大学に通った。
 その大学時代に神戸市の合併攻勢が進み、武庫郡を構成していた御影町、住吉村、魚崎町、本山村、深江村がすべて神戸市に併呑され、神戸市東灘区となってしまった。それまで、兵庫県武庫郡本山村北畑字保久良という田園情緒に溢れた、そして日本の神話的な歴史の香が漂う*住所名が神戸市東灘区本山南町4丁目という、味も素っ気もない住所表示になってしまった。だから私は武庫郡本山村に住んでいた昭和25年(1950)に神戸大学文理学部文科に入学したのだが、昭和29年(1954)に卒業する時には住所は、お上の力で勝手に神戸市東灘区に変えられていたのである。
 しかし、大学の方は昭和25年(1950)4月に神戸大学の文理学部文科に入学して、昭和29年(1954)3月に文理学部文科を卒業したことに間違いはない。ところが私たち国史学科の教授であり、当時の文理学部長だった今井林太郎先生の悲願だった文理学部の分離、文学部、理学部の独立が意外に早く実現することになり、私たちが卒業した直後の1954年の3月31日に神戸大学文学部が誕生した。そのような経緯があったため、私は大学在学中に、生まれ育った田園的な地名は消えて失くなってしまったし、大学を卒業して(卒業式は3月25日)僅か1週間後には、卒業したばかりの文理学部という古典的な学部名も消えて無くなってしまったのである。
 それから50年、初めのうちこそ地名表示には抵抗感があり、「俺は神戸市生まれではない。兵庫県武庫郡住吉村に生まれたのだ」と強がりを言っていたものの、いつしかそれも薄れ、私は自分の経歴を「神戸市生まれ」そして学歴は「神戸大学文学部卒業」として通してきた、というよりそうでなければ世間に通用しなくなっていたのである。
 ところがである。平成16年(2004)の春、講談社の学術文庫から『渤海国』という本を出版することになり、その編集も校正もほぼ終わった段階で、編集者から電話があり「最後の著者紹介の欄ですが、上田さんの経歴には学歴詐称の疑いがあると校閲部が訂正を求めている」とのこと、咄嗟には何のことか理解できず、絶句したが、よく聞いてみると、「上田さんが卒業された段階では、神戸大学には文学部は存在しない、文理学部文科卒業のはずです」というのを聞いて事情は了解。しかし、そう言われればそうに違いはないが、僅か5年で消滅してしまった文理学部文科では、現在の人には通用しないし、名称が変わっただけで内容は同じなので、問題はないと思っていた。
 講談社の校閲部は「鬼の校閲部」として斯界では有名だそうであるが、そしてそれ故に私のような雑駁な原稿を書く人間にとっては、新旧仮名遣い、当用漢字、前後の文脈の矛盾、等々、優秀な編集者でも見逃した間違いを発見してくれる、大変に有り難い存在ではあるのだが、この件に関しては、そこまで調べるか? とその執拗なまでの調査追求に半ば感心させられ、半ば呆れてしまった。
 内容の全く変わらない継続的な名称の変更だから、文学部でよいのではないかと私は主張したのだが、校閲部は頑として肯かない、というのでこの本の著者紹介文は、神戸市生まれ、神戸大学文理学部文科卒業として出版された。
 そして昨年末に出版した『遣唐使全航海』でも出版元の草思社の編集者は、文理学部文科卒業が正しい、として同じ扱いにしてしまった。しかし、生地は正確な武庫郡住吉村ではなくて、その後の変更による神戸市生まれということになっている。この問題は私個人のことであるが、考えてみると歴史を学ぶ者、研究する者にとって大変重要な示唆を投げかけているものがある。歴史上の事績や人物を語る場合、表面的に捉えると不正確なことが多々生じてくるのではないか、私の例で言えば、神戸市生まれ、神戸大学文学部卒、というのは正確ではないということ。私の場合はどうでもよいことだが、歴史を動かすほどの事績を遺した人物の場合は、時系列の推移と、それに伴う場所の変化や地名の変化を正確に認識しないと、場合によっては歴史を見誤る怖れ無しとは言えないということである。

* 字名の保久良は当然六甲山麓の本山村の裏山にある式内社・保久良神社に因むもので、神功皇后が三韓征伐を終わっての帰途、往路にその神火に導かれた恩義に報いるため、戦利品の一部を奉納した、そしてそれを倉に保管したというのが神社の名の由来とされているという、現在では国際問題になりかねない神話的伝説が残っている。


   国史学科を2番で卒業

 理論的に言うと、神戸大学文理学部文科は昭和24(1949)年、新制大学の発足とともにスタートしたことになるが、その年に入学した1回生は1年半の教養課程を経てから専門課程に進級するというシステムだったので、文科の専門課程が発足したのは翌昭和25(1950)年の秋ということになる。だから文理学部文科というのは実質的には3年半の命だったのであり、その卒業生は1回生と2回生の2学年だけだったということになる。
 ところで当時の文科の定員は80人くらいだったと思うのであるが、専攻学科は各人の希望通りに振り分けられたので、ほとんどは人気の高い英文科や社会学科に集中し、哲学科、歴史科(西洋史・東洋史・国史)を希望する者は微々たるものであった(国文科が設置されたのは確か1954年だったのでこの段階ではまだ存在しなかった)。
 敗戦後、歴史と地理は日本の帝国主義、軍国主義を育成した温床であるということでGHQ(占領軍最高司令部)から特に厳しく規制され、小中学校での授業は、神話的、軍国主義的な記述の部分は墨で塗りつぶした教科書を使っていたという状態だったから、歴史なぞ専攻しようというのは、ごくごく少数派、変人、奇人扱いであった。という訳で私が選んだ国史科の先輩の1回生は僅か2人、しかもそのうちの1人は途中で哲学科に転科されたので、ただ一人という淋しさだった。
 我々2回生も専門課程に進んだ時には3人居たのだが、1人が途中で退学してしまったために、酒井一氏(三重大学名誉教授)と私の2人きりとなってしまった。
 酒井氏は講義を休むことなく、研究室にも出入りして、熱心に勉強していたので、当然成績は優秀、卒論も優秀な出来で、いわば優等生、卒業後も江戸時代の経済史の専門家として一家を成し、特に大塩平八郎の研究家として名を知られる存在となっている。
 それに対して、私は勉強ほったらかしで登山や旅行に熱中していたので、成績は最悪、卒論も指導教官の阿部真琴先生から「これは卒論というより小説だな」という慨嘆的評価を受けるぐらいで、まあ落とす訳にもいかないからお情けで・・・という感じで卒業させてもらった劣等生だった。
 これは長距離走に例えると、トラック3周遅れで2着という光景であるが、走者が2人しかいないのだから何周遅れであろうと、2着は2着。私は今でも自己紹介の時に、真面目くさって、「私は神戸大学文学部国史学科を2番で卒業しました」と煙にまき、すぐ種明かしをして笑いをとって緊張を解きほぐすギャグにしている。私たちのすぐ下の3回生の国史学科専攻は4人だったが、私たち2回生と合わせても、6名という人数だったので、講義の時間割は両学年共通で受けられる形式が多かった。
 それでも最大で6名に過ぎないが、教育学部の社会科専攻生が同じ講義を受けるので、いつも10名そこそこの人数での授業であった。これは考えてみれば密度の高い贅沢な学習環境であり、今にして思えば、この時もっと身を入れて勉強しておけば良かったなあと思うものの、これは後悔先に立たず、の繰り言。
 それに反して、3回生の澤田隆治氏は、真面目に講義を受けノートも正確にとっていたので、皆から頼りにされていた。だから試験の前になると、澤田氏のお宅に皆が集まって、氏の解説付きのノートで付け焼き刃の試験勉強をすることが何度かあった。
 この澤田隆治氏は、卒業後、出来たばかりの朝日放送に入り、その昔の「てなもんや三度笠」や「花王名人劇場」などのプロデューサーとしてお笑いブームを捲き起こし、一世を風靡したテレビ界の風雲児。そして現在でもテレビ界では「日本一の高視聴率を取った男」「お笑い漫才ブームを築いた男」として神様扱いされていることは知る人ぞ知る存在である。先日の新聞によると、彼は今でも現役の社長で傍ら帝京平成大学で「笑い学講座」を講ずる教授の仕事もこなしているようである。
 彼の下の4回生の国史学科は6名となったが、その中に国史学科としては初めての女性麻野晴子氏、の存在があった。彼女は大阪大で同じ国史を学んだ脇田 修氏と結婚したので、脇田晴子と名前は変わったが、日本中世史と、そこに活動する女性に焦点を当てた女性史の部門で縦横無尽に研究活動を展開し、多大の功績を挙げたので、平成17年(2005)の文化の日に、文化勲章に次ぐ栄誉である文化功労賞を授与されている。
 このように草創期の神戸大学文理学部文科、それに続く文学部に学んだ者の中から、日本の芸能史に金字塔を建てた傑物や、女性史で文化功労賞を受けた学者が出たことは、文学部の歴史に特筆大書されるべきことであり、同じ文科、文学部に学んだ者にとっての大きな誇りである。
 いずれにしても草創期の文理学部文科、文学部の国史学科(だけではなく、東洋史学科、西洋史学科も同じであるが)を専攻する人数はどんなに多くても2桁にはならなかったので、その卒業成績は誰もが1桁、総人数さへ明かさねば、皆さん大変優秀な成績で卒業したのである。


   蛸の足大学

 昭和28年(1953)戦後改革の一環として新制大学が発足した。それまで大学と名の付く学校は少なかったのに、この改革を機に日本中に雨後の筍のように多数の大学が生まれた。各府県の県庁所在地は勿論のこと、鉄道の主要幹線の急行の止まる駅のあるような町には大抵大学が生まれたので、そして、急行列車の止まる駅では必ず駅弁が売られていたので、当時は皮肉まじりに、それらを駅弁大学と称していた。それら新しく生まれた駅弁大学は、各地の師範学校、高等商業、高等工業等を母胎としていたので、名前は新しくなっても校舎施設を新設できない当時は、学舎があちこちに分散して存在するというのが当然で、これを評して蛸の足大学と言われていた。
 神戸経済大学を母胎として生まれた神戸大学は、さすがに駅弁大学とは言われなかったものの、その施設は立派な蛸の足大学であった。これを箇条書きで説明すると。

 1.本部のある六甲台学舎(旧神戸経済大学校舎)…経済学部、経営学部、法学部
 2.赤塚山学舎(旧御影師範学校校舎)…教育学部、教養課程
 3.姫路学舎(旧制姫路高等学校校舎)…教養課程 
 4.西代学舎(旧神戸高等工業学校校舎)…工学部
 5.松野学舎(旧神戸高等工業専門学校)…工学部
 6.御影学舎(旧、旧御影師範学校跡地)…文理学部、教養課程 
※但し、6の御影学舎は昭和26年(1951)秋から。
※六甲台にあった旧制神戸経済大学予科は教養課程となる。
※この他に戦前の明石女子師範学校が教育学部に併合されている。
※医学部や農学部が併合されたのは更に後の時代、また最近では神戸商船大学を併合した。

 こうして見てくると、発足当時6本の蛸足大学だった神戸大学は、1960年代になると、六甲台に一極集中するかに見えたのであるが、現在では、医学部、農学部、商船大学などを併合したために、再び蛸の足大学になりつつあるように見える。
 ところで草創当時の教養課程が学舎をどのように使用していたか、というと、神戸経済大学予科と旧制姫路高等学校、御影師範学校、明石女子師範等を併せて新しく発足した教養課程は、神戸と姫路に2分されてスタートしていた。
 私の高校からは全学部合わせて54人が神戸大学に合格したのだが、どういう基準で選別されたのか、そのうちの3人だけが姫路分校にふり分けられて教養課程1年半を姫路に通うことになった(一人は旧制姫高の寮に入った)。以外の者は神戸で教養課程を過ごすことになるのだが、学舎設備は乏しかったから、教養課程の固定学舎というものは存在しなかった。そこで私たちは水曜日と土曜日は六甲台の旧神戸経済大学予科の学舎で、以外の月、火、木、金は住吉台の旧御影師範学校(後に県立赤塚山高校の校舎となる)へ通って講義を受けるという極めて変則的な時間割で履修したのである。曜日によって行くべき校舎が異なるという、なんとも変則的な学校生活であったが、当時はそれほどおかしいとも、不便とも思わず過ごしていた。
 私に即して言えば、家が本山村だったので、住吉台で授業のある日は約4キロの道を歩いて通い、水、土、の2日だけは、阪急に乗って六甲まで行き、六甲台の学舎で講義を受けていた。いずれにしても学舎は山の中腹にあったので、毎日四季おりおりの山野の風景を愛でながらのミニ登山をして学校に通っていたのである。
 今考えると、私たち学生も大変不便だったのであるが、先生方も曜日によって出勤場所が変わるし、科目によっては、姫路分校と掛け持ちがあったりして随分ご苦労であったことと思われる。そして何よりも、姫路分校とにらみ合わせながら、六甲台と住吉台と曜日ごとに、先生と教室を割り振って時間割を組む教務係りの方のご苦心は大変なものであったろう、と思うのである。


   御影学舎の完成

 私たちが教養課程を終える頃に、すなわち昭和26年(1951)の夏、漸く阪神電車御影駅の北側、昔の御影師範学校の跡地に待望の教養学部と文理学部のための学舎が完成した。この校舎は当時の歴史の因縁つきのもので、発注、落札が昭和25年(1950)5月だったが、その直後の6月に朝鮮動乱が勃発したため、建設資材が暴騰、落札価格ではとても建設できないということになり、紆余曲折の結果、当初の計画の半分だけ建てることで妥協したという代物であった。
 しかし、とにもかくにも校舎が出来たので、私たち文科の学生と理科の学生は10月から御影の新校舎で授業を受けることになった(「文窓」という文学部同窓会のHPの沿革の頁には、昭和26年8月御影学舎に移転、但し授業は六甲台学舎となっているが、これは明らかに間違いで、六甲台での授業は無かった)。こうして流浪の民のようであった私たちの大学生活は御影学舎が出来たことによって学部進級後はようやく落ち着くことができたのであるが、なにしろ予定していた学舎が半分しかできなかったので、教養課程はその後も、住吉台、御影、六甲台の間を流浪していたのではないかと思う(この点については当事者ではないのいで確言はできない)。この御影学舎は交通の便がよく、南面ガラス張りだったので、冬には陽の光がポカポカと入って暖かく、したがって少人数の講義なのに、ついつい睡魔に襲われることの多い教室だった。こうして文理学部の学舎ができたので、結果的には蛸の足が一本増えた状態で神戸大学は安定した(と当時は誰もが思っていた)。


   文学部六甲台に登る

 昭和26年(1951)サンフランシスコ平和条約が締結されて、太平洋戦争が正式に終結すると、日本を占領していたいわゆる進駐軍が段階的に撤収していった。神戸経済大学の学舎が存在した六甲台(経済学部・経営学部・法学部)のすぐ南の一段低い位置に存在していた六甲ハイツという進駐軍(占領軍)用地も、日本の独立、占領の解除とともに国に返還されることになり、更にそれが紆余曲折を経て最終的には、綜合大学である神戸大学の用地として払い下げられることになった。この六甲ハイツと呼ばれた土地は、アメリカ進駐軍(占領軍)の高級将校用の住宅地として造成されたもので、赤や青の原色のいかにもアメリカ人好みの瀟洒な家が建ち並んでいた。その内部では当時の貧しい日本人から見ると、電気冷蔵庫や洗濯機などのある、きわめて贅沢な生活が展開されているようだったが、入り口には厳重な検問所があり、銃を肩にしたMP(憲兵)が常時警備していたので、中を窺い知ることはできなかった。
 この六甲ハイツが返還された結果、神戸大学の統合が進められ、各学部がこの地に建てられ、文学部も交通至便の御影学舎を放棄して(その校舎は御影高等工業学校に引き継がれた)六甲台に登ったのである。
 当時近鉄が大和文華館という美術館を建てて、その斬新なデザインが話題になっていたが、特にガラス張りで囲まれた中庭に竹が植えられているのが有名であった。
 私がはじめて六甲台の文学部を訪れて、その学舎を見た時、「お!大和文華館と同じだ」とその立派な建築に仰天したことはよく憶えている。
 せっかくなけなしの予算を獲得したのに、いざ建築に取りかかるという時に、朝鮮動乱が勃発して、そのためのインフレで、校舎が半分しか建たなかったという時期を過ごした私にとっては、大和文華館もどきの竹の植わったガラス張りの中庭をもつ文学部の学舎は、なんとも贅沢にして優雅なものに見えたのである。


   歳月の流れ

 私は1931年生まれで当年75才である。明治維新は1867年であるから、それから私が生まれるまで64年しか経過していない。考えれば、私は明治維新から生まれるまでの間より以上の年月を生きてきたことになる。
 学生時代、神鍋の民宿に泊まった時、その家のお爺さんから日露戦争に行き、203高地作戦に参加したという話を聞いたが、それはなんとも遠い昔の苔むしたお伽話のように思ったものだった。
 しかし、それは今の学生さんに六甲ハイツの話をするのと、ほとんど変わらない年月の隔たりに過ぎないことを知ると愕然とせざるを得ない。今の学生さんにとっては、私の話など、ほとんど化石のたわごとのようにしか聞こえないのかも知れない。
 しかし、だからこそ、その歴史、日本が無謀な戦争をしてアメリカに負けたこと、アメリカの占領政策によって新制大学ができたこと、しかし設備が整わないために教官も学生もうろうろさせられたこと、六甲ハイツという夢の国のような場所があったこと、その跡地に現在私たちの母校が存在していること、等々は、その時期に不戦の誓いのもとに制定された憲法や、民主的な教育を目指して制定された教育基本法とともに、失ってはならない記録として語り継いでいかねばならないと思うのである。
 
(1931年、神戸市生まれ。神戸大学文学部国史学科卒業。法政大学文学部地理学科(通信課程)卒業。高等学校教諭を経て、現在、(財)阪急学園・池田文庫学芸員。日本海事史学会地方理事。日本気象学会会員。日本暦の会会員。世界都市研究会会員。著書に、『日本渤海交渉史』『渤海国―東アジア古代王国の使者たち』『渤海国の謎―知られざる東アジア古代王国』『渤海使の研究―渤海を渡った使者たちの軌跡』『遣唐使全航海』など多数。)


思い出