小松問題 
   
                           神戸大学百年史編集委員会編
                          『神戸大学百年史』部局史より

 1949年(昭和24年)7月から新制大学への移行が本格的に決まり、予科と姫路高等学校の教官の新制大学への切り替えも進められたが、この時、予科教授から文理学部教授となるはずであった小松摂郎の新制神戸大学教官としての申請が保留された。これが後に大きな問題に発展するいわゆる「小松問題」の発端であった。
 1949(昭和24)年から1951(昭和26)年にかけて、日本共産党員およびその同調者を職場から強権的に排除・追放するといういわゆるレッド・パージが全国的に行われるが、この小松摂郎の事件は、大学におけるレッド・パーシ事件として著名なものである。小松問題については、平田哲夫編著『大学自治の危機――神戸大学レッドパージ事件の解明――』(白石書店、1993年、以下、本書からの引用は頁数のみ記す)により、研究が大きく進展した。その詳細については同書に譲り、ここでは文科教授会が日本学術会議「学問の保障委員会」に提出した「小松摂郎氏の免職に関する報告書」(資料1、86-96頁)などから、概略を示しておくにとどめる。
 1949(昭和24)年7月に新潟大学で行われたC・I・E顧問W.C.イールズの反共講演の数日後、文部省は神戸大学に対して予科教授小松の神戸大学教授としての申請を取り下げるよう要求してきたようであり、予科長服部英次郎は、学長から共産党員と思われる小松に対する教授申請を保留してはどうかと示唆された。また経済学部長坂本弥三郎は、同年夏、文部大臣から「小松問題」を重視している旨を示唆された(187頁)。さらに同書によれば、この経過が次のように述べられている。

七月十九日イールズ博士の新潟大学における講演が新聞紙上に伝えられるや、大学当局は既に決定していた小松氏の申請についてその手続きを進めることを躊躇しはじめた。かくして一時その手続きを見合わされた小松氏申請の問題は八月中、学部長会議で議せられたが、慎重論を唱える一部の学部長があって決定を見ず、遂に授業開始の秋を迎えることとなった。
(平田哲夫編著『大学自治の危機―神戸大学レッド・パージ事件の解明―』88頁)
 このような圧力の下で、同年8月上旬に大学設置準備委員会は、小松を1949(昭和24)年度ジュニア(教養課程)哲学講義担当教授として申請するというそれまでの方針を撤回し、小松のみその申請を明確にしなかったのである。
 小松の任用について文科教授会は、1950(昭和25)1月23日の教授会で小松の教授申請を速やかに実行するとの決議を行い、さらに2月22日の文理学部教授会でも同様の決議(賛27、否3)を行った。しかし神戸大学評議会は、この申請に対する採択を3月16日に行い、小松を新制神戸大学の教授として申請しないことを決定した(賛9、否11)。不申請決定は、その2週間後には予科の過程が廃止されるため、実質的には免職を意味した。文科教授会は3月27日、この決定を承認しがたいとして評議会に再考を求めるとともに、学部自治の確立を要望した。
 3月16日の決定に基づいて評議会は、4月13日に「免職となる」という申請事由説明書を小松に交付した。これに対して小松は、評議会の決定を不当として口頭審理(公開)を要求し、その年の6月に3度、10月に1度口頭審理が行われたが、それ以後中断した。その後口頭審理を再開する動きもあったが、評議会は翌1951(昭和26)年9月7日に、同月9日に予定されていた5回目の口頭審査の中止を、さらに9月9日に口頭審理の打ち切りと小松の免職を決定した。文科教授会は、「小松氏の免官を学問思想の自由の問題として取上げる権利と義務を放棄したことは、我々の最も遺憾とする処である」(95頁)と述べ、評議会に対して批判を行った。
 10月1日、「事態の紛糾を憂慮した」(96頁)小松が、文科教授会に対して教授申請を辞退する旨を申し入れた。文科教授会ではこれを受諾するかどうか議論となったが、結局受諾せざるを得ないという結論に達した。
 成立したばかりの文科教授会は、学問思想の自由を擁護する立場から、終始「小松問題」に取り組んだのであった。ここに2年あまりにわたるこの問題に一応の区切りがつけられたのである。


(神戸大学百年史編集委員会編『神戸大学百年史』部局史、神戸大学、2005年、第1編第1部第1章「文学部の歩み」7〜8ページ)


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