『今昔物語集』を読む(13)

               池上洵一(国文学科 昭和35年卒業)

仏像伝来秘話 
   
-巻六第5話「鳩摩羅焔奉盗仏伝震旦語(くまらえんほとけをぬすみたてまつりてしんだんにつたえたること)」-

天竺に赤栴檀木を刻んだ仏像があった。釈尊が在世中に優填王が造らせた貴重な最初の仏像であるという。聖人鳩摩羅焔はそれを盗み出し、未だ仏法の十分に伝わらぬ震旦に伝えようと志して、嶮路を昼夜兼行で急いだ。仏はその心に打たれ、昼は鳩摩羅焔に背負われたが、夜は逆に仏像が鳩摩羅焔を背負って下さったという。亀慈国まで来た時、同国の能尊王は鳩摩羅焔が年老い疲れて壮挙の挫折するのを心配し、父の業を継ぐ子を得るべく、王女と結婚させた。心ならずも王女と同衾した鳩摩羅焔は「無常の文」を唱えたため子が出来なかったが、王女に口をふさがれて男子が誕生した。これが鳩摩羅什であり、父の業を継承して仏像を震旦に伝えた。また多くの経論を翻訳して世に伝えた恩人でもある。


 天竺(インド)部の最初は釈尊の八相成道すなわち仏教創始の物語であったのに対して、震旦(中国)部の最初は仏教の中国への伝播を語る話で始まる。本朝(日本)部も同様に日本への仏教伝来で始まるから、各部ともまずその国における仏教の起源を語り、続いて弘布と霊験を語る構成になっているわけだ。

 震旦部は巻六から始まるが、その冒頭に近い第5話では中国への仏像の伝来が語られている。ここに登場する鳩摩羅什(クマーラジーヴァ)は西暦401年、五胡十六国の一つ後秦の王、姚興によって長安に迎えられ、人々の厚い帰依を受けつつ訳業に精励した。中国に初めて大乗の論を伝え、その気運を濃くした大翻訳家である。413年に七十歳で没するまで、訳出した経典は74部384巻、『梵網経』『大品般若経』『維摩経』『法華経』などの経典、『中論』『百論』『十二門論』『大智度論』等々の諸論がそれである。彼の残した足跡が如何に偉大であるかが知られよう。

 この話に語られている赤栴檀(しゃくせんだん。香木)の仏像は、古くインドに生まれた伝説で世界最初の仏像と説かれて名高い。すなわち釈尊は、いまは天人として忉利天(とうりてん)に生まれている母摩耶夫人(マーヤー)に説法するため、神通力で遥か天上界に赴いたことがあった。その時、人間界では釈尊の姿が見えなくなったのを悲しみ、優填王が工芸の神である毘首羯摩天に頼んで仏像を造立したというのである。

 インド人鳩摩羅焔(クマーラヤーナ)を父とし、西域の亀慈国(クチャ)の王妹耆婆(ジーヴァ)を母とする羅什と、伝説上のインドの仏像とが結びつけられて、この話が成立した。羅什の生い立ちと業績は、彼自身が伝説化された時、赤栴檀の像の話と結合しやすい条件を備えていたのである。

 ただし、中国で生まれたこの話が『今昔』のこの話になるまでには、屈折した長い道程が必要だった。本田義憲氏や黒部通善氏の研究①が明らかにしているように、この話の背後には漢文仏典の話を単に翻訳しただけではなく、内容を日本的に消化して、原典の側から見ればさまざまな訛伝を生みながらも、日本語による話として表現を整えた和文体の文献があったのである。その文献の面影を最もよく伝えているのは、『今昔』とほぼ同時代の説話集『打聞集』の第8話である。

 『今昔』のこの話と『打聞集』の話は、たしかによく似ている。しかし両氏が力説するように両書の関係は、ただ同じ文献に取材した兄弟関係をいうだけではすまないものがある。両書はたしかに共通する伝承母胎の上に立っていたけれども、それを受容する方法には大きな相違があった。それだけでなく、『今昔』は別途の資料ないし知識によって記事の増補ないし差し替えを行なっている。本来は亀慈国王の妹であったはずの羅什の母を王女と語っているのは『打聞集』も同じで、共同母胎にすでに見られた誤伝であろうが、『打聞集』では語られない王の名を『今昔』が「能尊王」と明記しているのは、独自の増補であって、しかもそれは、当時わが国に流布していたらしい同国王の名を「蒙遜王」とする誤伝が、さらに転訛したものであるらしい。さらにまた、羅焔が閨房で唱えたという「無常ノ文」すなわち、

  「処世界如虚空 如蓮華不着水 心清浄超於彼 稽首礼无上尊」

は、『打聞集』には見られず、この文句を含んだ伝承は唐僧詳の『法華伝記』にあるだけだと本田はいう。むろん『今昔』は『法華伝記』に直接取材したわけではない。おそらくそれを源泉とする伝承を記録した何らかの資料に拠ったのである。

 一方、『打聞集』は、羅焔と王女との仲を「此御ムスメニタダ一夜ネニケリ」と語るが、この説には根拠が全く見当たらない。『今昔』はこの類例の乏しい説を棄てて、代わりに当時盛んに行われていた法華懺法の席でよく用いられ親しまれていたこの文句を採用したらしいのである。懺法の席上で用いられるこの文句は「無常」ではなく「無上」の文というべきであり②、先程の「能尊王」と「蒙遜王」のケースと同じく、これも一度は仮名書きされた文献を介して生じた変化であるらしいのだが、結果的にはこのような転訛ないし誤伝を含むとはいえ、細心の注意を払って話が組み立てられていることがわかるのである。

 このように労を惜しまずモザイク状に組み立てられた話は、各部の最初の数話にとくに顕著に認められる。それはとりもなおさず各国の仏教史の根幹を構成する話であって、そうした部分が『今昔』の構想上いかに重い意味を担っていたかを物語ってもいる。一筋縄では片づかない『今昔』と原典との関係は、直接この話を対象とした研究ではないが、森正人氏による『大唐西域記』と『今昔』の関係を論じた論文③などによって、十分に実感できるはずである。

 なお、この話にいう仏像は、中国揚州の開元寺に伝わり、さらには宋の都開封に移されて、入宋した日本僧奝然(ちょうねん)がそれを拝し、模刻して日本に伝え、嵯峨の清涼寺の本尊となった。ところが、室町時代に成立したらしい『清涼寺縁起』では、実は奝然は霊夢を見て、模刻した像と真像とをすり替え、模刻した像を中国に残して真像を日本に伝えたのだと説く。そういう説話が生まれるほどに珍重された仏像だったのである。いまも清涼寺釈迦堂に安置されて、同寺全体が釈迦堂と通称される因となったこの像は、三国伝来の仏像として世に知られ、『宝物集』や『増鏡』などの作品は、この像に参詣した人々が仏前で交わした会話の記録として作品構成がなされていることは周知の通りである。

(1)本田義憲「和文クマーラヤーナ・クマーラジーヴァ物語の研究」(「奈良
   女子大学研究年報」6、
1963)。
   黒部通善『説話の生成と変容についての研究』(中部日本教育文化会、
   
1983)。

(2)本田義憲氏の御教示による。

(3)森正人「大唐西域記と今昔物語集の間」(「国語と国文学」197512)。



(筆者は神戸大学名誉教授、国文学専攻。「今昔物語集」をはじめとする説話文学の研究家として著名。主要著書は『池上洵一著作集』全4巻(既刊2巻、和泉書院)、岩波文庫『今昔物語集』全4巻など多数。)


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