義仲の物語を読む                           

                  山下宏明(国文学 昭和32年卒業)

 定年を迎え、今になって、岡真理さんの思いではありませんが、厳しいなかに、改めて文学の力を思い知ります。 『日本文学』に求められて書いた文章を少し簡略化してみました。前文は削除しました。

  『平家物語』の読みについて、一九五〇年代の史学の集大成として石母田正の論が、いまだにその光を放ち続ける。史学者でありながら、物語としての形式面から入り込む論は、きわめて文学的である。その評価の軸を領主階層の進歩性に求めた姿勢に修正を求め、権門体制なりの危機意識を持った「王権」を背景に、動乱期を生き抜く中世人の営みを読み解く読者・享受論があり、その受容の効果を批評するイデオロギー論がある。中世の歴史叙述をめぐって、広義の文化論から、文字化されたテクストの限界を批判する口承論がある。木下順二の群読論や、声の文化が最近の話題になっているのだが。王権の外側にはじき出された死者を鎮めるために琵琶法師の語る『平家物語』テクストと言いながら、その文字化されたテクストには身体的な語りの痕跡が見えないことを、これを強く意識したラフカディオ・ハーンの物語行為や、その言説と比べて感じざるをえない。ハーンの聴覚的・触覚的な言語。盲人の音声言語が、文字テクストの世界を相対化したはずである。せまい文学テクストに限らず、その基盤としてある広義の文化的な背景、生活の場から読みを進める論が急速に進む。特に軍記については、王権維持のための宗教儀礼の場から、王権を支える天台の本覚思想の読み、経典の注釈や談義の場など、中世の学問の世界、その外、正統な文化から落ちこぼれとして排除された地方の文化やテクストが文化創造の役割を演じていたことを探り出し、従来の大作中心主義の文学史の評価の軸をくずしてしまった。『平家物語』をめぐっても、盲目の語りよりは、この周辺文化の痕跡を色濃く残す読み本に中世的な世界を見出す。それは、広い文化論へと越えてゆく。巫女の憑依体験やシャーマンの神秘、史官の知と霊性、故人の夢告、その夢の聖性など、それらを保障する芸能の場や、さらに庭園にも及ぶ幻想空間の意味を問う。近代になっては、新聞や雑誌、さらにはラジオやテレビなどのメディアが、声や映像を駆してテクストの多様化を一層加速する。この文化への関心の拡大は、せまい日本の文化圏を越えて琉球から東アジア漢字文化圏に視野を広げて、その中での日本文化を相対化してとらえようとする論。それらの動きが見られたのであるが、文学をその一部門とする文化論への拡大は、今後、文学研究、その研究と補完しあった文学教育にどのように変化をもたらすのか。エレトロニクス、携帯電話の普及、漫画やアニメーション化の動き、これらが文字言語による文学そのものをも変質させてゆくことは当然だが、まさにウォルター・J・オングの想定した状況が日常化しつつ、なお文学へのこだわる。その具体的な場としての翻訳という作業がやはり日本文学の読みに新しい視点を持ち込む。歴史学から自立を心がけながら、軍記物語研究は、歴史学との垣根を払う動きを活発にしつつある。しかも文学を読む感動を抜きにはできない。文学教育の現場において、この課題は欠かせないはず。軍記物語が歴史学の一資料にとどまってはならない。軍記物語を文学として読むとは、いかなることなのか。特定の作者個人には限定できない、聴き手の思いを取り込む語り手の歴史の読みがある。たとえば『平家物語』に、木曽山国育ちの義仲をいかに読むのか。京都文化の中核をなす「王権」に揺さぶりをかけた義仲を、物語テクストにどのように読むのか。義仲が、巻六・「廻文」、頼朝の挙兵を耳にし、乳母子の兼遠に、「今一日も先に平家を攻め落し、たとへば日本国二人の将軍と言はればや」と語って喜ばせる。これを具して都へ上り、平家の様子を伺いながら石清水八幡宮へ参り、十三歳にして「四代の祖父義家」にあやかろうと、神前元服を行って義仲と名のったと言う。この義仲の行為が物語として、どのような意味をもつのか。巻九・「樋口被斬」で、その義仲の最後に、この行動開始当時の頼朝に対して示した対抗心について、中国、沛公が項羽に先駆けることを控えたとの故事を想起し「木曽左馬頭、……沛公がはかり事」に及ばなかったと言う。その読みに、この故事を重ねる読みが可能である。それに義仲が頼朝に張り合おうとした思いの裏には、その父、義賢が頼朝の兄、義平の手にかかって討たれた思いがあった。兼遠に覚悟を語った直前に、その父のことを回想する語りがあった。語り手は、沛公に比べて、義仲の無謀さを指摘したのだった。はたせるかな「寿永二年三月上旬に」頼朝が義仲に不快の念を抱いた。そのために義仲は、子息の清水冠者を人質として頼朝に差し出すことになる。その後の義仲の動きが平家の都落ちを促す。義仲軍が京へ迫るとの報に、平家は都を落ちる。事前に後白河法皇は、同行しようとしていた平家をかわして鞍馬から叡山の東塔へ入る。大衆の形勢をうかがい、牽制しながら入洛を果たした義仲が、五万余騎の兵を率いて法皇を保護し、還御に導く。法皇は、その義仲に平家追討を命じ、北国合戦以来の論功行賞を行うが、義仲・行家は、ともに、その任国を嫌い、改めて、義仲は伊予守に、行家は備前守に任ぜられる。法皇とのかけひきが始まるが、法皇は、早々と安徳帝と神器の奉還を平家に申し入れていた。それを拒まれると、神器を欠いたまま新帝を立てる。後鳥羽になる帝である。時に四歳。物語は、法皇が、ここで関東の頼朝に(鎌倉に)「ゐながら征夷大将軍の院宣」を贈ったと語る。その使者、中原泰定が鎌倉へ下る。頼朝は、王権の外にいながらにして京の「王権」をひき寄せ入手した。この間、使者の泰定が頼朝に鄭重にもてなされ、帰洛後、その「関東のやうつぶさに奏聞し」、「法皇も御感あり」と語る。頼朝の将軍任官に事実とは数年の前倒しがあるのだが、それは、この直後に「兵衛佐はかうこそゆゝしくおはしけるに」、都を守護する義仲の「たちゐの振舞」が全く逆に無骨さの限りを尽くしたことを語るためである。法皇の、頼朝への接近を通して義仲を退けるために将軍院宣を、その前に置いたわけである。この両人の対照的な語り。物語における「虚構」とは、歴史を語り、説くための方法である。「史実」との対立概念としての「虚構」ではない。その一つの典型的な物語として、猫間中納言に対する義仲の山国育ちの無骨な応対を語る。京の町の名と知らず、相手を猫と取り違え、猫が人に見参するのかと問うて人々を驚かせる。おりから「けどき(食事事間)」であった。山国育ちの義仲は「まれまれわゐたるに物よそへ」と指示する。義仲にとって、まさに「まれ人」(まらうど)の相手をもてなさねばならない。山国育ちのゆえに、その律儀さを守り、みずからの「精進合子」に「飯うづたかくよそゐ、御菜三種して、ひらたけのしるで」もてなす。当時の食事は、一般には一日二食で、朝昼兼食であったが、山国村落の、農作業に拘束される人々の「けどき」食事時間と貴族のそれが合うはずはない。それを義仲は万事自分のペースで事を運ぼうとする。「ひらたけ」は、マツタケと違って香りがないと言われる。それに器、精進合子は、屋代本に「田舎合子ノ荒塗ナルガ」とあり、山国であるから木地塗りの椀であろう。主として土器や高価な漆器・陶磁器を使う京の貴族にとってはこれも辟易のはず。相手の困惑を余所に、義仲は相手が遠慮すると見て「かい給へ」と促す。中納言は、手も足も出ない。「かやうの事に興さめて、のたまひあはすべきことも一言も出さず、軈急ぎ帰られけり」と言う。義仲の応対に「まれまれわゐたるに」など木曾山国訛りをそのまま使わせているのも、全く京の価値観をおしつける笑いである。外から王権の内に入る義仲が失笑をかいながら、外の倫理を持ち込み、いったん相手を圧倒してしまう。しかし、この後、出仕に、なれぬ衣冠束帯姿で、牛車にまで乗って出かけ、車中、牛飼の失笑をかう。田舎者が、内の格式にならおうとして、王権の最末端の牛飼いにまで翻弄される。この牛車事件でも、ことばの齟齬を内の価値観をもって笑いとばす。あえて東国を離れなかった頼朝との違いを露呈するのだが。背後に頼朝を想定しながら、この内と外とのせめぎあいを物語として読む読者や聴衆の笑いは、言うまでもなく京都人の内の立場に立っての笑いである。全く勝負にならない、上から下を見下す笑いである。これを受け身の木曾の側から見れば、京文化からの地方への押し付け。その対立のきわめつけが、洛中での木曾勢の狼藉である。「凡そ京中には源氏みち/\て、在々所々に入りどりおほし。……青田を刈てま草にす。人の倉をうちあけて物をとり、持ッて返る物をばうばひとり、衣裳をはぎとる」と言う。このような「入りどり」、兵士の洛中略奪行為は都人にとって前代未聞の事件であったのだろうが、たとえば、これが室町時代に下れば、武田信玄の天文十一年(一五四三)十月の大門峠合戦に、その滞在中、「小屋おとし、乱取いたし、かつた(刈田)を仕、下々いさむ(勇む)事限なし」が公に認められていたと言う。こうしたいくさ場における「入り取り」略奪は、時代が下ってフィリピンを転戦する日本軍の現地調達指示にまで見られたことを大岡昇平が、その『レイテ戦記』や『野火』に記すところであった。
 地方における戦闘の実態、義仲の洛中狼藉を『平家物語』としては、どう語るのか。法皇は「狼藉しづめよ」と命じる。「天下にすぐれたる鼓の上手」、「時の人」から「鼓判官」と呼ばれた壱岐判官朝泰を使者に立てて義仲に指示する。ところが、ここでもその朝泰が体する院の指示に対し、義仲はまともに返答に及ばず、「抑もわとのを鼓判官と言ふは、よろづの人にうたれたうか、はられたうか」とまたもや訛り丸出しで、礼を失した応対。前の「猫間」に対応するから、ここでも義仲はまじめだったのか。それとも不本意な法皇の叱責に対する義仲の、開き直った反発なのか。とにかく使者の判官にとっては愚弄以外の何ものでもない。朝泰は院御所へ帰って、法皇に「義仲おこの者で候。只今朝敵になり候なんず、急ぎ追討せさせ給へ」と言上する。あの泰定の場合とは対照的。ここで法皇は、追討を決意するのだが、思わぬ義仲の応対に度肝を抜かれたのか、「さらばしかるべき武士にも仰せ付けられずして」とは、さすがの語り手にとっても意外というのであろう、法皇が、天台の座主明雲大僧正、園城寺の長吏、円慶法親王に指示を下し、山・寺の悪僧らを召したと言う。法皇のもとへ馳せ参じた公卿殿上人が召した兵も「むかへつぶて、いんぢ、いふかひなき辻冠者原、乞食法師なり」と言う。『平家物語』には、多くの異本がある。大きく読み本系と語り本系に分ける。その言説は、両者の間でかなり異なる。それをもっぱら成立論に引きつけて古態性を論じるか、さもなくば、読み本の豊饒な文化の発掘に走る論が活発である。その受容のあり方をも含めて、物語としての方法や、指向性などを考察すべきなのだが。さしあたって、読み本の延慶本は、義仲に対して無策の法皇をからかう落首を掲げ、その傭兵をも「物ノ要ニ立ヌベキ者ハナカリケリ」ときめつける。しかし、とにかく義仲に対する法皇の覚えが悪いと知った「五畿内の兵ども」がすべて法皇側につく。こうなっては義仲の乳母子、今井四郎兼平も放っておけず、「十善帝王にむかひまいらせて」合戦してはならぬ、武具を解いて「降人に」参られよと促すのを、義仲は大いに怒って、これまで勝利を続けて来た身として、「降人にはえこそ参るまじけれ」と拒む。都を守護する者が馬に乗り、そのまぐさとして刈田するのはあたりまえのこと、兵糧米も与えられぬ「冠者原共が」「時に入りどりせんは、何かあながちひが事ならむ」と開き直る。それどころか、こざかしい「其鼓め(鼓判官を指す)打破て捨よ」と呼び捨てにし、義仲軍「吉例の」七手に分かれて攻めを決行する。全く義仲のペースである。
 これを迎え撃つ法住寺殿では、二万余の軍兵を擁しながら、「木曽、法住寺殿の西門にをしよせて見れば」とあるから、以下、語り手が語る焦点化の主体は義仲その人である。物語られる対象の提示に採用される知覚・認識上の位置を「焦点化の主体」と言う。例の朝泰が総大将をつとめ、仏法を守護する四天王を書いた兜を着て、「鎧はわざと着ざりけり」と言うから異様、四天王に守られるとの思いからか。御所の西の築垣に登り、片手には、これも宮廷儀礼用の鉾、もう一方の手には密教の法具「金剛鈴を持ッて」、それを「打振/\、時々は舞おりもあり」。宗教儀礼を以て義仲軍を退けようとするのだが、口さがない若き公卿・殿上人が、これを無様と見て「朝泰には天狗ついたり」と笑うのは、物語の語りにしばしば介入する、口さがない若殿上人。かれらが朝泰の行為を、この場に不似合いな応対と揶揄する。王権内に、みずからを壊す者が現れるということか。その朝泰が相変わらず「むかしは宣旨をむかッてよみければ、枯たる草木も花さき、みなり、悪鬼・悪神も随ひけり。末代ならむがらに、いかんが十善帝王(この場合、法皇を指すのだが)にむかひまいらせて弓をばひくべき。汝等がはなたん矢は、返ッて身にあたるべし。抜かむ太刀は、身をきるべし」などと叫ぶのを、義仲は構うことなく鬨の声を合わせ鏑矢に火を入れて御所に射立てる。猛火に煽られて、外ならぬ、その総大将の朝泰が逃げ出す。王権を守護すべく後白河が神との交感の回路にしようとしたと言われる宗教儀礼を全く「虚仮にする」義仲の行動である。この直後、例の「いふかひなき辻冠者原・乞食法師」が、敗走するものと予想した義仲方の落ち武者を、「用意してうち殺せ」と指示され、「屋根いたに楯をつき」待機していた。その予期に反して、官軍として七条の末を固めていた摂津源氏の敗退するのが、院方であるぞとわめくのを構わず、辻冠者たちは「院宣であるに」と同士討ちに打ち殺そうとしたとするのも、まさに法皇方を虚仮にする。まるで狂言の世界。この合戦の結果には、天台座主の明雲、園城寺の長吏円慶法親王が逃げようと乗る馬から振り落とされて首を斬られる。それに豊後の国司刑部卿三位頼資が院の御所に火をかけられて河原へ逃げるのを「武士の下郎どもに衣装皆はぎとられ、まつぱだかで立」っているのを、見かねた中間法師が「衣をひ脱いでなげかけ」、頼資は「短き衣うつほにほうかぶッて、帯もせず、うしろさこそ見ぐるしかりけめ」、その頼資が急ぎ歩むこともなく、あちこちに立ちどまって「あれはたが家ぞ。是は何者が宿所ぞ。こゝはいづくぞ」と問う。これを「見る人みな手をたゝてわらひあへり」とある。この頼資を読み本の延慶本は、その中間法師すらが「アマリニワビシカリシカト後ニ人ニ語リケルトカヤ」とする。これも読み本の、しかも、かなりくせのある『源平盛衰記』巻三十四では、たしなめる中間法師に対して「寒しとは何ぞ。何事か見苦しき。斯様に乱れたる世に作法あるまじ、よき次に京中修行せん」と開き直って通ったとまで語るのだが。なお、この頼資は、太宰府に落ちた平家が、その地の、元、小松殿の御家人であった維義の援けを得ようとするのを、その主、頼資の指示によるとして維義は拒む。怒った時忠が、鼻の大きい頼資を鼻豊後が下知に従うと、こき下ろした、その相手である。そのあげくの義仲の所行。勝ちいくさをおえて六条河原に立ち、「昨日きるところの頸どもかけ並べ」、その中には明雲座主、寺の長吏円慶法親王の頸もあるのだが、それらを横目に勝ち鬨をあげ、「家子・郎等召あつめて評定す」。その場で言った義仲の言葉、「抑義仲、一天の君にむかひ奉て軍には勝ちぬ。主上にならうど思へども童にならむもしかるべからず。法皇にならうど思へども、法師にならむもをかしかるべし。よし/\さらば関白にならう」と言うのを、手書の大夫覚明が、関白は藤原氏のなるものと制止する。「其上は力及ばずとて、院の御厩の別当にをしな」る、つまり強引にみずからが任官したと言うのである。武士の身としては決して低くはない。しかも院司になったことに義仲としての思うところ、政情の読みがあったのか。それに当時の「主上」とは、法皇が都の空白を埋めるべく、四歳で即位させた尊成、後の後鳥羽である。遡れば、後白河法皇は、保元の乱後の空白を縫って二十八歳で即位したのだが、物語の、早く巻一、十五歳で即位した二条が二十二歳で死去、その後、二条の意志により、その第一子(実は第二子)順仁が二歳になるのを皇太子に立てていた、後の六条天皇である。それを平家の意向により、法皇の第三子、憲仁が六歳であったのを皇太子に立て、三年後に六条帝を退位させて、前の順仁を即位させる。高倉天皇である。その十年後、治承二年(一一七八)には、新生の皇子、言仁が生後一か月で立太子。やがてこれが後の安徳天皇になる。摂関家と法皇、平家の、いずれも人々の思惑のからまる、当時の「王権」の実態であった。とすれば義仲の暴言をはたして笑えるのか。これらのあわただしい幼帝の擁立の裏に、二条と後白河、平時忠を仲介とする清盛と院政を推進する法皇との対立・角逐があった。京の人々の目を借りた冷ややかな目を知っている語り手、それを読むわれわれは、この法住寺合戦に見られる狂言的な世界、道化じみた義仲の発言を、どう読むのか。「猫間」に見たような、山国育ちの義仲を冷笑する語り手や、その聞き手であるのだが、この法住寺合戦の世界を知る場合、いささか奇妙な思いにかられる。物語の枠組みを構成する王権、その保全のための諸儀礼と、特に後白河と平家の対立を物語の進行、文脈の中で読む場合、かなり複雑であるのだろう。ふと、『太平記』で、天台を虚仮にしようとした佐々木道誉を思い出す。義仲が、公卿四十九人の官を解く武断政治に出たため、かねて法皇と意を通じていた東国の頼朝が動き出し、兵を京へ向けて派遣する。義仲が法住寺攻めのあと、前関白の婿に押しなっていた。その舅、松殿基房の説得に従い、公卿の官を復し、かわりに基房の息、師家を摂政につける。しかも西国の平家に和平交渉を始めるが、平家に拒まれる。頼朝の指示に従って上洛する義経ら東国軍の動きに、院御所に最後のいとまを乞おうと参るが、御所では怖れるのみ。もちろん法皇に、義仲と逢う思いはなかったろう。東国軍接近との報にかなわず、洛中はじめて見そめていた女房との、この期に及んでの惜別。これまで見てきた義仲には不似合いな動き。それを家来が自害したのに促されて戦場に出る。やがて上洛を果たした義経が法皇の信任を得るに及んで、義仲は義経と対決、破滅への歩みを進める。外なる木曽の山国から、義仲は、王権に接近するが拒まれる。それを逆転して外部の義仲が王権の内部に脅しをかけたのだが、やがて法皇の意を体する頼朝にはじき飛ばされる。「木曾最期」の物語の冒頭、「木曾殿は、信濃より、巴・山吹とて二人の便女を具せられたり」と語っていた。その巴が最後の五騎の中に生き残り、女ゆえに義仲から同行を拒まれ、「武蔵国に聞えたる大ぢからの」恩田八郎を相手をねじり殺して討ち取る場を見せて、東国へ落ちて行った。怪力の女性は、説話の世界に登場する。それに、この「巴」の名は、水神を祀る「水の女」(巫女)であることを示唆している。事実、現地、木曽川の上流には、巴御前が巴ケ淵に棲む龍神の化身で、義仲を助けたとする伝説がある。それに肥後琵琶の『和仁合戦』に、和仁城主が討死した後、その娘と北の方が念仏を唱えつつ淵に身を投じた。しかも「ところの人の習わせに和仁の御前とたてまつる、ここに一社を建立し和仁石宮とぞ祝わるる。実に怨霊は恐ろしく御台親子の人々は渚の水の神になり今に水無月土用にはわに石淵より水神の和仁淵までの川伝い御楽ならして登りくると今の世までも伝えけれ」と言う。この伝承が、やはり武将と、その子女の関係を水神信仰に結びつけている。しかも、この木曾について、現地には巴ケ淵の背後に山吹山がある。いずれにしても義仲ゆかりの木曽川上流、淵に、この二人の女の名を伝えることは、物語の巴説話の基盤に、川をめぐる現地共同体の水神と、それを祀る巫女の文化を想定してもよいのだろう。その巴が離脱することで義仲に死が迫るのは、古代以来の英雄説話の類型。山国育ちの義仲の、京文化との格闘の中で、これまでかばい続けて来た今井兼平が主と二騎になる。義仲は日頃にも似ず、鎧が重くなったとつぶやく。これを兼平は、弱気になったかといさめ励ましながら、ついに意を決して、武名を全うさせるために自害をと促すが、義仲は死を共にしようとする。それを馬にとりついて押しもどす。踏み入れた深田に義仲は足をとられ、ここで「今井がゆくゑのおぼつかなさにふりあふぐ」ところを馬を射られ、今井の怖れたとおり首をとられる。それを見届けた兼平の壮烈な討死。焦点化の主体が、兼平と義仲の間を揺れ動く。これに「平家」語り受容の媒体としての琵琶語りの音曲が重なり、登場人物の役割そのものの読みをも左右する。この語りの揺れが、一谷の戦での忠度ら平家公達とは違った義仲の、あえない死に様、これに殉じる兼平の死、山国、木曾に生きた主従を語るいくさ物語である。この義仲・兼平の死闘の物語に仏教の色は見られない。しかし京の人々も、その主従の死を語る物語に感動したのであろう、修羅能の〈兼平〉と〈巴〉として義仲を弔うことになるのである。
 軍記論の行方として、王権の枠組みを考えるのが一般である。その当事者である天皇や上皇・法皇、さらに将軍までもを「王権」とすることに、世界的な視野を以ってする記号化がある。結局、この義仲も、法皇の指示に従う頼朝を介して王権に屈服し、討たれてしまう。その間、見て来たようなテクストを読む快楽によって、読者が王権に対する思いを減圧されると見るイデオロギー論がある。こと義仲の動きをたどってみれば、もともと後白河は保元の乱後、鳥羽帝の崇徳への遺恨ゆえに王権を継承することになった。その後白河の、平家への交渉が効を奏せず、神器を欠いたまま幼帝、後の後鳥羽を立て、その大嘗会を行う。それを「去る治承・養和の比より、諸国七道の人民・百姓等、源氏のためになやまされ、平家のためにほろぼされ、家かまどを捨て山林にまじはり、春は東作の思ひを忘れ、秋は西収のいとなみにも及ばず。いかにしてか様の大礼もおこなはるべきなれ共、さてしもあるべきならねば、かたのごとくぞとげられける」(巻十・大嘗会之沙汰)と物語は語る。王権当事者の保全や、これを外部から脅かす者の権力欲が、人々に多くの被害をもたらした。木曾追討に北国へ向かう平家の軍が、「逢坂の関よりはじめて路次
にもッてあふ権門勢家の正税・官物をもおそれず、一々にみなうばひとり、志賀・辛崎……貝津の道のほとりを次第に追補して通りければ、人民こらへずして、山野にみな逃散す」(巻七・北国下向)と言い、その相手の木曾義仲も、平家が万民を悩乱させると言う。延慶本には、東国に兵を挙げる頼朝についても、人民を劫略するとの批評を見せる。王権論をめぐって、歴史学において権門体制自体の変革が言われ、特に後白河法皇像の見直しが行われる。それを『平家物語』は、どのように語ったのか。上述したように、人民の苦悩を指摘し、時に当事者の回りにそれを冷ややかに眺める若殿上人や、「心ある人」の声を介在させる。そして、それらを語るいくさ物語が、修羅能や浄瑠璃・歌舞伎へと継承される。それらを文学として読むとはいかなることか。これまでの『平家物語』論を、中世の思想・文化的状況の中に置いて読み直す段階に来ているのだろう。


 
(山下宏明 名古屋大学名誉教授。平成19年3月愛知淑徳大学教授を定年退職。東京大学大学院博士課程修了、文学博士。中世文学専攻。軍記物語の研究で著名。主要著書に「平家物語の成立」(名古屋大学出版会)、「新日本古典文学大系 平家物語」(共編著 2冊)、「語りとしての平家物語」(岩波書店)、「いくさ物語の語りと批評」(世界思想社)、「岩波文庫 平家物語」(共編著 4冊)、「いくさ物語と源氏将軍」(三弥井書店)、「琵琶法師の平家物語と能」(塙書房)など多数。)


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