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神戸バンビひりひり
南 輝子(国文学 昭和42年卒業)
装幀家で画家の林哲夫は、みずのわ出版「文字力」が好評だったため、続編「古本力」を執筆中で、彼からその資料として神戸の古本屋に関するアンケートを求められ、はたと困ってしまった。現在、私は古本屋とは無縁、絶縁状態なのだ。書店は新刊本を立ち読みしても、古本屋ではしない。古本は一切買わない、読まない。古本屋へは絶対近づかない。私にとって古本屋=万引き=ロクサン・ワンタン=青春=バンビだから、古本屋はつねに燦めいて眩しい。古本屋の店先に積み上げられているダンボール箱の三冊百円の文庫本も輝かしく、私の胸をはげしく疼かせる。古本屋の店の奥に一杯つまった古本達のめくるめく叫びを避けるように、私はつねに古本屋の前を走って通り過ぎる。古本屋は私を平静でいられなくする。苦しくする。切なくする。ほんとうに辛い。
神戸にある古本屋の中でも、三宮センター街東入口の老舗G書店は品揃えもよく、広い店内は死角が多く、万引きにはもってこいだった。大きな鞄を持ったロクサンは、先ずジャズ喫茶『バンビ』で黙ってひとり珈琲を飲み、それから高価な希覯本を求めて出かけていく。いつ訪ねてもロクサンはやさしく、飲ませてくれて、たべさせてくれるので、いつも若者がたむろしていた。私もロクサンと同居人のオヒロには一宿一飯の恩義がある。後年、両性具有の美少年美少女の妖しい油絵と銅版画で有名になる異端派山本六三は、このころはまだ全く無名だった。ロクサンにピッタリくっついていた少年ワンタンは、特別待遇だったのか、いつもロクサン家にいて、いつも本を読んでいた。毎夜酔っぱらってはロクサンのコラージュ作品をばらばらに壊したり。そのワンタンが実は、渡辺一考という姓名を持っており、詩歌本の出版で活躍していると知ったのも、バンビ時代から数十年後だ。
二〇〇六年九月東京永田町星陵会館にて、9.9「憲法を考える歌人のつどい」の集会後の懇親会で、初対面の黒瀬珂瀾さんがワンタン、渡辺一考と親しいとおききし、あつかましくもお願いして、集会のまとめ役をされた久々湊盈子さんといっしょに、一考のモルトバー『ですぺら』へ案内していただいた。なぜか赤坂のその酒場は懇親会場から歩いてすぐのところ、運がよかった。こだわり人のワンタンらしく『ですぺら』は高そうなモルトウィスキーを壁一面の棚にずらりと並べ、カウンターも床もピカピカに磨かれていて、清潔で上質、おしゃれな店だ。料理人としても一級である彼が奥の厨房で腕を振るうのだろう、酒の肴も美味なものを取りそろえてあるらしく、小さな黒板に、本日のおすすめ一品がいろいろ書かれてある。私は一つ覚えの芋焼酎のお湯割を注文したが、久々湊さんは美しい紫色のカクテル、黒瀬さんはウィスキーのストレート、二人とも店に似つかわしく格好いい。白髪で中年太りになったワンタンは温厚そうで、愛想よくやあとにっこり微笑んだが、その表情の中心をなす眼はバンビ時代そのまま、おもいつめて鋭く、きびしく、飢えている。瑞みずしく、全身が新鮮に文学している黒瀬さんは、ショットグラスで格好よく飲み、先に帰られたが、眼がワンタンそっくりなのに驚いた。ひりひりその存在そのものが迫ってくる。このひりひり感覚こそ、私がはるかな過去に喪ったもの、バンビだ。
(短歌同人誌『眩』第74号より転載)
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