「一遍聖絵」のことなど  
                         梅谷繁樹(国文科 昭和38年卒業)

 (前口上)
 国文の先輩で、神戸大国文の教授をされた池上洵一氏の縁で、その同級生の西洋史卒の後藤澄夫さんと小生が知り合いになっています。過日、静岡の磐田市の後藤先輩宅にお邪魔しまして、話題が、神戸大文学部、東海支部の同窓会に及びました。
 その後、後藤兄より萩紀男さんにお話があって、同氏より、小生(今は退職して、時宗という、浄土系寺院の住職一本でやっています)の宗門の宗宝、一遍上人の伝記絵『一遍聖絵』について、長短自由に何か書いて、支部のホームページに寄稿するようお誘いがありました。一応、小生もこの方面にかかわっているはしくれですので、思いつくままに短く書いてみることにしました。原稿に加除を加えて、ぎくしゃくしていますが、ご了承下さい。
 
 さて、時宗の宗祖一遍上人(延元元年〜正応三年・一二三九―一二八九)は、伊予(愛媛)河野水軍の末裔です。河野家は中世に台頭し、伊予大三島の大三島神社の氏子です。神紋は八角形の内に「三」の字が入っていて、(隅切三と称します)全国の三島神社の神紋は皆これです。三の字が波のように凹凸のあるものもあります。波切三と言っています。
 この河野家は、皆さん国文の方はご存知のように、一遍の祖父、河野通信が一族を率いて平氏追討の源氏に加担して壇ノ浦に水軍をさし向け、源氏勝利を導いた大立役者です。しかし、承久の乱の折、在京していて、後鳥羽院方になり一挙に没落します。その子孫は河野姓を名乗らず、得能、土居、稲葉などと称し、江戸大名の一員になった者もあります。稲葉氏などは徳川家光の乳母の「おふく」の出身で有名です。東京の湯島の臨済宗麟祥院に「おふく」の墓があり、隅切三の紋が寺門の門扉にあります。
 さて、この十数年来、一遍上人と時宗、とくに『一遍聖絵』が日本史の学界で絵画史料として大きく注目され、又、美術史の方面からも注目され、研究が進んできています。
高校で教える教科書では通り一遍の説明で、一遍上人などは鎌倉新仏教の祖師の一人としても余り大きく取り上げていないようです。せいぜい「おどり念仏」の絵が教科書に引かれている程度です。一遍上人は、河野家の没落と母の逝去によって、父の命で十三才で出家し、父の縁で九州大宰府の浄土宗(西山(せいざん)派)の僧、聖達の下にやられ修行します。これは、専門の僧としての修行より、むしろ、学問のためのようでした。
 今日、浄土宗や浄土真宗は大きな宗門になっていて、その結果から(それだけではない歴史事情はありますが)何かしら、大きく思われています。しかし、中世の同時代にもどりますと、むしろ、一遍上人―この上人は、他の法然、親鸞両上人と同じく、宗門を開く意志はなかったのです―と、時宗が中世都市を中心に大きく信仰を集めていました。今に残る古い中世都市にはほとんど例外なく時宗寺院があります。それは、とくに時宗のお上人が、一遍上人以来、全国各地に念仏を勧めて遊行(ゆぎょう)されたからです。
 浄土真宗は室町後期の本願寺八世蓮如上人から、浄土宗は徳川家の菩提寺となる近世から、より大きくなったと思います。その徳川家ですが、元の松平氏は三河のただの土豪で氏素姓ははっきりしません。征夷大将軍や源氏の「氏の上」にならないと、幕府を開けませんから、うまく、新田氏の子孫と称して、源氏を名乗ります。今、詳細を省きますが、新田出身の時衆僧が松平に入り婿します。ここに時宗がかかわっています。徳川の姓は新田の出身地(群馬)の地名です。
 
 そろそろ本題に近づこうと思います。
 小生が学生の頃、やっと中世仏教の祖師方の著述が文学としても視野に入って来るようになりました。永積先生が書かれた、岩波講座『日本文学史』では今、記憶によっていて不確かですが、「中世文学の成立」という、中世文学史家の代表としての論文を書いておられます。しかし、まだその中には、一遍上人への言及はなかったようです。けれども、このような視点の開拓が、今日の一遍研究へのかすかなスタートであったのでしょう。
 その後、能・狂言などを研究されていた、小生のよき指導者の一人でもある、鳥取大学名誉教授の金井清光先生が、時宗を研究しないと、中世芸能の理解には達することは出来ないと思われ、この方面の研究に手をつけられ、文学のみならず歴史についても多く深く著述をされています。
 
 本題に入ります。
 『一遍聖絵』は国宝です。十二巻四十八段から成っています。別に『一遍(遊行)上人絵(詞)伝』というのがありますが、これは、一遍上人と時宗教団を開いた時宗の二祖他阿弥陀仏(真教)の伝絵で、多数の写本があります。布教に使われたからでしょう。
 『一遍聖絵』は一遍上人の義弟(腹違いの弟)聖戒(この方は僧ですが、時衆<六時念仏の衆の意です>ではありません)の制作です。時衆の僧尼は、僧は某阿弥陀仏、尼は某一房または某仏房と称しました。右の十二巻の十二は、阿弥陀仏の光明を、十二の光明にたとえたもので、智恵光仏とか清浄光仏とか歓喜光仏とか申します。四十八は阿弥陀仏の本願の数で、浄土ではこのうちの第十八願を王本願と言って、一番大事な願とします。いわゆる他力本願・念仏往生の願で、五逆謗法以外の者は念仏すれば極楽往生がかなうとします。
 『一遍聖絵』の絵が国宝なのは、絵がすぐれているからです。平安朝からの大和絵の画風を伝え、当時有力貴族階級の者しかできなかった絹本に描かれています。実は、そこに描かれている人々は、貴族や武士の他にそれ以上に、多数の庶民、遊行宗教・芸能民の姿があります。とくに、商人や職人、琵琶法師や夫婦で赤ん坊を連れた暮(ぼ)露(ろ)(ぼろぼろ―『徒然草』一一五段)、絵解き、乞食、ハンセン病者等々がリアルに描かれ、一遍の布教の対象で、信者の一つの有力な層であったと思われます。
 こういう定住、非定住の身分の上下の人々を一つの絵に収めているのは珍しく貴重です。芸術史家は貴族志向の絵伝としますが、絵画史でも歴史でも、庶民への視野を含めた、整合的な新たな評価が望まれます。
絵師の円伊という人は、今日でもまったくどういう人かは分かっていません。しかし、高度な技術を持った人です。小生の友人の画家は、模写してみると、高い宗教性のある画だと言っています。小生には、よく分かりませんが、熊野の那智の滝図、滝の上方左上に馬の絵があります。これはあえて馬の絵を描いたのでしょうが、岩肌に馬の形を見たのかもしれません。それはともかく、馬は日本では古来、神聖な動物です。
又、熊野新宮の近くに猪の絵もあります。これは、熊野の神の神体と見立てたもののようです。こういう点も、仏教画、宗教画の一端を示していましょうか。
詞書は聖戒が書いたとあります。
学者によると、その構成はただ一遍の伝記を通り一遍に書いたものでなく、祖師一遍の中世神話、歴史物語(作り物語)として、貴種流離譚などを下敷にしているとのことです。伝記史料への取捨選択もあったようです。
あるいは、聖戒一人の文案でないかもしれません。とにかく、多くの典拠を持つ文章で、当時の高い学問レベルを消化したものであります。聖戒さんは相当な学問のある人だったようです。ちなみに、この聖戒という法号も、後に一遍上人について出家し、その師の聖達上人から聖の一字をもらっているようです。
 このような絵巻を作るのに、一遍の寂後十年かかっていますが、伝記資料の収集や絵巻の制作の費用等、聖戒はじめ、その関係者は相当な苦労、腐心をしたものでしょう。
この絵巻はつい最近まで、聖戒を開山とする時宗の寺、歓喜光寺の蔵でした。今日、時宗の本山蔵になっています。上杉本『洛中洛外図』では、このお寺は「六条念仏」として描かれています。時宗の六条派と言い、元は、六条河原の近くにありました。このお寺は時宗の本派である遊行上人の遊行派とは、近世まで余り交渉はなかったようです。前にも申しましたように聖戒さんは時衆でなく、阿弥陀仏号はありません。
 右の叙述と関係しますが、一遍上人のはじめの頃の出家巡礼姿は注目されます。
 たぶん自分の妻、娘と従者と三、四人で描かれています。こういう人々の巡礼姿は、当時でも珍しいものではないでしょうか。
 後には、僧尼十数人から二十数人の時衆と共に遊行します。異様と言っては言いすぎでしょうが、鎌倉の街へは入れてもらえませんでした。反逆者の河野通信(奥州江刺に流罪)の孫でもあり、また念仏者の横行を禁じていたからでしょう。
 また、これら一遍以下の時衆は、すべて阿(あ)弥(み)衣(え)という衣を着用していました。
 これは藤の繊維などで編んだ、ちょうど畳のような衣で、防寒、防雨の用も果たしたと思います。古く縄文時代からの庶民の衣類で、近代までアンギン(アミギヌの変、庶民の粗末な野良着です。時宗では、これを阿弥衣と阿弥陀如来の衣にまでたとえたのでしょう)と言っていました。歴史家は改革宗教家一遍のプロテストの象徴としています。ことほどさように一遍は一切を捨てて生き、念仏することを自らも実行し、人々にも勧めたのです。『一遍聖絵』の近年の大修理の折、腰に衣をまとった、裸に近い下絵が発見されています。
 捨て聖と言われたゆえんです。
 その境地を
 
   身を捨つる 捨つる心も 捨てければ
           思ひなき世に 墨染めの袖
 
と、詠んでいます。また、
 
    心より 心をえんと 心えて
        心にまよふ 心なりけり
 
と、自分の心にたよらず、本願をたより、他力往生を願う境地に人々を誘っています。
 さらに、
 
   旅衣 木の根萱の根 いづくにか
        身の捨てられぬ 所あるべき
 
という、歌の心をモットーに本格出家後の一生を十六年間、一所不住の念仏勧進の旅に終え、寺には入りませんでした。
 今日では、神戸市兵庫区大和田、清盛塚と向かいあって真光寺があり、そこに一遍上人のお墓(入寂時に建立)があります。
 本山は、神奈川県藤沢市の遊行寺(清浄光寺)で、時宗の四代上人他阿弥陀仏(呑海)の建立です。
 京都にも七条河原町に金光寺という本山がありましたが、明治になって建礼門院剃髪の寺、長楽寺(時宗)に合寺されています。
 本山は二つあって、藤沢は隠居後の遊行上人の寺、京、七条は現役の遊行上人の寺で、歴代他阿弥陀仏と名乗ります。
 以上、とり急ぎ思いつくままを書きました。
時宗や一遍上人のことやそれ以外の浄土仏教や今日の仏教界のあり方など、ご質問などあれば、分かる範囲でお答えします。
 
 
 
 
 
 
 

2006/09/10