近代的国語辞典の祖 谷川士清のこと(その2)

               萩 紀男(国文学 昭和35年卒業)    

【徳川幕藩体制の弾圧政策】

 京都で国学を学んだ時、士清は学友の竹内式部と親交を結び、帰郷後も絶えることがなかった。その後、竹内式部は、公家に仕え『日本書紀』を進講したが、その内容が反幕的であり、且つ有志を集めて軍学と武術の実地訓練を行ったことから、幕府の怒りを買い京より追放されるという事件(宝暦事件)が起こった。追放後も竹内は士清をしばしば訪れていたらしい。

 明和4年(1767)山縣大弐が、徳川幕府を否定し古代王朝政治に王道を見ようとして活動したことから、43歳で斬首されるという事件(明和事件)が起こった。竹内式部はこれに関わったとして伊勢で逮捕された。たまたま同席していた士清もともに逮捕されたが、このときは、津七代藩主藤堂高朗(たかほら)の庇護もあり、事なきを得た。しかしその後、士清が(とく)大日本史私記』を著して、水戸光圀編纂の『大日本史』の誤りを痛烈に批判したことから、日ごろ士清を快く思っていなかった幕府に格好の弾圧の口実を与えることになった。幕府の圧力は、津藩を通して一気に強まった。不運なことに、かつて庇護者であった高朗はすでに隠退し、九代高嶷(たかさど)が藩主の座にあった。また藤堂藩の藩校『有造館』は水戸藩校『彰考館』の学風を導入していた。そのため士清に対する処分は、学統を根絶やしにするほど厳しかった。君公の本を無断で士清に貸したとして、服部保佑には絶家が申し渡された。士清は「他参留」(津藩領国からの出国禁止)、長男士逸(ことはや)は「所払い」(津領内への入国禁止)の処分を受けた。

 元来、国学は大和朝廷の作った官撰国史であるところから、いきおい反幕の傾向を帯びざるを得ない。士清は、政治的思想というよりも学問的立場から自己の信条に忠実であったに過ぎないと考えられるが、藩閥体制はそれすら許さなかった。思えば不幸な時代であったといえるだろう。

【知名度の低いことのもう一つの理由】
 学統が根絶やしになったことから、その後士清の業績は顧みられることが少なくなった。しかし、幕藩体制が終り明治になると、再び注目を集めることになり、生誕二百年には従四位が追贈され、昭和7年には谷川神社が建立されるなど、顕彰が行われた。けれども昭和二十年の終戦により国家神道が否定されると、再び彼の業績は闇の中に沈められた。

 常に彼の学問は時代の波に呑み込まれる運命にあった。だが、時代の変遷がどうあろうと、彼の学問上の業績は燦然と輝いているはずである。変わるべきは政治であり、彼の学問ではない。来年は生誕三百年である。この機会に三度彼の業績が広く知れわたり、正当な評価を受けることが出来るようにしたい、というのが竹内先生の願望である。そのためにはせめて教科書に彼の名前だけでも載せてほしいと先生は願っている。

 以上が先生の講演と著作の内容のまとめである。私には先生を通して知り得た以上の知識はない。従ってできる限り先生の内容を正確に伝えようと努めたつもりである。しかし言葉は、大半が私のものである。その間に意を尽くせないところや誤解の部分があるかもしれない。しかしそれは全て私の責任である。

 最後に、先生の著作から感じ取った谷川士清の人物像を私なりにまとめてみたい。

【士清の人物像】
 今まで述べてきたことからも分るように、彼は学問上の信条を守ることにおいては、常に毅然として一歩も引かなかった。幕府の弾圧については当然予想したであろうが、そのために学説を曲げることはなかった。彼の思想は政治的な目的を持ったものではない。竹内式部のように反幕勢力に加担したこともない。家業は町医であり、政治的利害とは無関係な環境にあったことが、その証しとなろう。

 学問の場における士清の姿勢は峻厳であったが、それを離れればまことに情誼に厚い、人とのつながりを大切にする人物であったであろう。竹内式部との関係も、敢えて実生活上の不利益を知りながら結んだ交友関係に過ぎなかったのではあるまいか。

 また、彼は学問上の論争や批判はあくまで学問の上のこととして、客観的に理性的に処理し、実生活に持ち込まない見識を有していた。賀茂真淵の『冠辞考』をめぐって、批判の応酬があったが、それでも彼は自分の門下生であり女婿の蓬莱尚賢を真淵に弟子入りさせている。先学としての真淵を高く評価してのことであろう。

 本居宣長との関係においても、学問上の立場を超えて尊敬しあい、たがいに切磋琢磨しあう姿が見えてくる。『日本書紀通證』が出版された時、本居宣長は、これが漢文体で書かれていることと儒教精神が払拭されていないことをもって激しく批判した。しかし、それを機会に二人の交友は深まり、遂には生原稿を見せ合うまで親密になったという。『倭訓栞』の出版に当っては、士清は宣長に序文の執筆を依頼し、宣長はそれに応じている。その中で宣長は「今から後はこの書によって、たやすく、間違いなく書物が読めるようになるだろう」と絶賛している。

 士清は、学問の場では不撓不屈の信念を持ち、論戦に臨む態度は峻烈を極めたが、一旦学問の場を離れれば、情誼に厚く、思いやりに満ちた人物だったとするのは、私のひとりよがりだろうか。

                                 以 上