「相互理解の幻想性について」の段(2008.3.16)
携帯MP3プレーヤーが故障した。某グリー○ハウス製の安物で、一度壊れたので販売店に持って行って同商品交換になったやつがだ。くそ忙しいのに一々保証書持って修理してもらいに行くのもやってられんので、見切りをつけてソニーのウォークマンを買った。
うむ、お値段はそれなりにしたが、温室はいいし選曲もしやすい。これは良い買い物だ。
ところでその付属のイヤホンというのがちょっと特殊な形状で、耳栓みたいな形なのだが、デフォルトで付いてるのをそのままで耳に突っ込むとどうにもうまくない。ポロポロ落ちるし、無理に突っ込むと耳が痛い。
そこでイヤホンの耳に入れる部分を同梱されてたSサイズのものに変えたらしっくりきた。どうやら俺という人間は一般よりも耳穴のサイズが小さいらしい。
これはどこにでもある日常の一ページではあるのだが、一つの真理を示している。つまり「人はお互いを完全に理解することができない」ということである。
人は人であるがゆえに他人とは構成されているパーツが一つ一つ異なっている。耳穴にしたってそうだし、目にしたってそうだ。
難聴の人とそうでない人、視力が2.0の人と0.1の人、色覚障害の人とそうでない人、みんなそれぞれの認識する世界は異なっている。感性レベルでなく物理的に「同じものを見て(聞いて)いても同じように見えている(聞こえている)わけではないのだ。同じ曲を聴いていてもあなたにとっての「ド」が彼にとっての「レ」でない保証はないし、同じ絵を見ていてもあなたにとっての「緑」が彼女にとっての「黄緑」でない保証はないのだ。
等しく伝えるという点でいえば文字情報などが優れているが、受け手側の能力に左右される部分が大きいのでこれもまた共通認識とはなりえない。
したがって、人は同じ世界を他人と等しく認識することは不可能であり、お互いを完全に理解することは永遠にできはしないのだ。もしもお互いを完全に理解できたと感じる瞬間があったのなら・・・それはただの幻想なんだろう。やっぱり。