「相対的な雑論」の段(2005.6.4)



 さて、先日書いた「ニュートン」であるが、読み終わったので思った事などを忘れぬ内に記しておく。

 今回思ったのは、いかに自分に知識が不足していたかってこととアインシュタインはやっぱすげーってことである。
 まず、根本的に誤解していたのは「特殊相対性理論」と「一般相対性理論」の関係である。この両者の関係、語感だけからだと「一般」が先にあって、例外的な状況に対応するために「特殊」が生まれたような感じだが、実は特定の状況においてのみ成り立つ「特殊」があり、それを推し進めて一般化したものが「一般」の方なのである。つまりは「特殊」は「一般」の中に吸収される理論なのだ。
 こう書くと「ふ〜ん」の一言で済まされてしまいそうだが、俺がすごいと思うのはこの順序の逆転現象が純理論的なものだからだ(厳密には違うだろうけど)
 ニュートンとかの場合、リンゴが落ちるとかの「現象」があって、それに見あう一般的な理論を考え、それに合わない部分にはそれに対応する理屈が考えられていったのに対し、アインシュタインの場合は特殊な状況で成立する理屈から一般的な理論を構築し、さらにそこから導かれる「光が曲がる」とかいう現象を予言(後に観測で確認される)してしまったのだ。この、目に見えるものからどういう仕組みなのか考えるのではなくって頭の中だけでこんなややこしいことを思いついてしまうっていう純粋な思考の産物ってところに何とも「すごみ」を感じてしまうのだ。

 それと、「光」に関してはいろいろと思うところがあった。何でも「速度は有限で、光の速さが最速」なのだそうだ。そして「光の速度に近づけば近づくほど、物質の質量は大きくなり、時間の流れ方が遅くなる」のだそうだ。
 これはまあ、そうなのかもしれない。そうかもしれないのだが、どうにも釈然としないものがあるのも事実だ。何が引っかかるのかというと、それが光を基準としていることだ。つまりこの世にはありとあらゆる物質やら波やらが存在しているのに、何故「光」なのか、「光」というのはそれほど特別な存在なのか、という点がわからないのだ。「宇宙はそういう風にできている」というのが答えなのだろうが、どうにも聖書で「人間は動物の上に立つ特別な存在として神に作られた」というような気持ちの悪さを感じてしまうのだ。
 あと、よく「光の速さを超えたら過去の世界にさかのぼれるタイムマシンができる」なんつーことを小学生の時分に聞いたと気がするが、今回理解した範囲では仮に光の速さを超えることが出来たとしても、そこにあるのは過去の世界ではなく、「より完全に停止した世界」のようである。やっぱり過去に戻るというのは今後も無理そうである。ま、タイムマシンがあれば今ごろ世界は未来人だらけになっているだろうから当然の事なんだろうけど。ちなみに「猿の惑星」的な未来行き一方通行のタイムマシンは可能である。念のため。

 それはそれとして、今回色々わかって面白かった。やはり人として最低限の教養は必要なことだ。しかし今後も「ニュートン」を購読するかどうかという話になると、それはまあ特集の内容次第――相対的な話だと思うのだ、やっぱし。

 
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