「論理的思考」の段(2004.9.10)


 なんかここんとこず〜っと、日常ネタしか書いてない気がするので、意識的にそっから離れた話題を書くことにする。

 さて、わりと「論理的な人」とか「非論理的な人」とかいう表現はありふれているわけだが、その「論理的な人」がしている「論理的思考」とはどういったものなのかを今回は考えてみることにする。

 まず、「昔、機関車では石炭をくべる係の人は軍手を水で冷やしてから作業を行っていた」というのが本当か嘘なのかどちらかを明らかにするようにという命題が与えられたとする。
 ここでいきなり「やってそう」とか「やってなさそう」とか雰囲気で判断する。これが論理的思考ではないのは明白だ。
 では、「機関車の出てくる映画とかの映像でそんなシーンを見たことがないから嘘だ」と判断する。これははたしてどうだろうか? 私はこれは論理的な思考ではないと思う。なぜなら、これはあくまでも自己のあいまいな経験を基礎とした判断であり、経験不足やあいまいな記憶といった要因によって結果が簡単に左右されてしまう思考方法だからである。

 それでは論理的思考とは、この場合どのようなものになるのだろうか? 私が思うに、「つまるところこの命題は係の人にとって濡れた軍手と乾いた軍手のどちらがよいかという問題だ」→「この場合どちらがよいかという基準はどちらの方が熱さがマシかということだ」→「ということは濡れた軍手と乾いた軍手のどちらがより熱くなりにくいかということだ」→「そしてそれは水と空気のどちらがより熱くなりやすいかということだ」→「ここで、仮に空気が水より熱くなりやすいとすれば、お湯を沸かす時、水より周囲の空気が熱くなってしまってとてもやかんなど触れないだろう」→「ということは水の方が空気よりも熱くなりやすいはずだ」→「それは引いては濡らした軍手よりも乾いた軍手の方が熱くなりにくいということだ」→「よってこの命題は嘘だ」という一連の流れがあって初めて論理的思考だといえるのではなかろうか。
 無論途中経過がヤカンでなく海風と陸風でもいいし、初めから知識を持っていてもいい。重要なのは「普遍的な事実から論理的な経過から結論を導きだす」ということである。これならば結論は「普遍的な事実」が揺るがない限りは揺るぐことはない。
 そして、常にかような論理的思考をできる人間のみが「論理的な人」と呼ぶに値するのではないだろうか。そのように私は思うのだ。

 ちなみに私は「論理的に考えるのが好きだけど、なんとなくで行動してしまう人」です。(ダメじゃん)
 あ、それと濡れた軍手で石炭をくべようもんならすぐに火傷しますので、実際に試すのはやめた方がいいですよ(つーか身近に機関車なんてないって)


 
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