「とりとめもないこと」の段(2003.12.23)


 なんというか、本当にふっと思いついたことなのだが、自分の思想の根幹を説明するフレーズが天啓のように頭に浮かんできたので忘れないうちに記しておく。

 そのフレーズ、というか熟語のようなものだが、それは自分の目指し、理想とするものを一言で表現するものである。それは「一般正義」という言葉である。
 むろんこれは造語なので辞書をひいても載ってはいない。だが、これこそが自分の思想を端的に表現する一言だと思うのだ。

 ずっと私は「正しい」とは何かを考えてきた。そして人にはそれぞれの正義があり、絶対正義は存在しないといいう結論に達した。それをさらに突き詰めて「正しさ」の根源を「法」に求めることもした。このことが法学部を志した動機の大きな部分を占めていたわけであるが、「法」に「正しさ」を見ることはおおむね肯定できるにしても、「悪法もまた、法である」という現実に有効な答えを見つけられずにいた。
 「悪法もまた、法である」という考え自体は納得できる。いかに悪法であろうと、法を破ってよいわけではなく、法を正すことこそが正道なのだ。――だが、定義自体で「悪」とされているものに「正義」を見るのも矛盾がある。これがずっとひっかかっていた。

 しかし、今さっき思いついた「一般正義」はそれらを矛盾なく説明できる解答だと思うのだ。
 つまり、「一般的な人ならば正しいと肯定せざるをえないものを正義とする」ということなのだ。これだと「法を守ることは正しい」ということは言えるだろうが、法の中身自体の正当性は盲目的に肯定しない。そして今まで法に正当性を見出していた場合と同様に、人を傷つけたり殺したりすることは悪いことだと言うこともできるのだ。
 そして原理主義者やテロリスト、カルトのような連中の理屈は一般性を持ち得ないゆえにその正当性を失う。(これは余談だが、「正しい行為」の根幹には共存していく上での社会の規範が重要な基礎となっているが、それはあくまで理念的な社会から導かれる規範であり、現実の社会では文化のフィルターがかかっているためそのままそれを一般規範として受け入れることができない。イスラム法などがその典型だろう)
 ただ、勘違いしてもらっては困るのだが、これは「多数決」ではない。少数の人しか実践できなくても、多数のものがその正しさをしぶしぶにでも認めざるをえない場合はそれは「一般正義」と言えるのだ。


 と、かなりややこしくて、たぶん書いてる当人以外には理解できない奇怪な文章を書いてしまったが、とにかく私がいいたいのはそういうことなのだ。わからない人には別にわかってもらわないでも結構なので、特に気にしないでください(笑)

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