「ボールの現在進行形」の段(2003.1.22)
ボールの現在進行形――それがボーリングだ。小賢しい人間は英語のつづりが違うじゃないかとか指摘することだろう。あるいは、だったら穴堀りのボーリングだってそうだろとか理屈をこねるかもしれない。
だが、ここではあの青色3号ブルースリーの言葉を思い出すべきだ。
「考えるな、感じるんだ」
これである。
ボーリングといえば球技である。どこをどう見たって生野菜を盛り付けるボールではありえない。ということは即ちボーリングはボールの現在進行形なのである。名詞に進行形があるのかということはこの際考えなくてよい。感じたことが答えなのであるから、それが紛れも無い真理なのだ。
さて、結論が出たところでさらに詳しく考えてみる。
「ボールしてる」のがボーリングなのであるからして、ボーリングの最中はこれはもう「ボールしっぱなし」ということになる。物事には何事にも限度というものがあるので、良識ある人ならば「しっぱなし」というのは避けて通るべき野蛮な行動ではあるまいか。
この批判は決して私が不器用でアベレージが3桁いかねえよという事実とは関係のないことを釈明しておくが、そもそもボーリングという遊戯が極めて野蛮なる行為であることはその初期に思いをはせて頂ければすぐにでもご理解頂けるものである。
現在のボーリングの姿は実に洗練された近代的な遊戯のように見える。だが、考えてもらいたい。
いったい現在のように機械化・自動化されたのは何年前のことであったのかということをである。
それはおそらく数十年、ことによると40年も経っていないかもしれないほどであろう。かように浅い機械化の歴史以前に行われていたボーリングというものを想像できるだろうか?
あの重いボールはどうだったのであろうか。相当の貴族は大理石などを使っていたものと考えられるが、通常は鉄球が用いられていたことが予想される。いずれにせよ、材質を問わず当時の技術では真球を作り、そこに正確に3つの穴を穿つことは相当に困難なことであったことは間違い無く、そのようなボールを手に入れることができたのは一部のブルジョアジーだけであったことは想像に難くない。
ピンはいいだろう。ちょっとした職人ならばあの程度のものを削りだすのは簡単であろうし、割れることを考慮に入れれば消耗品であったことは疑うべくもないからだ。
だが、ああ、そのプレイする様を想像した時、私は悲しみの涙を禁じえないのだ。
まず、ボーリングは地面がでこぼこであっては遊ぶことはできない。従って屋内で遊ばれていたことは間違い無いだろう。
さあ、金持Aボールを投げた。ごろごろとボールは転がりピンをなぎ倒す。そして屋内である以上そこに待つものは当然屋敷の壁である。このままでは壁に傷がついてしまう。さてどうするか。
導き出される答えは一つ。止めるのだ。誰が止めるのか。――奴隷である。
そう、彼等は主人が骨も折れよと転がした鉄球を自らの肉体をもってとめていたのである!
およそ信じがたいことではあるが、彼等はボールを受け止めた後、倒れたピンを撤去し、残ったピンをセットし直し、自らの肉体を傷つける凶器であるところのボールを再び転がしてもらうために遠く離れた主人の元へ抱えていったに相違無いのである。
そして延々数ラウンド繰り返される楽しいボール遊び。これを野蛮と言わずして何を野蛮と言うべきであろうか。ボーリングとはかように非人道的な行為を前提とした遊戯なのだ。
だから私はどうにもボーリングというものが好きになれない。
なのに来週の火曜日の係内の親睦会はボーリングだ。そういや大学の時のゼミの歓迎会もボーリングだったし、中学の同窓会もボーリングだった。
――お前ら、そんなにボーリング好きか?
念のために言っておくが、こんな批判的なことを書くのはボーリングが苦手だからじゃないぞ。うん、断じて違うはずだ。いや、本当、マジで。信じてくれ(笑)