「公共ということ」の段(2002.10.18)


 公共ということを考えてみる。
 いやなに、昨日ぐらいの新聞に「教育基本法に愛国心(公共心や道徳心、郷土や国を愛する心)を基本理念に盛り込むことが中央教育審議会でまとめた中間報告に」ってな新聞記事を読んだからだ。
 この中間報告ってのはまあ法律の源流になるもんだから大事っちゃあ大事なもんなんだが、ばかだよなあ。恐ろしいほどに何もわかってない。

 いわゆる「国民」が子供――というかこの場合は自分以外の全員だろうけど――望んでいる公共心とかどうとかいうのは、おそらく「電車で座り込んでんじゃねえ」とか「映画館では携帯を切れ」とかそういうレベルの積み重ねでしかないと思う。
 しかし、「偉い」人達が教え込みたいのは「国のためなら自分を犠牲にする」ということだったりするわけだ。
 つまり、同じものを目指しているようで、実は全く別のものを見ているわけだ。

 俺だって電車で大また広げて制空権を確保してるおっさん達は「お前らかわいい女の子じゃねぇんだから股ひろげてんじゃねぇ」って思うけど、その一方じゃよっぽど混んでないかぎりは鞄を背負ったまま電車に乗ったりもする。要は自分にとっての「限度」のレベルの違いというだけで、大なり小なり皆公共心は持っているということだ。それが他人にとっては不十分に映るというだけの話だ。
 そして許せる「限度」なんてものは公教育以前の問題で、殆どの場合は親の教育の段階で基礎付けられるものだ。言ってしまえばただのマナーなんだから。

 別にマナーを良くすることが悪いといっているわけじゃないが、それを公教育にお任せしようなんてのは愚の骨頂だ。せいぜい愛国心を教え込んで、イラクみたいに支持率100%にするがいいさ。
 ただ、その時支持率が本当に100%だったとしたら、その時は俺は不投票だったと思ってくれ。間違いない。

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