「おじいちゃんの時計」の段(2002.8.15)
腕時計が止まった。
しばらくしたらまた動き出したので、おそらく電池切れだろう。
そして僕は思いだす。
この時計はおじいちゃんが誕生日のお祝いにくれたものだ。アンティークっぽいシックなデザインが気に入っている。
思えば高校時代、大学時代、そして今、ずっとこの時計といっしょに僕は生きてきた。
それはたぶん、これからも同じだろう。
形見というわけではないのだけど、おじいちゃんからもらったものでちゃんと印象に残っているのはこれぐらいのものだからかもしれない。
おじいちゃんが死んだのは僕が大学のゼミの面接を受けた頃だから大学2年の冬、もう3年もたとうとしている。それはあまりにも突然のことだったので悲しむこともできなかった。
今も、今も僕はおじいちゃんが死んだことを悲しむことができないでいる。当たり前のように日常を暮らし、笑い生きている。そのことが、自分にとっておじいちゃんがその程度の存在でしかなかったことが、寂しい。心のどこかで澱のようにわだかまっている。
人はたぶん、どれだけ悲しくてもお腹が空いたり、眠たくなったりする。それと同じように人はたぶん笑わないで生きてったりすることはできないんじゃないかと思う。だってそれは、自分じゃないから。自分が死ぬ以外のことなら人は受け流すことができる。できてしまうんだと思う。そのことが、僕は悲しいと思う。
とても、悲しいことだと思う。