「靖国について思うこと」の段(2001.8.11)


 今回は最近話題になっている「靖国神社」の話をしようかと思う。
 ただし、政教分離原則に違反するとか、A級戦犯が合祀されているとか、そういう視点とはまた別の視点から書こうと思う。(上のような視点は別のところで議論され尽くしている感があるから)

 さて、私自身の考えの基礎には二つの原則がある。それは「魂などというものは存在しない」ということと「死者は全て生者のためにある」ということだ。
 簡単に言えば、「墓参り」や「慰霊」の類は生きている人間のためのものであって、死んだ人間にとっては無価値であるということだ。
 しょせん、人間なんてある種の電気信号と化学物質の伝達で「思考する」、ただの有機物と無機物のかたまりにすぎない。魂の存在なんてものはただの妄想だ。
 ただ、生きている人間は「安心」を得たいがために死後の世界を信じ、魂の存在を作り上げる。また、不幸なことが起こった場合、人は原因を欲する。そして何も原因が見つからない時、「霊が怒っている」からだという理由をでっちあげて、納得し、「安心」するのである。

 と、こんなことを書くと、私が「墓参り」などを認めないというように感じられるかもしれないが、そうではない。生きている人間にとって「墓参り」や「慰霊」が有用(心の安定をもたらす等)であるならば、それはそれで良いと思う。もっとも、私にとっては儀礼行為にしか過ぎないが。

 ここで靖国神社の話に戻るわけだが、やはりこの場合も「生者のため」である。
 遺族会は自分の肉親の死が評価されることを望み、右翼は戦前日本の行為を正当化する一環として公式参拝を熱望するわけだ。
 これらは一見、自分のためではなく、他人のために望んでいるかのようではあるが、実のところ、自分の精神的な安らぎを追求していることにほかならない。
 遺族会であれば、肉親の霊が満足すると思うことで自分も満足し、右翼であれば、しょ〜もないプライドを守って自己満足に浸るわけだ。(右翼は戦前日本に帰属意識をもつため、戦前日本が褒められるとうれしがる習性をもっている)
 このような事情は公式参拝を反対する側も同じ事である。
 しょせん、どちらも「生きている人間」の都合でしかないというわけだ。
 ならば公式参拝をするかどうかは、厳密な利益衡量によって判断するべきであろう。つまり、「どっちが得か」で決めるのだ。
 その際、一国の首相としては「自分自身の素直な感情」にウエイトを置いては政治家失格であり、大所高所から、まさに「国益」を考えて決断するというのが「熟慮」である。
 果たして、現首相は本当の意味での「熟慮」をしているのか、疑問である。

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