「骨髄バンク」の段(2001.8.19)


 今日は「骨髄バンク」のお話です。なにを突然言い出すのかと思われるかもしれませんが、昨日の24時間テレビで白血病の女の子のドラマがあったそうで(私は見てない)、某掲示板でそのことが書かれていたものだから、日頃思っていることをこの機会に書こうということです。

 こういうドラマを見て感動することは悪いことじゃあない。それはもちろんである。
 ただ、そうやって感動した人はたぶん、次の日にはそのことを忘れてしまっている。
 誰にだって自分の都合があるから、忘れてしまうことは仕方が無いことなのかもしれない。でも、それでも、もう少し他人の事を思いやることはできないのだろうか?

 白血病っていうのは皆さん知っているとは思うが、他人の骨髄を移植することで治療できる可能性がある。ただし、治ると言っても子供が産めなくなったり、免疫抑制剤を飲みつづけないといけないなどの制約があるらしい。だが、少なくとも死の恐怖から開放され、日常生活を送ることができるようになるのだ。
 だが、問題は骨髄は誰のものでも良いというわけではないということだ。「型」が合わない限り拒絶反応が起こってしまうからである。家族に会う人がいればよいが、いない場合、赤の他人でたまたま「型」の同じ人の骨髄をもらわなけらばならないのだ。
 しかし、現在の日本では登録者が少なすぎ、「型」が適合する人が見つからないまま死んでいく患者さんが数多くいる状況である。
 こういう現状はたぶん、一般常識だと思う。だが、それにも関わらず、登録者が満足行く数に達することはない。現代人の無関心という奴だろうか。

 ところで「献血」と「骨髄バンク」の決定的な違いはなにかお分かりだろうか。その違いというのは「他の誰か」がやってくれるから自分はやらなくてもいい、ということを期待できるかどうかということである。
 献血は自分がしなくても「他の誰か」がやってくれるかもしれないから、しなくても責任を感じることは無い。
 しかし、骨髄バンクに入らなければ、顔も知らない誰かが死んでしまうかもしれないのだ。「自分」以外に「型」の合う人間が他にいる確率は限りなく低い。「他の誰か」が代わりにやってくれることは期待できないのだ。
 私は助けられる人を助けないのは、罪には問われないにせよ消極的な殺人だと思う。そして、助けられるのが自分だけだとすればその責任の重さはなおさらである。
 飢えた人を助けるためにユニセフに募金するのもいいだろう。ただ、その前に自分にしか出来ないことをまずするべきではないだろうか。

 骨髄を採取されるときに麻酔を打たれたり、危険が無いとは言い切れない。だが、その程度のリスクが怖いならば車の運転などできない。
 皆が骨髄バンクに入りたがらないのは「メリット」がないからだろうか。
 だが、メリットはある。労せずして人一人の命を救うことができることなど他になかなかない。それに誰かを見殺しにしたという罪悪感も感じずにすむ。十分なメリットではないだろうか。

 私自身のことを少し書いておくと、私は登録が可能になった20歳の誕生日の2日後(だったと思う)に登録しに行きました。手続きはわりと簡単でした。
 私が白血病に関心をもったきっかけは宗田理の「ぼくらシリーズ」という小説に白血病の女の子がでてきて、死んでしまうということが最初だったと思う。
 だから、というわけではないですが、ドラマに感動するんだったら行動しなよって思ったりするわけです。
 ちなみに登録したものの、私の「型」に適合する患者さんは現在まで現われていません。それが良かったのか、それとも悪かったのかはわかりませんが。
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