「信教の自由と政教分離」の段(2001.5.10)
今回は「信教の自由と政教分離」についてのお話です。
直接のきっかけは「森首相の神の国発言は政教分離と個人の信仰の自由で権利の衝突が無いのか」という質問であるが、ちょうどゼミの発表も信教の自由だったのでこれを機にまとめみようかと思う。
以前受けた講義のノートを引っ張り出し、その他資料を参照しながら書いてます。
今回はあくまでも私の意見というよりも判例・学説を中心にしたお話です。それと、法律を勉強していない人でもわかりやすいようになるべく専門用語は使わない方針ですが、分からないところがあれば掲示板などで補足したいと思います。
なにから話したら一番分かりやすいのか自分でも良く分からないが、初めに「信教の自由」について説明しようと思う。
憲法20条に規定される「信教の自由」は23条の「学問の自由」と同じく19条の「思想および良心の自由」の範囲に含まれると一般に理解されている。なぜ両者が19条と別個に規定されているのか、それは両者が歴史的に最も弾圧を受けやすいものだったために例示しているのだとされている。
「信教の自由」の内容であるが、1.信仰の自由、2.宗教的行為の自由、3.宗教的結社の自由があるとされている。以下でその内容を検討する。
1.信仰の自由
これは“内心において特定の宗教的信仰を持つ自由及び持たない自由”であると解されています。宗教を信じない自由があるということは意外と知られていないので注意する必要があります。
この自由の効果としては、国家の宗教的中立性・寛容、国家による不利益付加の禁止、宗教的沈黙の自由が挙げられます。これらが保障されなければ信仰の自由に対する間接的な圧迫になるからです。なぜ“間接的な”であるかですが、心の中は誰にも直接変えることは出来ないので“間接的な”なのです。
国家の宗教的中立性・寛容の具体例としては国教樹立の禁止や特定宗教奨励の禁止が挙げられます。これらは政教分離にも違反していますが、それ以前に信仰の自由に反するのです。
不利益付加の禁止の具体例としては特定宗教の信者にのみ税金を課すなどが考えられます。
宗教的沈黙の自由の具体例は踏絵を強制されない等があります。
信仰の自由はそれが内心に留まっている限りでは絶対不可侵です。ただし、信仰の自由には信仰に伴う自発的な外部表明の自由や布教活動の自由も含まれますが、そのような内心に留まらないで外形的行為となった場合は21条の表現の自由の宗教的側面となり「内在的制約」と呼ばれる一定の制約が課されるのである。
なぜなら内心に留まる限りでは他人の権利と衝突することが無いが、外部で権利を行使すると同じく権利を有する他者の権利を侵害する可能性があるからである。12条に言うところの国民は権利を「濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ」ということである。
極端な例で言えば、オウムのように自分達以外は皆殺しにするという教義の宗教であってもただそれを信じるだけならばその人の自由であるが、実際に人を殺してはいけないのである。
判例を紹介すると、いつも教会の日曜学校に通っている小学生がいて、学校で日曜参観が行われたが日曜学校に行ったので欠席扱いになった。そこで欠席扱いを取り消してくれと裁判したが敗訴したというものがある。
宗教活動をするのは自由だが、公教育を受けさせることも憲法が要請するところであり、外形的行為となって現われる以上合理的根拠に基づく一定の制約を受けざるを得ないのである。
2.宗教的行為の自由
文字通り、礼拝、祈祷等宗教的行事への参加の自由である。また、参加しない自由も含まれる。
つまり、宗教はプライベートな自己決定にゆだねられるということである。
3.宗教的結社の自由
宗教は本質的に同じ信仰をもつものが集まって信仰を深めるという性質があるので結社の自由が必要なのである。
ここで保障されるのは団体結成、団体加入、脱退の自由である。
例えばオウムでいうと法人格は剥奪することはできても団体を解散させることはできないのである。
以上が「信教の自由」の概要である。
次に「政教分離原則」について解説する。
まず勘違いしている人が多いかと思うが、「信教の自由」は日本をはじめとする自由主義国家では普遍的なものだが、「政教分離原則」は普遍的なものではない。
「国教承認型」のイギリスは国教を定め、「政教同格型」のドイツ・イタリアは信教の自由は認めるが一定の範囲で憲法自身が特定の宗教に特権を与える制度をとり、「厳格分離型」のアメリカ・フランスは個人のプライベートに国家は介入しない方針をとっている。
つまり、どのような類型を取るかはそれぞれの国の歴史的状況に依存する部分があるのである。
そして日本の場合は戦前の軍国主義に利用された国家神道の思想を完全に否定するために「政教分離原則」を規定したのである。
「政教分離原則」の法的性質については「制度的保障説」と「人権説」の間で争いがある。
詳しい内容はかなり難解なので割愛するが、興味があれば自分で調べてみるのもいいだろう。
さて、政教分離の内容であるが、1.宗教団体への特権付与の禁止・政治権力の委任の禁止、2.国による宗教的活動の禁止である。
1.宗教団体への特権付与の禁止であるが、一定の優遇措置を与えると他の宗教への間接的な圧迫になるので禁止されるのである。
文化財保護のために補助金を出すのは宗教を理由とした補助ではないので許される。それに、逆に出さなければ宗教を理由とした不利益賦課になる。これは私学の助成金にも同じことがいえる。
2.国による宗教活動の禁止であるが、宗教的活動とされればそれは絶対的に禁止される。
問題は「その行為が宗教的活動に当たるか?」という点にある。
つまり、クリスマスツリーを飾るような宗教的意味を離れた習俗的行為ならば行っても構わないということである。
その基準であるが、現在の判例ではかなり緩い、というかいいかげんな基準が用いられている。その基準は「目的・効果基準」というものである。すなわち行為の目的が宗教的意義を有し、かつ行為の効果が特定の宗教を援助、助長、促進、または圧迫、干渉する場合のみ宗教的行為であるとされる緩い基準である。ちなみにこの基準の由来と考えられているアメリカの「レモンテスト」は世俗目的で、その主要な効果が宗教を促進し、あるいは抑制するものではなく、かつ政府と宗教との過度の関わり合いを促すものではないという3要件を全て満たさない限りは違憲であるという厳しいものである。
最近の事件で言えば、村おこしのために巨大観音像を作った町がこの目的・効果基準により違憲であるとされたのが記憶に新しい。
靖国神社の公式参拝に関しては仙台高裁と大阪高裁が「違憲の疑いが強い」と傍論で述べている(この訴訟自体は原告に「訴えの利益」が無いため判決は出なかった)。
逆に合憲とされた事件では工事の前に行われる地鎮祭に公金をだしたものがある。
さて、ここまでざっと信教の自由と政教分離に関して見てきたわけだが、森前首相の「神の国発言」はどう捉えることができるだろうか。
まず、彼自身の信教の自由であるがそれが存在することに関しては疑いが無い。ただし、聴衆のいる公の場で発言するという外形的行為に関してはその権利の行使に一定の制約が生じる。また、内閣総理大臣という立場上からその制約は一般人よりも強いものとなる可能性が高い。
次に彼の行為が「政教分離原則」に反するかであるが、公の場で「まさに日本は天皇を中心とする神の国」(というような表現だったと記憶している)と発言することは宗教的行為にあたるであろうか?
布教に類する行為として宗教的行為にあたるとする場合と宗教的行為にあたらないとする場合の二通りに分けて考えてみよう。
宗教的行為にあたるとする場合、判例に従って目的・効果基準で考えてみる。行為の目的であるが「日本は天皇中心の神の国」というイメージを浸透させようというねらいがあると見られるので一応肯定できよう。行為の効果であるが神道を援助・助長・促進させる効果も一応肯定できるだろう。
したがって厳格に基準を適用すれば政教分離原則に反すると言えよう。ただしこれはあくまで厳格に解した場合であって、「目盛りのない物差し」とも言われる目的・効果基準においては解釈次第で反しないとすることも不可能ではない。
宗教的行為にあたらないとする場合、および政教分離制度に反しないとされた場合は彼の発言は問題ではないのだろうか?
ここで思い返してもらいたいのだが、「信教の自由」の一部である「信仰の自由」の保障する内容として「国家の宗教的中立性・寛容」があるのだ。したがって国家の機関である内閣総理大臣が特定宗教を特別扱いするような発言をすることは許されないと見るべきである。
つまり「政教分離原則」に反するにせよ、「国家の宗教的中立性・寛容」に反するにせよ、森前首相の発言は彼個人の「信教の自由」の内在的制約に反するもので権利の濫用と言える。
最初の質問に対する答えとしては「確かに権利と権利はぶつかり合うが、森氏は内閣総理大臣という立場上、国家神道的な発言をすることを我慢することが憲法上要請され、発言することは憲法違反である」ということになるかと思います。