「戦前・戦後」の段(2001.5.31)


   「戦前」といったら普通「第二次世界大戦前」を指す。実に当たり前の話だがそれがわからない人もたまにいる。不思議なことだ。
 といってもそれは今回の話題ではない。
 論争というほどでもないが「関東大震災の時の報道をもって現在の朝日新聞を批判することは妥当か」ということで見解が分かれている。
 前提条件として第二次世界大戦中のジャーナリズムは異常だったということに争いは無い。

 さて、私としては同一性が損なわれていると見るのが妥当だと思うのだが、同一性があると主張している人の理論では「平常→異常→平常」だからどちらも異常な時期ではないから同じだということになるようだ。もちろん関東大震災当時のジャーナリズムが現在での意味での平常なジャーナリズムであったかどうかには大いに疑問が残るのだが、それを置いておいてもこの理論はおかしいと感じる。
 例えば「鹿鳴館をつくるなんて欧米におもねっている」と現在の日本政府を批判する馬鹿がいるだろうか?誰もがこんな主張を聞けば一笑にふすだろう。
 なぜこの主張がおかしいのか、それは明らかにその明治政府と現在の日本政府の間で同一性が損なわれているからだ。
 では、いつそれが損なわれたのだろうか?それは敗戦時と考えるのが一般的だろう。
 戦前の政府と戦後の政府の間で官僚の総入れ替えがあったわけではない。むしろその点では同じ組織と言っても過言ではない。だが、それでも戦前の政府と戦後の政府を同じと考える人はごく少数だろう。
 それはやはり「歴史的断絶」があったからではなかろうか。
 そしてそれは軍国主義の手先となったジャーナリズム全体にも言える事だろう。
 いくら「屋号」が同じだからといってそのまま「同じ」と考えることは妥当ではない。

 妙な例えだが「殺人犯の子供が親の遺産を継いだらその子供は殺人犯になるか」ということだと思う。殺された人の遺族が損害賠償を求めるなら遺産を継いだ子供は賠償金を支払わなければならないかもしれないが、子供が殺人犯になるわけではないのだ。
 この例えでは殺人犯の死が「歴史的断絶」にあたる。戦後の日本政府に賠償責任はあっても戦後の日本政府が戦争を起こしたわけではない。戦後の朝日新聞にしても関東大震災で誤った報道をしたわけではない。
 繰り返すが、異常な時期を経過し、一からやり直しになった敗戦によって既に同一性は失われている。
 戦前の過ちをもって戦後における批判をするのは大いなる筋違いというものであろう。

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