「憲法に関するある反論」の段(2001.5.4)


 今回のテーマは憲法に関する話題である。というよりあるHPの憲法批判に対する反論文のようなものである。
 さて、今から反論しようとする憲法批判の着眼点は「憲法は日本語としておかしいので変えるべきだ」というものである。以下で検討する。

 まず、「主語が統一されていない」という指摘。これは昔からある指摘で、整合性が無いのは確かである。基本的人権が外国人にも補償されることに争いはないが文言では「国民は」になっている場合があるし、22条の国籍離脱の自由は性質上日本国民に限られるが文言では「何人も」となっている。
 だが、後で述べるがこのことは特に問題ではない。

 次に、まだ主語の話であるが19条の「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」というのは人間が主語でないからおかしいという批判がある。そもそも人間が主語でない以前に主語自体が存在しないのであるが、どちらにせよこの批判は単なる勉強不足である。
 憲法が保障しているのは原則として「国vs私人」の関係における人権保障なので、この場合は主語が国であることは当然の前提なのである。
 当然に分かる主語を省略する技法は日本語の中に存在するので不自然ではないし、そのような主語を省略した表現は他の法律にいくらでもある(例えば民事訴訟法102条など)。

 さらに次の指摘であるが、7条の天皇の国事行為の中に「国会議員の総選挙の施行を公示すること」とあるけれど参議院は「通常選挙」であり、ありえない間違いだ、とずいぶん激しく非難しているがこれはほとんど言いがかりに近い的外れの批判である。
 おそらく「参議院は通常選挙」という知識は公職選挙法からのものであろうが、冷静に考えて欲しい。当たり前の話だが、法律よりも憲法の方が上位であり、文言が食い違っていればそれは法律が誤っているのである。第一、公職選挙法の施行は昭和25年で憲法施行の22年より後なのである。後で出来た法律の文言と食い違うから憲法がおかしいと言うのは議論として成り立たない。
 
 60条の予算うんぬんについての批判に至ってはどこがおかしいのかが理解できないので反論の仕様もない。

 さて、長くなりそうなので後回しにしたのだが、憲法の文言はあいまいな部分があるがそれはそれで意味があるという話をしておこう。
 ご存知だとは思うが日本国憲法は硬質憲法で非常に変えにくい。そこで重要なのが「解釈」という作業である。変化する社会に対してはそれにあわせて対応する必要があり、憲法自体を変えられない分は解釈によって補うのだ。したがって解釈の余地のないガチガチの文言だと時代遅れの文言になっても憲法を変えることも出来ない状況に陥りかねない、だからあいまいな部分も意味があるのだ。
 具体例としては自衛権があげられるだろう。当初の政府の見解では自衛権も放棄するとしていたが、それを憲法に明記しなかったがために解釈の変更によって自衛隊を造ることが出来たのである。

 最後になるが「憲法は日本語のお手本にならないといけない」と主張されているがそれは一つの考え方にすぎない。というよりも憲法を日本語のお手本と考えている人は少数派ではないだろうか?少なくとも私の知っている限りの人でそう考えている人はいません。

前のページ