「検定前報道」の段(2001.4.19)


 少々時代遅れの感もあるが、いろいろと掲示板で話したことを忘れないように書いておこうかと思う。
 そもそもの始まりは朝日新聞が「つくる会」の教科書の内容を検定が行われるまえに報道したことについて批判があるということについて私が疑問を感じたことにある。
 結論から言うと私は今回の朝日の姿勢を間違っているとは思わない。それは何故か。

 まず、批判する側の意見を要約してみよう。
1.韓国・中国の内政干渉を招いた。
2.検定委員に偏見を与え、公平な審査が出来なくなる。
3.なにより検定前に報道しないことは常識であり、朝日は非常識である。
 ―――こんなものであろうか。

 では、それぞれについて検討してみよう。
 まず、「韓国・中国の内政干渉を招いたか」である。ここで内政干渉の意義をはっきりさせておいたほうが良いだろう。こういう時は辞書である。「Book shelf」で調べた内容をそのまま書くと――
内政干渉:他国の政治・外交に口出しして、その主権を侵害・束縛すること。
――となっている。
 今回のケースで言えば、両国は強い不快感を示して日本政府に善処することを求めたにせよ、主権を侵害・束縛したとまではとても言えないであろう。
 外交においては発言しなければ無かったことにされてしまうので、両国がそのスタンスを示したことはいたって当然のことと考えられる。よってこの批判は当たらない。

 次に「検定委員に偏見を与え、公平な審査が出来なくなる」という主張である。
 これは一見とても正当な主張に思える。理由もしっかりしているし、因果関係も説明している。
 では、詳しく内容を検討してみよう。
 まず、検定委員に偏見が与えられるかどうかであるが、教科書内容について批判する記事を載せることが偏見を与えることになるのだろうか。内容自身についてその意見を発表するだけであるのなら偏見を与えることにはならないのではないだろうか。例えばその記事が「つくる会の構成員に前科がある」等の主張とは関係の無い批判であれば確かに偏見を与えるもので間違いである。しかし、その主張について議論を提起しているだけならば問題は無いのではないだろうか。
 さらに言えば検定委員会は合議制であり、その中立性が保たれるシステムになっている。
 ただし、それでもまだ検定前報道には一定の意義があるということは否定しない。
 だが、それだけで検定前報道が否定されるかというとそうではあるまい。
 法学をかじった者ならば誰でも知っている考え方に「利益衡量」というものがある。これは両立し得ない事のどちらかを選ばなければならない場合、双方の利益・不利益をそれぞれを選んだ場合にどうなるかを比較検討してより良い方を選択するというものである。
 それでは検定前の報道をすることのメリットは何であるか。それは端的に言うと自由と民主主義からの要請である。まず、検定が民主的なコントロールの元に行われることが期待できるという面がある。事前に内容が発表されていればあまりにも世論とかけ離れた結論が密室で決定されることが少なくなることが期待できよう。
 次に、思想の自由市場という観点からは議論を自由に戦わせることにより悪しき思想は自然に淘汰されるということが期待でき、それが自由と民主主義を奉じる国家の姿勢と言うものである。
 また、国民の「知る権利」も尊重する必要があろう。
 裁判においても公正な裁判をするには公判前の報道は無い方が裁判官に余計な情報が入らなくて良いのかもしれないが、現に報道は成されており、それで公正さを失ったとは一般に考えられていないことを鑑みても事前の報道はそれを行う意義があるものと考えてもよいだろう。したがって第二の批判もあたらない。

 最後に「常識だからダメ」という批判である。これはあえて言うなら「論外」である。
 確かに「常識」というものは思考の簡略化には大変有用である。常識が無ければいちいち行動の全てを考えて決めなければならないからである。
 しかし「常識」というものには落とし穴がある。古くはガリレオが「常識」の地動説に迫害され、新しくは地価は右肩上がりに上昇するという「常識」がバブルと共に消え去ったことを見ても明らかなように必ずしも「常識」は正しいとは限らないのである。
 それが正しいと信じる理由があるのならば「常識」は打ち破られるべきものなのである。
 常識は鵜呑みにするものではなく常に問いかけ続けるべき存在なのである。
 よって第三の批判もあたらない。

 以上の理由によって検定が行われる前に報道することはそれが悪意によるものでなく議論を提起しようとするものであれば否定する理由はないと私は考えるものである。

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