「愛と恋の違いについて」
「愛と恋の違いを知ってるかい?」
男は隣に座った女の瞳を見つめて言った。
「愛に勝ち負けはないんだけど、恋は先に好きになった方が負けなのさ。そしてどうやら僕は君に負けてしまったらしい」
男は女の手をとり、そっと何かを握らせた。
「――今夜、ここのホテルに部屋をとってあるんだ。もし君が恋を愛に変えてくれる気があるなら、来て欲しい」
そして男はスツールを下りると女を一人カウンターに残し去っていった。
女が手を開くと、そこにはルームナンバーのついたホテルの部屋のキーがあった。女は無造作にそれをカウンターの上に置いた。キーは間接照明の光を浴び、一瞬キラリと輝きを見せた。
女は目の前までカクテルグラスを持ちあげ、まるで答えがそこにあるかのように半透明の液体の向こう側を覗きこむ。
しばらく黙ってグラスを揺らしていた女が不意に口を開いた。
「ねえ」
しかし返事はない。店内に流れるゆったりしたジャズのメロディだけが女の鼓膜を震わせる。
沈黙を破り、再び女が呼びかける。
「ねえ、聞こえてるんでしょ?」
「わたくし、でございましょうか」
カウンターの向こうで黙ってグラスを磨いていたバーテンダーが渋いバリトンで答える。女は薄く笑った。
「他に誰がいるっていうのよ。それより今の話、どう思う?」
バーテンダーはグラスを磨く手を止めることなく、何の感情も表さずに淡々と答えた。
「わたくしどもの耳はお客様の会話が聞こえるようにはできておりませんので」
「――嘘ばっかり」
女はカクテルグラスを口元に運び、中の液体を喉に流しこんだ。そして空のグラスをタンと強めにカウンタ―に置いた。
「客の話を聞くのも、あなたの仕事でしょう?」
「お客様がそうおっしゃるのでしたら」
「そうおっしゃってるのよ、私は。いいから質問に答えてよ。あなたの目から見て、今の話はどうなのかしら?」
バーテンダーは表情を変えることなく、女の視線を受け止めた。
「愛と恋の違いについて、でございますか」
女は一瞬キョトンとした表情を見せたが、すぐに再び笑みを見せた。
「――そうね、それでいいわ。それであなたはどう思うの?」
「わたくしにはお客様の事情はわかりませんが、先程のお客様がお客様に恋してらっしゃるのは間違いないと思いますよ」
「――本当にそう思う?」
女の問いにバーテンダーは相変わらず無表情に答えた。
「ええ、先程のお客様は下心をお持ちのようでしたので」
すると女はクスリと声に出して笑った。
「それで、愛は真心だっていうわけね。面白い冗談だわ」
「それはどうも」
「別にほめてるわけじゃないわよ。でも、彼の心が真心じゃなくて下心だってどうしてそう思うの?」
「それは――」
女の問いに、バーテンダーは初めて逡巡らしきものを見せた。
「それは?」
女に促され、バーテンダーは磨いていたグラスを置き、重い口を開いた。
「こんなことを言うべきではないのかもしれませんが、先程のお客様が先程のセリフを耳にするのはこれで4度目でして」
「つまり、今まで少なくとも3人の女がここで同じセリフで口説かれたってわけ?」
「さようで」
「――あっきれた」
息苦しい沈黙が訪れるのではないかというバーテンダーの予想を裏切り、女はあっけらかんとおかしそうに笑った。
「ま、うすうすそういう奴だろうとは思ってたけどね。でなきゃあんなクサいセリフを真顔で口になんてできないだろうし」
女はひとしきり笑った後、真顔に戻ってスツールを下りた。
「あたし、もう帰るわ。この鍵、フロントに返すのお願いできるかしら?」
「かしこまりました」
バーテンダーにキーを預けカウンターを離れた女は、しかし、2、3歩歩いたところでふと立ち止まり、背後を振りかえった。
「そうだ、いい情報を教えてくれたお礼にあたしもあなたにいい事を教えてあげるわ。愛と恋の決定的な違いについてよ。聞きたい?」
「是非とも」
うなずいたバーテンダーに女はいたずらっぽくウインクした。
「みんな気づいてないみたいだけど――愛は音読みで、恋は訓読みなのよ」
<THE END>
あとがき
感想を書いてやっても良い