「屋上にて」

 もうだめだ。これ以上は我慢できない。
 祐一は今までに何度となく繰り返してきたつぶやきと共に屋上の扉を開いた。そしてゆっくりと校舎のへりの部分まで足を進める。放課後になってしばらく経つが、下校する生徒の姿もちらほら見える。しかし誰も祐一の姿に気づく者はいない。学校という檻から開放された生徒たちに校舎を振り返る理由などどこにもないのだから。
 ぎりぎりの地点まで来た祐一は眼下の風景を見下ろした。校庭では様々なクラブが部活動に汗を流し、明るく青春を謳歌している。だが、それは祐一とは縁のないもので、よりいっそう祐一の絶望を際立たせるものでしかなかった。
 あと一歩、あとたった一歩踏み出せば楽になれるんだ。
 祐一はごくりとつばを飲みこみ、ゆっくりと上靴を脱いだ。靴下にコンクリートの冷たさが痛く感じる。そして右足をそっと中空へと伸ばした。
 そして重心が左足から右足に移動しようかというその時、 
「無用心だな」
「!!」
 突然背後からかけられた声にぎくりと身をこわばらせた祐一は、反射的に踏み出そうとした足を下ろして声の方向に振りかえった。
 振りかえった祐一が見たものは、屋上へ出る階段を覆う四角い箱状の構造物の端に腰かけている少年の姿だった。入り口から見ると完全に死角になっているので祐一はその存在に気づかなかったのだ。
 少年は制服から見るとこの学校の生徒らしかったが、祐一には見覚えがなかった。たぶん他の学年の生徒なのだろう。少年は祐一に向かって唐突に話しだした。
「屋上にフェンスがないっていうのはまったく無用心な話だな。だけどそれは過去には誰もここから落ちたことがないという事実を暗示しているともいえる。人間ってのは痛い目に合わない限り反省しない生き物だからな」
 そこで少年は座っていた場所から重力を感じさせない軽やかな動きでストンと屋上へと飛び降りた。そして少年は祐一の方へ歩き出しながら、ニヤリと唇の端をゆがませた。
「で、君は栄えある第一号としてここから空に舞おうというわけだ」
「な、何だよ! 誰だよお前!」
 あせった祐一が叫ぶと、少年は祐一から4歩ほど離れた距離で足を止めた。
「俺が何年何組の誰々です、とでも名乗ったら君は安心できるのかい? 俺はただの通りすがりの者、それ以上でも以下でもないさ」 
 そして少年は淡々と言った。
「先にここにいたのは俺だから優先権を主張してもいいんだが、もし君が飛び降りるのに邪魔だって言うんならどこかに行くよ。君はどうしてほしい?」
「…………」
 祐一が何も答えられないでいると、少年は大げさに肩をすくめてみせた。
「――沈黙もまた答えなり、か。邪魔ものは退散することにするよ」
 きびすを返して立ち去ろうとする少年に祐一はやっとのことで声をかけることができた。
「ま、待てよ!」
 立ち止まり、振りかえった少年に祐一は尋ねた。
「お前、人が飛び降り自殺をしようとしてるのを見かけたのに……止めようとしないのかよ!」
 すると少年は眉をひそめて不審そうな顔をした。
「なんで俺が止めなきゃならないんだ?」
「なんでって……」
「どういう理由で君が死のうとしているかは知らないが、よくよく考えた上で自殺することを選んだんだろ? だったら他人の俺が口をはさむようなことじゃないさ。だいたい、自殺するのをここで止めたところで死ぬ原因が解消されるわけじゃないし、目の前で死なれると後味が悪いからどこか自分のいないところで自殺してもらいたいと思うほど感傷的でもないんでね」
「…………」
「それとも――君は自分の自殺を止めて欲しいとでもいうのかな?」
 図星だった。初めに少年の存在に気づかされた時、祐一は驚きと共にどこか安心も覚えていたのだ。そのことを明確に指摘されて祐一の中で何かが切れた。
「う、ううわああああああ」
 恥も外聞もなく声をあげて祐一は泣き崩れ、屋上の床にへたりこんだ。
 どれほどそうしていただろうか、とめどなく流れる涙も枯れ果てた頃、祐一が気配を感じて顔をあげるとそこにはしゃがみこんで祐一の視線の高さに合わせた少年の顔があった。
 少年はフンッと鼻で軽く笑うとおもむろに立ちあがった。
「よう、気が済んだかい」
「…………」
 無言のまま泣きはらした目で見上げる祐一に少年は肩をすくめ、再び腰をかがめ、今度はあぐらをかいてどっかと座り込んだ。そして祐一に厳しい視線を向けて言った。
「いいか、俺は君を救ってやることなどできないし、例えできたとしてもしてやるつもりもない。最初に言ったように俺はただの通りすがりだからな。ついでに言うと、俺はわざわざ他人の相談にのってやるほどお人よしでもないぜ」
「…………」
「それじゃあ俺はここが好きなんでね、昼寝でもさせてもらうよ。ただし――君が独り言を言うのは君の勝手だ。たまたま君の言葉が聞こえてきたとしても、それを止める権利は俺にはないしな」 
 それだけ言うと少年はごろりとコンクリートの上に横になり、まぶたを閉じた。
 これはつまり"話を聞いてやるから洗いざらい話してみろ"ということなのだろうか。祐一は戸惑いながら少年の顔を見た。しかし少年の表情からは本当に昼寝をしようというのか、それとも祐一の言葉に耳を傾けているのかはうかがい知ることはできなかった。
 そして祐一はぽつりぽつりと自分の身におきているいじめについての悩みやそのひどさを語り始めた。始めは断片的に言葉を選んでのことだったが、それはやがて感情のおもむくままに思い浮かぶ言葉をそのままに紡いだだけのものとなっていった。
 話しながら祐一は奇妙な解放感を味わっていた。今までには家族にも先生にも誰にも言えなかった事を、この名前も知らない少年には話しているという事実。話してもどうにもならないということは少年自身があらかじめ宣言した通りなのだろうが、それでも"そのことを知っている人がいてくれる"ということだけでも救いになるということを祐一は感じていた。
「――聞いてくれてありがとう……おかげで少しすっきりしたよ……」
 全てを語り終えた祐一は少年に礼を言った。すると、少年はゆっくりと目を見開き上体を起こして祐一を見た。
「ったく勝手に人の安眠を妨害しておいて、聞いてくれて、もないもんだ。それにどんな大層な理由があるかと思えばいじめが理由だったとはな。まったく馬鹿馬鹿しいにもほどがある」
「馬鹿馬鹿しいだって!」
 色めき立つ祐一に少年は人差し指をつきつけた。
「逃げる事は悪いことじゃない。だがそれは"最後には勝つ"ということが前提だ。君にしてもいじめが辛いなら逃げればいい。けど自殺は幸福になる可能性を放棄し、敗北を確定させることだ。違うかい」
「で、でも」
「例え結果的に勝つことができなくても勝つ可能性は留保しなければいけない。可能性がある限りどんなことだって起こりうるのに自分で勝手にあきらめて可能性を捨ててしまうのは愚か者のすることだ」
 少年の射すくめるような目に耐えかねて祐一は視線をそらした。
「だけど僕には逃げる場所なんて……」
 消えいりそうな声で反論しようとする祐一に少年は吐き捨てるように言った。
「だからそれが愚かだというんだ。一度君の知り合いが何人いるか数えてみなよ」 
「え?」
「親兄弟や親戚、近所の人、クラスメイト、いじめてくる連中――とにかく君が名前とか顔を知ってる人なら全員だ。そんな人が何人いるのか数えてみなって言ってるのさ」
「えっと……」
 祐一は少年の迫力に言われるがままに知っている人間の顔を思い起こしてみた。
 少し経って、少年が問いかけた。
「どうだ、数え終わったか?」
「うん」
「それじゃあ聞くが、100人より多かったか?」
 祐一はうなずいた。ざっとではあるが、それぐらいはいるはずだ。
「それじゃあもう一度聞くが、1000人より多かったか?」
 今度は祐一は即座に首を横に振った。一度も会話したことのないクラスメイトを勘定に入れたとしてもそんなにはいない気がする。それどころかその半分の500人でさえ怪しいぐらいだ。
 すると少年は大きくため息をつき、陰険な笑みを顔に浮かべた。
「やれやれ、やっぱりか。まあそんなことだろうとは思っていたけどな」
「……どういう意味だよ」
 祐一が問いかけるとふいに少年は立ち上がって校舎のへりまで歩いていった。そこで振りかえって祐一に言った。
「来な。君が愚かだという理由を説明してやるよ」
 祐一が少年の隣まで歩いていくと、少年は校舎の外側を向いたので祐一も合わせて外側を向いた。相変わらず校庭ではいくつかのクラブが活動しているが、もう下校時刻が近づいているからか片付けを始めているクラブもあるようだった。
「この町にどれだけの人間が住んでいるか知っているか?」
 だしぬけに少年は言った。
「どこにでもあるちゃちな地方都市だが、統計によると12万人が住んでいるらしい。と、するとだ。ここから見える風景にはざっと1万人ぐらいの暮らしがあるんだろうな」
 少年はそこでようやく祐一の方へ顔を向けた。
「こっから見える場所だけでも君が今までに出会った人の10倍以上の人がいるんだ。"逃げる場所がない"だなんて勝手に決めつけているが、君はいったい何を知っているつもりになっているんだ? 家と学校を往復しているだけの毎日だと気づかないのかもしれないが、世界ってのは無限に広がっている。どこかにそのまんまの君でも受け入れてくれる場所がないとどうして言いきれるんだ」
「どこかに僕を受け入れてくれる場所が……」
 祐一は再び校舎の外側へ目を向けた。夕陽に何もかも赤く染められたその風景は、今まで何度も思いつめて屋上に来る度に見ていたはずなのに、今はなぜだか見知らぬ場所かのように見え、その大きく広がる雄大な風景は祐一に自分の存在の小ささを感じさせた。そして小さいがゆえに、どこかに居場所があるかもしれないという少年の言葉を祐一は信じられる気がした。
 二人はしばらく黙って赤い町並みを並んで見ていた。奇妙な静寂が訪れ、眼下で部活をしている生徒たちの掛け声だけが時間が止まっていないことを証明していた。
 そして祐一は静寂を破ってぽつりとつぶやいた。
「君は――ひどい奴だな」
「そうかい」
 気のない返事をする少年の方を祐一は向いて、
「だって何も僕の周りの状況は変わってないのに、それでも僕にまだ何とかやっていく気にさせるなんて残酷なことを平気でするんだ。本当、君はひどい奴だよ」
 そう言う祐一の顔にはこの屋上に来てから初めての笑顔が浮かんでいた。長らく笑うことを忘れていたせいかその笑みは少しぎこちないものだったが、それでも屋上に通じる扉を開いた時と比べれば別人のように生気に満ちていた。
 少年は祐一の方を見もせずに答えた。
「自殺する気がなくなったのは君の勝手だ。それを人のせいにするのはやめてくれないか」
「いや、やっぱり君のせいだよ」
 言いながら祐一はゆっくりと上靴を履いた。その時祐一にはもう二度とここで上靴を脱ぐことはないだろうという予感がした。
「僕は――帰るよ。君はまだここに残るのか?」
「ああ、君と一緒に帰る理由はないしな」
 少年のそっけない返事に祐一は苦笑いを浮かべ、厳しい現実への入り口である屋上の扉へ足を向けた。
 そして祐一は2、3歩歩いたところで足を止め、ふと思いだしたように少年の方を振りかえって尋ねた。
「最後に、一ついいかな? 君の名前を教えてくれないか」
「最初に言ったろ、俺はただの通りすがりで名前なんてなんの意味も――」
「それでも、知りたいんだ」
 祐一は少年にみなまで言わせずに重ねて問いかけた。
 すると少年はようやく祐一の方へ振り向いた。夕陽を背にした少年は黒いシルエットとなってその表情をはっきり見ることはできなかったが、祐一には少年が皮肉っぽい微苦笑を浮かべているように感じられた。
「それでも知りたい、か。わかったよ、君がそこまで言うのなら教えてやるよ。俺は――」
 そこで一旦言葉を切り、少年はたっぷりと間をおいてから信じられない一言を告げた。
「俺は"作者の代弁者"さ」

<終>

あとがき(というか謝罪)

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