ショート・ショート 前の車
「前の車を追ってください!!」
乗り込んできた乗客に突然言われ、中崎は驚いた。
タクシーの運転手になって二十数年、こんなことを言われるのは初めてだったからだ。
実を言うと刑事物のドラマや二時間物のサスペンスなどでこういうシチュエーションを見るたびに「自分にもこういうことが起こらないものか」とあこがれていたのだが、実際に言われてみると喜びよりも困惑が先に立つ。
「前の車を追うんですか?」
思わず問い返した中崎に乗客は叫ぶように言った。
「そうです、いいから早く出してください!!」
中崎は慌てて車を発進させた。
「あの白いセダンですね」
「そうよ」
幸い次の信号は赤だったので目当ての車にはすぐに追いつくことが出来た。
落ち着いた中崎はバックミラー越しに乗客の姿を確認した。
年のころは三十歳前後の女である。すこしきつい顔立ちだが、美人だ。シートを握り締め、厳しい視線で前の車を睨みつけている。
「お客さん、なんで前の車追ってるんですか〜」
中崎は尋ねた。
「いいからちゃんと前の車見失わないで運転してください」
女はそっけなく言った。どうやら理由を話す気はないらしい。
信号が青になったので車を発進させながら中崎は考えた。
何故この女は前の車を追うのだろうか。この女は殺人犯を追う女刑事―――どうも違う気がする。テレビで見た限りでは刑事なら警察手帳を示すはずだ。
再びミラー越しに女を見た中崎は女の目に憎しみの色を見てハッと気付いた。
―――なるほど、旦那か恋人か知らないが浮気の現場を目撃してちょうど来たタクシーに飛び乗ったといったところか。
中崎は自分の発想に満足した。まちかねたシチュエーションではなかったが、他人の不幸とは基本的に面白いものである。
それからも何度か中崎は女に話し掛けたが女はまともに返事をせず、自然と会話はなくなってしまった。
車は次第に都心を離れて郊外へと向かっていった。
「どこまで行くんですかねぇ」
「私に聞いてもわかるわけないでしょ」
何度目かの同じやりとりをしていると前の車はラブホテルに入っていった。
―――俺の予想通りだ。
中崎は内心ほくそ笑んだ。
「お客さん、どうします」
中崎は女に尋ねた。
「―――中の駐車場に入ってください」
女は少し考えた後、中崎に言った。
中崎が車を地下の駐車場に入れると追跡していた車が目に入った。乗員はどうやら既にホテルの中に入っているようで車はもぬけの空だった。
「ここでいいわ」
女はそう言うと財布を取り出してメーターの料金を支払い、車を降りた。
いよいよ修羅場だな。ここは一丁見物としゃれこむか・・・中崎が不謹慎な考えに浸っていると、女は予想に反してホテルの入り口ではなく例の車のほうに歩いていった。
そして女はハンドバッグからキーを取り出し、例の車に乗って出て行ってしまった。
中崎はなかばあっけに取られてそれを見ていたが、やがて笑いがこみ上げて止まらなくなってしまった。
くっくっくっ、旦那さん、浮気が終わったら車が無くなってて、やっと家に帰ったらそこに車があるのを見たら驚くだろうな〜、その瞬間の顔を見てみたいもんだ。
そして中崎は上機嫌でその日の営業を終え、会社の営業所へと帰った。
翌日、中崎はいつものように車の中で昼寝をしていた。そしてつけっぱなしのカーラジオが誰も聴く者のいない車内に流れていた。
「――では、次のニュースをお伝えします。昨日午後5時ごろ六甲銀行夙川店を襲った二人組みが先ほど逮捕されました。容疑者は小池康昭45歳、小池松子43歳で動機は借金の返済に困ってのことだと供述している模様です。なお、奪った現金約4000万円は逃走用に使った盗難車に載せていたところその車を盗まれたと供述しており、警視庁は事実関係について厳しく追及する方針です――」
<終>
あとがき
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