「話せばわかる」
ブチッ、不吉な音を橋本が聞いたと思ったその瞬間、突如として踏みしめていたはずの地面が失われた。
正確に言えばそれは地面ではなく、古い木の吊り橋だった。つまり、橋を渡っている途中、一方の綱が切れたために橋本はねじれた吊り橋から投げ出されてしまったのだった。
「うわあああああああ」
反射的に無事なもう一方の綱を掴もうとした手はむなしく空を切り、橋本は物理法則に従い崖下へと落ちようとしていた。
だが、その時強い衝撃が伸ばした手に伝わり、橋本の体は落下をまぬがれた。
放心状態の橋本が見上げると、そこには一緒に旅行に来ていた親友がしっかりと橋本の腕を掴んでいる姿があった。
「宮沢!!」
「だ、だいじょうぶか、橋本?」
宮沢は額に汗を浮かべ、問いかけた。無事な側の綱に足をからめ、左手は綱をにぎり、右手一本で橋本の体を支えている状態だ。橋本の目から見ても、長くはもちそうにない。
とりあえず助かった橋本は思わず下を見てめまいを感じた。この高さから落ちて無事にすむ人間がいるなら奇跡以外の何者でもない。おまけに本来流れているはずの川はこのところの晴天続きで涸れていて、ゴツゴツした岩が剥き出しになっている。悪くしなくても即死だろう。
急がなくてはならない。橋本は宮沢に言った。
「あ、ああ、助かったよ。なあ、なんとかそっちから引っ張りあげてくれないか」
橋本の言葉に宮沢は右腕に力をこめて橋本の体を持ち上げようとした。だが、不安定な体勢の上に人間の体はあまりに重く、わずかに上下に揺らすのが精一杯であった。
「……すまない。僕の力じゃこうやって支えるのが限界みたいだ……橋本、自分で這いあがってくることはできないのか?」
「俺もできることならそうしたいんだが、手に力が入らないんだ。どうやらさっきのショックで関節が外れちまったらしい」
「そうか……」
「…………」
この状況、どうしよう? 期せずして二人の胸に同じ考えが去来する。
どうしようもないなら、二人とも落ちるよりは一人でも生き残った方がマシだ。
宮沢の目に浮かんだ自分への哀れみに満ちた光に気づいた橋本はあせった。何しろ恐怖のせいで痛みは感じないにせよ、関節が外れてまったく力の入らない手を捕まえてもらっていることだけが現在唯一の命綱なのだ。完全に宮沢に生殺与奪の権利が与えられていると言っていい。
「ま、待てよ、宮沢、落ちつけ、きっと何か方法があるはずだ!」
「でも、このままじゃ……」
「お、おい、俺達は親友だろ? 親友のことを見捨てるっていうのか?」
「親友?」
一瞬、宮沢の表情に浮かんだ逡巡を橋本は見逃さなかった。
「そ、そうだ、俺達は親友だろ。小学生の頃から今まで仲良くずっとやってきたじゃないか」
「…………」
「頼むよ、宮沢、今はお前だけが頼りなんだ。簡単にあきらめないでくれ」
「……橋本」
懇願する橋本に宮沢はこんな状況には似つかわしくない穏やかな口調で語りかけた。
「な、なんだ?」
「たしかに僕達は親友だった」
「そ、そうだ、そうだとも」
必死でうなずく橋本に宮沢は淡々と告げた。
「僕達は何をするのも一緒だった……そして、好きになった人も同じだった」
宮沢の言葉に橋本の顔がギクリとこわばったが、それに全く気づかないかのように宮沢は話し続ける。
「結局、明美は僕の妻になった。橋本、お前も最後には僕と明美の仲を認めて祝福してくれたよな」
「あ、ああ……」
「けど、最近僕は気づいてしまった。この世で一番愛する妻が浮気をしていることに。しかも相手は僕の一番信頼していた親友だったんだ。僕は正直、どうすればいいのかさっぱりわからないんだ」
恐怖に駆られた橋本は絶叫した。
「待ってくれ! 話せばわかる!」
「……そうかもしれないな」
次の瞬間、宮沢の手を離れた橋本は悲鳴の尾を残して崖下へと落下していった。
やがて眼下に赤い花が一つ咲いたのを見た宮沢はひとりごちた。
「なるほど、僕は最初からこうしたかったのか」
<終>
あとがき
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