「頭髪の脱毛現象に関する進化論的考察」

 曰く、大学とは学問の府であるという。
 そこでは熱意溢れる若者達が今日も議論をかわし、飽くなき探究心を満たそうとしている。
 そしてここ学生食堂の一角にも一組の男女の姿がある。もっとも、この二人の場合の熱意にはかなりの温度差があるようなのだが――
「だから、あたしは世間のハゲに対する誤解を払拭すべきだと思うのよ」
 知美の言葉に箸を止めた哲夫は、ツルリと食べかけの麺をすすりあげて箸を丼の上に置いてから答えた。
「毎度のことだけど、突然だな。だいたい前フリも何も無いのにだからとか言われても困るし」
 向かいの席に座った知美はレンゲで丼の天津飯を一口大に切り崩しながら不満気に言った。
「突然じゃないわよ。むしろ遅すぎたと言ってもいいぐらいなんだから――まぁ、気付いたのはついさっきだけど」
「それを世間一般では突然って言うんだって。それよりハゲがなんだって?」
「そう、ハゲよ。今こそ迫害されているハゲに光を当てる時なのよ」
 知美は我が意を得たりととばかりに大きくうなずいた。突然云々の哲夫の指摘は完全に無視だ。哲夫には時々、知美には本当に『都合の悪い事の聞こえない耳』がついているのではないかと疑いたくなる瞬間がある。
「今の世の中ではハゲは迫害されてるけど、それは大きな誤りだわ。本来ハゲは賞賛されるあこがれの対象であるべきなのよ」
 さっぱり訳がわからない。
 哲夫のそんな思いを表情から読み取ったのか、知美は得意げに胸をはった。
「ふふん、まだわかってないようね。いい、まずは原始人の姿をイメージしてみてよ」
「――イメージしたぞ」
「それじゃあ今度は現代人の姿をイメージしてみて」
「――イメージしたけど」
「じゃ、どう違う?」
「どう違うって……」
 骨格から脳の容量から衣服に至るまで違うところだらけなんだが。猿よりは現代人に近いよね、ぐらいしか言い様がない。
 言いよどんだ哲夫に知美は不満気な表情になった。
「こんだけ言ってまだわかんないの? 減ってるでしょ、毛が」
 ああ、なるほど。
 哲夫は納得すると同時にひどい脱力感に襲われた。知美が言おうとしている事に想像がついてしまったせいだ。そして知美は予想通りの言葉を続けた。
「つまり、人は進化の過程で毛をどんどん薄くしていっているのよ。だから体毛だけでなく頭の毛まで薄くしているハゲの人は進化の極み、人類の進化の最前線なのよ!」
 それで行きつく先はリトルグレイってか。ダーウィン先生が草葉の陰で泣き崩れそうな大雑把な理論を展開した知美は一人で勝手にヒートアップしておもむろに立ちあがる。
「そう、ハゲこそは人類のエヴォリューション・リーダー! 不当なマイナスイメージを払拭してハゲのレコンキスタ(失地回復運動)を行うべきなのよ!!」
 周囲の学生達が何事かと目を見はってこちらを注目してきたのでとりあえず哲夫は愛想笑いを浮かべて何でも無いことをアピールし、なだめるように知美に言った。
「――わかったから座ってくれ。恥ずかしいから」
 哲夫の言葉に知美はおとなしく再び椅子に座った。ただし興奮のせいで鼻息はまだ荒いままだ。そしてうっすらと紅潮した顔で哲夫に言った。
「ようやくわかったようね。それで、あんたも手伝うでしょ? ハゲの復権」
 やっぱりそういう事になるのか。予想はしていたので驚きはしないが、どうして毎度毎度こうなってしまうのかと世の中の理不尽さに対して恨みたくはなる。
 哲夫は慎重に言葉を選びながら知美に言った。
「まず手伝うとかどうとかの前に、ハゲが進化の証だっていうのは違うんじゃないかと思うんだけど。あれってホルモンのバランスとかそういうのが原因だろ」
「いつだって新しい説は最初は否定されるものよ。ガリレオ・ガリレイにならって言うなら『それでもハゲはニュータイプ』ってとこかしら」
「微妙に語呂が悪いし……そうじゃなくて、その説明だと、ハゲてるのはほとんどが男だから女の人は進化が遅れてるってことになってしまうけど、それでいいのか?」
「うっ……」
 哲夫の指摘に知美は視線を宙にさまよわせた。
「えっと、それはアレよ――『髪は女の命』だからよ!」
「髪は女の命って……」
 それってCMのキャッチコピーか何かじゃなかっただろうか。哲夫が記憶を呼び起こしていると、知美はうなずいて一気にまくしたてた。
「そうよ、直立歩行するに従って胸が進化したように、女にとってセックスアピールは進化の再優先事項! 髪が女の重要なモテ要素である以上、進化の過程において女だけハゲないというのは当然のことなのよ!」
 どう考えても苦しまぎれに言った事をあっという間に理論武装してしまった。これも一つの才能といっていいのかもしれない。あと、昼間っからセックスアピールとか堂々と口にしないで欲しい。
 哲夫は軽くため息をついた。たぶん、ここで知美の理論に対して「それは一つの可能性を提示しただけでホルモン原因説が間違いだという反証にはなっていない」とか否定的なことを言ってもなんだかんだで強引に理論を認めさせられるだけだろう。ここは話を合わせて、無難な着地点を探す方がベターだ。どうせ次の事に興味が移ればすぐに忘れてしまうだろうし。
 わりとすぐに結論の出た哲夫は知美に言った。
「オーケー、わかったよ。で、そのハゲの復権運動っていうのは具体的には何をするんだ?」
「――さあ? 何したらいいと思う?」
 いくらなんでも無責任すぎるだろ、それは。喉まで出かかった文句を飲みこんで哲夫は無理矢理に微笑んだ。
「そうだな――とりあえず自分自身がハゲを尊敬するようにすることから始めるっていうのはどうかな? まずは自分自身が率先して皆の見本にならないといけないと思うし」
 それにこれなら実際には何もしないで済むし。
 哲夫の心の声が聞こえたわけではないだろうが、知美は顔をしかめて不満そうな表情をした。
「え〜、そんだけぇ。もっとなんかないの?」
「今の状況だと上っ面だけ『ハゲは素晴らしい』って言っても、かえってハゲを馬鹿にしてるように思われるのが関の山だよ。それぐらいハゲのマイナスイメージは根深く浸透してるんだ。だから、ここは心の底からハゲを尊敬することから始めなきゃいけないんだ。要は今は雌伏の時、来たるべきハゲのレコンキスタだっけ? その日のために基礎を固める時期なんだよ」
 心にも無いことをよく言うよ。哲夫は内心で苦笑した。知美は哲夫の言葉に少し悩むそぶりをした後、重々しくうなずいた。
「そういうことならしょうがないわね。本当ならヅラの人に『ハゲを隠す必要なんてない!』って言ってめくって回るぐらいのことはしたいとこだけど、まだ時期尚早みたいね」
 早すぎるっつーか、そんなことして怒られない時期は一生来ないと思うけどな。哲夫は内心のツッコミをおくびにも出さずににこやかに同意した。
「うん、ちょっとばかし時期が早すぎるみたいだ。今はまだ時代が追いついてないんだよ」
 すると知美は両手を机について勢い良く立ちあがった。
「よし、そうと決まればさっさと教室に行くわよ。次の講義は森下教授だからハゲをリスペクトするあたしとしては最前列の席を確保しなきゃいけないわ!」
 森下教授は、見事なまでのてっぺんハゲだ。横側と後ろの部分はちゃんと毛が生えそろっているのに頭頂部には何も無い。たしかあんな感じの恐竜がいたよなと最初見た時に思ったものだ。ちなみに知美は最初見た時には「いや、アレには『おい、山岡!』って甲高い声で叫んでもらわないと困るでしょ」と言っていたのだからずいぶんと待遇が変わったものだ。
 哲夫は呆れて苦笑しつつ、知美に言った。
「まあ、ハゲをリスペクトするのも最前列の席を確保するのもいいけど、とりあえず昼飯を食べてからにしようよ」
「あれ? あんたまだ食べてなかったの? 食べるの遅いわね」
 見ると、いつの間にか知美の前の丼は空になっていた。それに対して哲夫の前のラーメンはほとんど減っていない――というか、むしろ増えている。
「しょうがないわね〜。先に行ってるからあんたも早く来るのよ」
 知美は大げさに肩をすくめて見せた後、肩に鞄を引っ掛けると両手で食器を載せたトレイを持ち上げた。そしてそのまま振り返る事もなく足早に食器返却口へと立ち去っていった。
「――食事が進まなかったのは誰のせいだよ」
 一人残された哲夫はつぶやいてラーメンを一口すすった。
「マズ……」
 人類の進化形がハゲかどうかはともかくとして、汁をすってのびた麺がぶよぶよした小麦粉の固まりに進化することは確からしかった。

<THE END>

あとがき

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