「脂肪遊戯」

「アチャアッ!」
 リーの放った上段蹴りが男のこめかみを捕らえ、男はどうと大きな音を立ててその場に倒れ伏した。
 軽くステップを踏んで男の逆襲に備えるが、どうやらもう当分の間立ちあがってくる気配はないようだ。リーはようやく構えを解き、大きく息を吸って呼吸を整えた。
「これで、三階か……」
 誰に言うでもなくつぶやいたリーは部屋の奥に見える薄暗い階段を見やった。どういう因果かこの五重塔を、それも一階に一人ずつ待ち構えている敵を倒しながら、登っていかねばならない羽目になったわけだが、ここまでの敵はいずれも強敵ばかり、もはやリーの体は悲鳴を上げ始めていた。
 だが、いかに困難な道とはいえ逃げることは許されない。リーは軽く首を左右に振り、新たな敵の待つ階段へ足を向けた。
 階段は今までのものと同じ木造で、少しかび臭く、一歩踏みだすたびに音をたててきしむ。塔自体がそれほど広いわけではないので急角度な上に幅が狭く圧迫感がある。そして折り返してさらに登った先には扉。覚悟は、できている。
 リーが蹴破った扉の先に、その男はいた。
「ぶぇへぇへぇ、よくぞここまで上がって来れましたね」
 なんだ、なんなんだこいつは。薄ら笑いを浮かべている目の前の男の姿にリーは戦慄を覚えた。
 男の身の丈はリーを頭一つ上回る。かなりの巨漢といってよいだろう。だが、重要なのはそんなことではない。恐るべきことに目の前のこの男は、縦と横の幅が同じなのだ。およそ人間の体型としてありえないほどの太り方だ。おまけにサイズの合う服がないためか、上半身裸という異様な風体だ。
「ほっほっほっ、私の姿に驚いていますね? でもじきにもっと驚くことになりますよ」
 男が笑うたび、上半身の肉がぶるぶると波うつ。一体何を食べ、どんな生活をすればこうなるというのか。
 リーが戸惑っていると、男は笑うのをやめ、少し身をかがめた。
「ここまで来れたことはほめてあげますが――ここでお死になさい!」
 男はその姿からは想像もできない俊敏さでリーに向かって突っ込んできた。まさに肉の壁。まともに食らえば圧死すらありうるだろう。リーは反射的に構え、男にカウンター気味の中断蹴りを放った。
「ホアッ!」
 リーの爪先は狙いを違わず男の水月に吸いこまれるように突き刺さった。
「!?」
 しかし、その瞬間リーの顔色が変わった。確実に急所を捕らえたはず――だがまったく手応えというものがない。暖簾に腕押し、ぬかに釘という言葉があるが、それと同じく込めた力が完全に吸収されてしまっている。
 リーが驚きから我にかえると、男がそのボンレスハムのような腕を振り上げ、まさに張り手をしようとしているところだった。
 間一髪、リーが足を男の腹から引きぬきバックステップで距離をとると同時に一瞬前にリーがいた場所を男の腕が通りすぎる。その時に生じた拳風がリーの短い髪を揺らした。危ないところだった。
 男はリーにかわされてしまったにも関わらず、うれしそうに腹を揺すらせた。
「ほっほっほっ、さすがにこの階まで来ただけのことはありますねぇ。大抵の人はさっきの一発でお仕舞なんですが。ご褒美に良いことを教えてあげますよ」
「…………」
 リーが無言のままなのを見て取った男は、大げさに肩と思われる肉塊をすくめてみせた。
「せっかく良いことを教えてあげるというのにつれない態度ですねぇ。まあいいでしょう、良いことというのは私のあだ名ですよ。私のあだ名が何というか知っていますか。『拳法殺し』というんですよ。私の分厚い脂肪の前ではいかなる拳法も無力なのです」
 そして男はニタリと笑みを浮かべ、再び身をかがめて構えをとった。リーもそれに合わせて立位中正の基本の構えをとる。
 男が、叫んだ。
「それがわかったら――おとなしく殺されなさい!」
 同時に男はリーに向かって突進を開始する。しかし、今回リーはそれを避けず、正面から迎え撃つ。
「アタッ!」
 リーの繰り出した下段蹴りは男の脛を確実に打ち、男は自重を支えきれずに体勢を崩す。そして男の無防備な顔面をリーは全身の力を乗せた拳で殴りぬいた。
「ホウアッチャアッッ!!」
 リーの発した怪鳥音をバックに、男は盛大に鼻血を吹き上げながらゆっくりと仰向けに倒れていく。
 そして男は、重い衝撃音とともに床にめりこみ、その巨大な体をピクピクと無様に痙攣させた。やはり脂肪で覆われていない部分に関しては普通の人間と変わり無かったようだ。
 色々な意味で恐ろしい奴だった……
 呆れと感心の入り混じった複雑な気持で、もう自力で起き上がることもできそうにない男をリーは見下ろした。
 だが、ここは自分にとってのゴールではない。まだ自分にはやらなければならないことがあるのだ。感慨にひたっている場合ではない。リーは部屋の反対側の奥に見える最上階へ通じる階段を見やる。
 リーは数歩階段へ向けて歩を進めたが、それでもどうにも気になって倒れた男の方へ振り向いた。
「なんと言ったらいいのかわからないが……ひとつだけ言わせてくれ」
 そしてリーは言った。
「あんた、どうやってこの階まで上がったんだ?」

<終幕>

あとがき

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