「美女と柳生〜十兵衛あばれ旅〜」
日光道の半ば、栗橋宿近くの山中で一人の老武士が道を見失っていた。年の頃は六十の坂を越えたあたりであろうか、額にはしわが深い年輪として刻まれている。髪が真白なのは年齢故であろうが、その色が左目の上の黒い眼帯を際立たせ、見る者に強い印象を与える。
武士の名は柳生十兵衛。かつて徳川家の剣術指南役を務めた剣豪だが、現在は伊賀の道場で時折門弟を指導するだけの楽隠居の身だ。今はふと思いついて東照宮に参拝した帰りなのだが、折りから立ちこめてきた濃霧にいつの間にやら街道から外れてしまったようなのだ。さらにはさ迷い歩く内に日も沈み、幸いちょうちんの用意はしていたものの、もはや数尺先の風景さえはっきりしない始末だ。
「ふむ、困ったな。やはりあの時茶店の親爺の言葉をきいてふもとで宿をとるべきであったか」
十兵衛はつぶやいた。実は山に入る前に立ち寄った茶店で今の時間は霧が出るから明日の朝に峠を越える方がよいと忠告されていたのだ。しかし十兵衛は無駄に足止めすることを嫌い、そのまま山に入ったのだ。それは茶店の主人が霧の中で狐に化かされた人間が何人もいると付け加えたことを客を引き止めるための方便だと思ったからでもある。が、霧が出るというのは少なくとも嘘ではなかったらしい。
――まさか狐に化かされるということまで現実になることなどはあるまいがな。
十兵衛は自分の考えに苦笑した。たかが畜生に何が出来るわけでもない。狐にばかされるなどというのは精神の未熟な者が幻を見ただけの話だ。こんな下らないことを考えるとは自分もこの状況に不安を感じているらしい。我ながら情けない限りだ。
と、その時木々の隙間のはるか奥に光が揺らめくのが見えた。それこそ狐火ででもなければ人の居る証だ。十兵衛はその光を目指して足元に注意しながら慎重に歩を進めた。
歩くにつれ、だんだん光は大きさを増していく。遠目にはかがり火かと思ったものは、実はそうではないことに十兵衛は気づいた。もう明かりは見た目にはかがり火ほどの大きさになっているが、それはまだまだ先にあるようなのだ。どうやら光の源はずっと大きいものらしい。
さらに進むと、突然森が途切れ、平らな草原が現れた。そしてその中央に位置する件の光の正体を知ると十兵衛は驚いた。
「これは……」
十兵衛の眼前に出現したものの正体は巨大な館であった。その館の部屋部屋からもれる明かりがこうこうと周囲を照らしていたのだ。
それにしても館はひどく風変わりなものであった。この山中に存在するということだけでも異様だが、その上建物全体が石で作られている。しかも石垣のような自然石ではなく長方形に整形された石を積み上げているらしい。このような建物を十兵衛はついぞ見たことがなかった。いずれどこかの大名なり旗本なりが作った山城なのであろうが、作り方が見当もつかない。
ともかく明かりがついているということは人がいるということだ。この霧でもあるし、今晩は泊めてくれるかもしれぬ。悪くとも街道へ戻る道ぐらいは聞けるはずだ。十兵衛は我に返ると建物の周囲をぐるりと回って入り口を探した。するとどうやら建物全体は長方形をしており、十兵衛が最初に見た長い方の辺に位置する観音開きの門のようなものが唯一の入り口らしいことがわかった。門を玄関に直接つけるとはつくづく奇妙な作りだ。
十兵衛は大きな木製の扉を拳で叩き、中に呼びかけた。
「たのも〜!」
しかし返事はない。十兵衛は心もち先ほどより乱暴に扉を叩き、再び呼びかけた。
「た〜の〜も〜!!」
だが、やはり返事はなく、周囲はしんと静まり返っている。
妙だな。十兵衛はいぶかしんだ。
これだけの城なのにまるで人のいる気配がない。城の規模からすると少なくとも持ち主は数千石以上の扶持があるはずだ。であれば、仮に主人がそこに住んでいないとしてもある程度の奉公人はいるのが普通ではないだろうか。それに第一、明かりがついているのだから人がいないはずはないのだ。
十兵衛はものは試しと扉に付いていた巨大な鉄の輪でできた取っ手を引いてみた。すると、きしむような音を立てながらも扉は思ったより簡単に開いた。どうやら鍵やかんぬきはかかっていなかったらしい。
「無用心な……」
つぶやきながら十兵衛は館の中へ足を踏み入れた。どうやらそこは広間らしかった。らしかった、というのはその空間は十兵衛の知識の範疇になかったために判断がつきかねたためだ。
城は外見だけでなく中身もまた、奇妙なものだった。十兵衛の入ったその場所は2階まで吹きぬけとなっており、天井には巨大な燭台のようなものが吊り下げられているようだった。それが周囲を照らしだしているのだが、床には真っ赤な織物のようなものが一面に敷き詰められており、土足のままで入ることがためらわれた。だが草鞋を脱ぐにも肝心の土間が見当たらない。正面には複数の扉が見え、2階部分には廊下がむき出しではりだしていた。ちょうど手すりのついた縁側が高い位置についているという格好だ。そしてその廊下へは部屋の左右にある階段から昇ることができるようであった。周囲をぐるりと見まわすと、この部屋はいくつかの別の部屋や廊下へつながっている様子が見てとれた。してみるとやはりここは玄関のような役割をはたしているものらしい。
それにしてもここでじっとしていても埒があかない。十兵衛は草鞋を脱いで左手に持ち、部屋の中央まで歩きながら周囲に呼びかけた。
「誰かおられぬか〜! 拙者は怪しいものではござらんぞ〜! 誰かおられるなら顔を見せてはいただけぬか〜!」
すると十兵衛の研ぎ澄まされた感覚が背後にわずかな人の気配を感じ取った。十兵衛がその気配の方を振りかえると、影が廊下の暗がりへ消える姿がちらりと見えた。
「あいや待たれよ!」
十兵衛がその扉の方へ呼びかけると、数秒の沈黙の後、観念したようにその人影は部屋の中へ姿を現した。十兵衛は早速その人影に話しかけた。
「拙者、けして怪しいものではござらぬ。この霧に道に迷って難儀していたらこの屋敷を見つけたのだ――」
そこでできれば一晩の宿を所望したい、と続けようとした十兵衛はその影がはっきりと明かりに照らされた姿に絶句した。そこにいたのは見たこともない奇天烈な服装に身を包んだ妙齢の娘がいたのだ。――それも黄金色に輝く髪と青い透き通った瞳を持った娘がだ。
「Who? Who are you? Why did you come here?」
娘はおびえた表情で聞いたこともない不思議な言葉で十兵衛に語りかけてきた。
ここで十兵衛は以前噂に聞いた話を思いだした。なんでも遠い異国から来た南蛮人というものは奇妙な服と言葉を持ち、天狗のような長い鼻で色のついた髪や目をしているという話だ。そういえばこの娘も心なしか鼻が高いようだ。してみるとこの娘も南蛮人という奴なのだろう。それで建物の作りが見なれないものなのも合点がいく。
しかし――それがわかったところで問題は何も解決していない。相手の喋る言葉が理解できなければ宿を頼むことも道を聞くこともできない。
十兵衛が困惑して黙っていると、再び娘が語りかけてきた。今回はやはりおびえた表情ながらもいささか語調が強くなっている。
「You should not stay here. Get out now!」
娘がしきりに十兵衛が先程入ってきた玄関の方を指差していることから、どうやら出ていけと言っているらしい。しかし、それにしてもこの娘の表情が気にかかる。何をそんなにおびえているのだろう。それにどこか焦っているようにも見える。だが、身振り手ぶりでも意思の疎通ができそうなのは幸いだ。
十兵衛は身振りを交えながら娘に語りかけた。
「拙者も、できることなら、ここを、出たい。だが、霧で、道が、わからなくなった。できれば、今晩は、ここで、泊めてもらいたい」
「Whm……What are you doing? What does your strange dance mean?」
娘は美しい眉を寄せて顔をしかめた。あまり意味が伝わっていないようだ。十兵衛は再び身振りを交えて娘に語りかけた。
「だから、拙者は、道に迷って、ここを出られないのだ。一晩でよいので、ここに泊めてくれまいか」
十兵衛が最後に腕を枕にする仕草をしたとたん、娘は十兵衛の言わんとするところを察したのか、突然血相を変えて叫びだした。
「No! NoNoNoNoNo!! You must leave here as early as you can! Harry! Harry up!!」
そして娘は強引に十兵衛の手を取り、引きずるように玄関へ導こうとした。
「こ、これ、よさんか。拙者はただ日が昇るまで夜露をしのぎたいだけじゃ。泊めてくれるのであれば別にこの玄関でもかまわん。少しは話を聞かんか」
ここで娘の手をひねり無理矢理言うことを聞かせるのはたやすいことであったが、何の罪もない娘を力づくで従わせることは十兵衛にはためらわれた。そのため十兵衛は少しばかり抵抗しながらも結局玄関先まで娘に連れていかれてしまった。
「Don't come again.And please forget visiting here」
「娘さん、どうしても考え直してはもらえぬか――」
「――Bye」
そして娘が十兵衛の鼻先で扉を閉めようとしたその時、十兵衛の耳に獣のうなり声のようなものがとびこんできた。それも、屋内からだ。
「むっ」
とっさに反応した十兵衛は閉じかけた扉を強引に開き、娘を押しのけて中に入った。そして刀の柄に手をかけながら注意深く四方を見渡した。すると左正面に位置する階段の上に影が見えた。
そこにいたのは見たこともないような怪物であった。身の丈はおそらく9尺に達する巨躯であり、熊のように全身が毛で覆われている。しかもその上には恐らくは南蛮人のものであろう奇妙な衣服を身にまとっていおり、さらにその巨大な体の上には狛犬のような頭が乗っている。唇の間から飛び出ている牙が燭台の明かりにぬらぬらと光り凶悪な面構えをさらに迫力あるものにしている。
――これが、鬼というものか。初めて見るがなんという恐ろしげな姿よ。
十兵衛はちらりと傍らの娘を見やった。不安気に十兵衛の顔を見上げている。かわいそうに、この娘は鬼に囚われていたのだろう。そしてけなげにも十兵衛が鬼に見つかって殺されないように早くここを立ち去らせようとしたのに違いない。自分の身よりも会ったばかりの他人を心配するとは感心な娘だ。
十兵衛は言葉は通じないとわかってはいたが、娘に微笑みかけた。
「安心めされよ。この化け物は拙者が成敗してくれる」
そして鬼の方へ向き直り、刀を抜いた。すると階段を降りてきていた鬼はぎくりとその歩みを止めた。
「Wait! He is my husband! Don't hurt him!!」
娘は十兵衛の腕にすがり、叫びだした。十兵衛では鬼には勝てないと見て逃げるように言っているのだろう。見た目から言えば、巨大な妖怪とこんな老人では勝負にならないと考えるのも無理はない。だが十兵衛はただの老人などでは断じてないのだ。
「この柳生十兵衛、老いたりとはいえ物の怪ごときに遅れはとらぬわ! さあっ、かかってこい! 新陰流の真髄、とくと味あわせてくれる!」
十兵衛は娘の手を振り払い、鬼に向かって正眼に構えた。同時に十兵衛の全身から目に見えそうなほどの闘気があふれだす。そこには既に今までの柔和な面持ちの老人の姿はなく、剣の道を歩み続け、剣に己の全てを捧げてきた一人の侍の姿があった。
鬼は十兵衛の迫力に押されたのか、階段下から動こうとせず、そこから猛獣がうなっているような声で言葉を発した。
「I guess that you want to kill me. But I don't want to fight. Please put up your sword.」
「む、こやつ人語を解するのか。面妖な」
十兵衛は一瞬眉をひそめたが、構えを崩さずにじりじりとすり足で間合いをつめていく。
距離を縮めながら十兵衛は冷静に鬼を観察した。実戦において敵の戦力を見誤ることは即ち死につながる。
まずは丸太のような手足。巨大な四肢からの打撃はそれだけで十分な脅威だ。だが、それ以上に危険なのは爪と牙だ。おそらくわずかに引っ掛けられただけでも骨ごともっていかれるだろう。つまり、相手は知恵を持った猛獣というわけだ。
――攻撃は受けずに避けるしかあるまい。理想は一撃で急所をしとめることだが、はたしてそこまで踏み込めるか? 間合いは奴の方がやや広い。無理をすると危険かもしれん。
十兵衛は鬼の間合いのぎりぎりまで近づいて止まった。あと一歩、踏み出せば十兵衛の間合いでもある。何か必死の形相で語りかけてきていた鬼も、十兵衛に聞く気が全くないという現実を理解したのか、低いうなり声をあげながらいつでも襲いかかれる体勢で身構えている。
そのまま一触即発の状態が数秒間続いた。時間が止まったかと錯覚するような均衡状態を先に崩したのは、緊張に耐え切れなくなった鬼だった。
「UGAAAAAAAAAAAAA!!」
鬼の凶暴な右腕が弧を描いて十兵衛の頭部を襲う。予想よりも、疾い。
――だが軌道が単純すぎる!!
「けりゃああああっ!」
一瞬、腰を落として沈み込んだ十兵衛の頭の上を数本の髪の毛をかすめとりながら鬼の腕が通りすぎる。と同時に烈迫の気合と共に切り上げた十兵衛の刀が鬼の伸びきった右腕をとらえた。
「NOOOOOOOOOOOO!!」
鬼の絶叫と共に鬼の右腕の肘から先が血しぶきをまき散らしながらくるりと宙を舞う。鬼は切られた右腕を左腕で押さえ、がっくりと膝を落とし苦悶の表情を浮かべている。だが、ここで十兵衛は膝立ちの状態からでは踏み込みが甘くなるのを嫌い、そのまま仕止めにかからずに一歩退いて立ちあがった。窮鼠猫噛むの言葉もあるように中途半端に追い詰めると思わぬ反撃を受けることがある。確実に、着実に、葬り去るのだ。
どさり、鬼の右腕がにぶい音を立てて床に落ちる。もはや鬼は闘う気力は残っていないらしく、座り込んだまま恐怖と哀願のないまざったようななんとも言えない表情で十兵衛を見つめるだけだ。もはや勝負は決していた。
「せめてもの慈悲だ。苦しまぬようこの一撃で終わらせてくれよう」
十兵衛は愛刀を正眼から上段へ構えた。この刀が下りる時は鬼の首と胴が分かれる時だ。鬼の目が大きく見開かれる。
「せいりゃあああっっ!!」
据え物切りならば鉄の兜でさえ真二つにする十兵衛の一刀が振り下ろされた。肉を絶ち斬る確かな手応えと共に刀を振り下ろしきった十兵衛は、しかし、その目に映るものが信じられなかった。
「ば、馬鹿な! なぜこんな――」
「Run……away……Da……rin……」
十兵衛の目の前には鬼をかばい、袈裟斬りに背を割られた娘の姿があった。娘は鬼と目が合うと末期の力を振り絞って微笑み、そのまま力を失い息絶えた。
「Oh――Oh―God――」
鬼はしばし何ごとかをうわごとのように呟きながら娘の亡骸を抱きしめていたが、やがて娘の亡骸を愛しげにゆっくりと床に寝かせ、すっくと立ちあがった。そして、この世のものとも思えぬ叫びが部屋全体に響き渡った。
「――――――――――――!!」
鬼は叫び声をあげつつ残った左腕で助けるはずの娘を斬った衝撃から立ち直っていない十兵衛へと襲いかかった。
しかし、十兵衛が我を失っていても十兵衛の肉体はそれに反応した。幾度となくくぐってきた死線と数十年間繰り返されてきた稽古によって肉体の一片にまで刻み込まれた闘争本能が、鬼の必殺の一撃を避けさせた。
とっさに十兵衛は右側にすり抜けながら鬼の胴を薙いでいた。そしてさらに反撃に転じようと身を翻した鬼の喉笛を突いた。十兵衛の突きは吸いこまれるように鬼の喉を貫き、刀の切っ先は延髄を刺し貫き後頭部へ突き抜けた。
「GU……AAO……」
十兵衛が刀を引き抜くと、鬼は血の泡を吐きながらどうと娘の屍体の上に崩れ落ちた。
「これで――良かったのか?」
息絶えた二つの死体を前に十兵衛は血刀をぶら下げたまま立ち尽くした。すると何の前触れもなく鬼の体から突然煙が立ち昇り始めた。
驚く十兵衛の前で鬼の体はみるみる内に縮んでいき、やがてそれは娘と同じく金の髪と青い目を持った美しい青年の死体へと変貌を遂げた。
「!!」
十兵衛は予想外の出来事に声も出なかった。頭の中に嫌な想像が浮かぶ。死んで元の姿に戻ったというのなら、自分が斬ったのは鬼ではなかったのではないのか。だとすれば自分は誤解で罪もない人間を殺めてしまったのではないのか。もしそうならば――取り返しのつかないことをしてしまった。
大きく深呼吸をして呼吸を整えた十兵衛は刀を振って血ぶるいをし、刀を鞘に収めた。そして折り重なった死体を並べて寝かせ、開きっぱなしになっていたまぶたを閉じさせた。
すまぬ。必ず供養してやるからな。
十兵衛は並んだ死体に向かって合掌した。
そして十兵衛は玄関の扉まで移動し、座って壁にもたれかかった。埋めてやるにしても何をするにしてもまずは日が昇ってからだ。だが、かといって二人の寝所で我が物顔で寝ることは十兵衛にははばかられたためだ。
いろいろ有りすぎて疲れたわい……
目をつむった十兵衛は間もなく舟をこぎだし、やがて深い眠りへと落ちていった。
ちゅんちゅんちゅんちゅん。
小鳥のさえずりが十兵衛の耳をくすぐる。十兵衛は二、三度眉をぴくぴくと動かすと、大きなくしゃみをした。
「ふあっくしょいっっ!」
自分のくしゃみで目をさました十兵衛は鼻をすすりながら周囲を見まわした。そして徐々に意識がはっきりするにつれ、自分の置かれている状況の奇妙さが頭に入ってくる。混乱した十兵衛は思わず叫んだ。
「な、なんだこれは!!」
昨日は確かに南蛮人の家の玄関の壁に寄りかかって寝たはずだ。だが、今は何故か大きな木の根元にいる。それどころか周囲には木々しかなく、家のようなものなどどこにも見えない。無論二人の死体もどこにもない。何もかもがなくなってしまっていた。
――悪い夢でも見たということか?
だが、夢にしては昨日の記憶ははっきりしすぎている。まだ手には二人を斬った時の手応えさえ残っている気がする。あれが現実でなかったとはとても信じられない。
その時、十兵衛の腹が切ない音を立てた。そういえば昨日の昼に茶店で一服して以来何も口にしていない。今まで忘れていたのだが、意識しはじめると十兵衛は急に空腹を感じるようになった。
「悪い夢をみたか、はたまた狐に化かされたか……霧も晴れたことでもあるし、いずれにせよこうしていても仕方あるまい」
十兵衛は独り言を自分に言い聞かせるようにつぶやき、すっきりしないながらもその場を後に歩き出した。
そして山中をさまようこと数刻、日が頭上にさしかかる頃、十兵衛はついに街道に戻ることに成功した。そして街道沿いに歩くとすぐに山を抜け、人里へと出た。そこは意外なことに山に入る前に立ち寄った茶店のすぐ近くであった。知らず知らずに街道を逆向きに戻っていたようだ。
「おや、旦那は――」
茶店の主人は十兵衛の姿を見て不審気に声をかけた。とっくに通りすぎたはずの旅人が舞い戻ってきたのだから無理もない。決まりの悪い十兵衛は口の中でむにゃむにゃとあいまいな返事をしてさっさと茶店の椅子に腰かけた。
店の奥で茶をいれて戻ってきた主人は湯のみを机に置きながら十兵衛に話しかけた。
「いったいどうなすったんです、旦那。狐にでも化かされましたか」
「そんなところだ」
十兵衛は短く答え、なおも質問を続けようとする主人をさえぎるように注文した。
「時に主人。拙者はひどく腹が減っておる。何かすぐに食べられるものがあればもらいたいのだが」
「へぇ、うどんぐらいなら用意できますが」
「頼む」
注文を受けた主人が奥に引っ込む。十兵衛が茶をすすっていると、ほどなく盆に丼を乗せた主人が戻ってきた。
「お待ちどうさまです」
主人の持ってきたうどんは、つゆに麺が入っており、その上に油揚げと刻み葱があるだけという簡素なものだった。十兵衛の好きな関西の透明なつゆではなく関東の黒いつゆだったが、こんなところでまともに食べるものがあるだけでも幸運だ。文句を言っては罰があたる。
思った以上に腹が減っていたのか、十兵衛は湯気の立ち昇るうどんをみるみる内に平らげた。そして最後に醤油味のつゆを飲み干すと丼を机に置き、ほうっと大きく一息ついて言った。
「うむ、やはりな」
「はぁ、なにがでございますか?」
適当に相槌をうった主人に十兵衛は言った。
「やはり関東の狐は後味が悪い」
<終幕>
あとがき
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