略歴年表

     
昭和27(1952)
神戸商船大学 創立
昭和28(1953)
神戸商船大学硬式野球部 創部
昭和30(1955)
「阪神大学野球連盟」 発足

6月3日、阪急西宮球場にて、甲南大学、大阪商業大学、神戸商船大学の3大学によるリーグ戦が開始
昭和38(1963)
近畿地区国立大学体育大会 準優勝
昭和43(1968)
阪神大学野球連盟2部リーグ制を編成 2部リーグに降格
昭和52(1977)
阪神大学野球連盟2部リーグ優勝 入れ替え戦により2部リーグに残留
平成 6(1994)
阪神大学野球連盟3部リーグ制を編成 3部リーグに降格
平成15(2003)
10月 神戸大学と神戸商船大学が統合 
     神戸大学海事科学部を設置

神戸商船大学体育会クラブの大半が統合または廃部していく中で、活動継続を決意。
大学内において様々な議論がなされた結果、神戸大学体育会所属クラブとしての活動継続が認められる。
平成16(2004)
連盟登録名称を神戸商船大学野球部から
神戸大学海事科学部硬式野球部に改称
平成17(2005)
神戸大学海事科学部硬式野球部OB会 発足


野球部のあゆみ   写真集

「阪神大学野球50年の歩み」より抜粋

 神戸商船大学は、昭和27年(1952年)5月26日に設置され、発足当時は、商船学部航海科および機関科各60名の1学年120名であった。初代学長の大羽真治氏は開学式典の式辞の中で「教養豊かにして国際性に富み、祖国の運命を双肩に担いうる、心身共に健全な海洋人を育成したい」とその決意を述べている。

 昭和28年(1953年)4月、2期生が入学し、学生数が240名に倍増したことに伴い、運動部を中心としたクラブが相次いで発足した。こうした中、わが硬式野球部は、部長の岩永道臣教官、監督の吉村立成氏のもと、15〜16名で発足された。初の対外試合は大阪外大と同大学のグラウンドで行って惜敗している。

 昭和30年(1955年)、神戸商船大、甲南大、大阪商大の3大学で阪神大学野球連盟を発足。参戦直前のわが部の様子を大学新聞では次のように報じている。 『連戦連敗の野球部では昨年の近畿地区大学体育大会における対和大戦に好成績をおさめ部としてやっと自信をつなぎとめ本年ははげしい練習をつんでいる。<中略>投手力はドロップを武器とする小松、速球の友近、球道の変化を誇る岡野の3人による継投策に頼っている。内野の守備はまだまだの観があり。打力ももう一歩というところ。』

 創部からおよそ10年後の昭和37年(1962年)、多田勝氏(OB11期生)によると、当時の阪神大学野球連盟は5大学で争われ、チーム成績は、大阪商大、甲南大、桃山学院大、神戸商船大、天理大の順で4位、5位が混戦模様であった。また試合場所は、西宮球場では行われず、奈良の奈良市営球場で最も多くの試合が行われ、その他に、青木の川崎重工野球場、箕面の野球場、大阪南の中百舌鳥球場、八尾の山本球場といった多数の球場が使用され、交通費でパンク状態であったそうである。さらに当時の練習については、主将を中心に行っていて、理論だった方法は未熟であり、時々、服部行男技官(後に監督に就任)がノックをしてくれる程度あった。またグラウンドは、石ころだらけで、スライディングをすると大変なことになるような状態であったが、楽しく、面白く野球ができることが最大の喜びであった。

 昭和48年(1973年)に、岩永道臣教官から緒方一彦教官へと部長が引き継がれる。その4年後の昭和52年度(1977年)春季リーグ戦にて、初の二部優勝を果たす。優勝を伝える第一報の電話は前監督の吉村立成氏が受けた。そして、追手門学院大との1、2部入れ替え戦、1回戦でまさに勝っていた試合を2−3で落す。続く2回戦も4−6と惜敗し、1部昇格の夢は果たせなかった。優勝時のメンバーは、服部行男監督、辻啓介コーチのもと、中村俊輔主将、江崎泉、八頭司良二、久永一男ら4年生が中心であった。また当時、服部行男監督は体調を崩されていたにも関わらず、グランドに姿をみせ続け、優勝が決まった日、無理にお酒を飲まれていた姿があった。わが硬式野球部の歴史において、服部行男監督の貢献は特筆に値すべきものである。

 その後、優勝からは遠ざかっており、わが部の戦績はさえない状況にある。この背景には、@本学では、学生数が少ないにも関わらず、多くの運動クラブが盛んな活動をしており、例年、部員数が不足がちとなる。Aさらに秋季リーグ戦では、乗船実習のため、レギュラー選手の1部が出場できず、戦力の低下を余儀なくされる。などの原因がある。 平成2年(1990年)、緒方一彦教官から西田修身教官へと部長が引き継がれる。そして神戸大学との統合のため、平成15年度(2003年)秋季リーグ戦が、神戸商船大学野球部としての最後の出場となった。最終試合は、10月15日にあじさい球場にて行われ、大阪電通大に4−3で勝利した。リーグ戦の結果は、3勝9敗2分の6位であったが、3部ベストナインに平野勝久(捕手)、敢闘賞に関原正樹の2名が選出され、50年間の幕を閉じた。

 平成15年(2003年)10月、神戸商船大学は、「海に開かれた総合大学」としてさらなる発展を目指し、神戸大学と統合。神戸大学海事科学部として新たなスタートを切るものの、統合後の課外活動団体については、原則として活動内容の種別ごとに一本化を図る方針が当初採られた。このため、わが部は、一時、廃部の危機に陥ったが、その後、学内において様々な議論がなされ、最終的に、西田修身学部長(第3代野球部長)をはじめ、多くの方々のご尽力により、神戸大学海事科学部硬式野球部として活動を継続することとなった。

 そして平成16年(2004年)、神戸大学海事科学部硬式野球部として、15名(4回生4名、3回生5名、2回生6名)で活動を開始。初の公式戦は、3月29日三木市営球場にて行われ、摂南大に0−10(6回コールドゲーム)と散々な結果であった。なお平成16年度の戦績は、春季リーグ戦5位(2勝8敗)、秋季リーグ戦6位(0勝10敗)と不甲斐ないスタートとなったが、秋季リーグ戦にて、塚田慎一が3部首位打者とベストナイン(外野手)に輝き、昨年秋季に引き続き平野勝久がベストナイン(捕手)に選出された。


クラブ発足当時の状況

「神戸商船大学50周年記念誌」より抜粋

 昭和28年春、1、2年生で硬式野球部が15〜16名で発足した。初の対外試合は大阪外大と同大学グラウンドで行って惜敗した。野球部長は岩永道臣教官、監督は吉村立成氏であった。発足当時、財政難のために体育教室で用具一式を買って貰い、それを借用するということもあった。

 30年、甲南大学で、商船大、甲南大、大阪商大、天理大の4者で協議し「阪神大学リーグ」を結成し、春秋にリーグ戦を行う事を決定した。当時海岸グランドをラグビー部と共に使用していたので、打球がラグビー部員に当り、怒ってボールを海に投げ込まれることなどもあった。

 打球がファウル・ボールとなり右側のポンドに落ちこむと、バッティングの技術よりも、まずボールが惜しいという気持ちが先行して「しっかり前へ打て」と叱声がとんだ。また快心の当りで、右翼後方の防波堤をオーバーしてもほめられることはなく、同様の気持ちが潜在していたのであろう「ナイス・バッティング」の声は聞かれなかった。

 当時、運動部の総予算は20万円程度で、各部から2名(大抵キャプテン・マネージャー)が出席して放課後開き、平素の友人もあい敵対して、熱っぽい雰囲気で朝の4時ごろまでその分配額について真剣に討議したものである。野球部は「部の存続を認めた以上、部の必要経費の度合いによって予算を配分すべし」という理由に他部の同意が得られず、結局ラグビー部の主張する「前年度対外試合の実績に応じて配分する」ことで決定された。結果はラグビー部8万円程度、野球部5万円程度であった。

 チーム強化のため早稲田OBの鍛冶川氏、法政OBの川重野球部の坂東氏、私立神港商高の監督などを迎えたが、予算のため短時日しか指導をうけることができなかった。当時の球場は西宮球場で、朝日新聞と阪急電鉄が後援し、入場料は一般50円、学生20円であった。
 38年、近畿地区国立大学体育大会には、和大に勝ち、大阪学芸大に勝ち、決勝に進んで京大に対したが、2対0で敗れた。この大会時の打率は3番三谷基一郎は4割、4番岡本典雄は6割、5番松岡昭二は5割であった。

 第2回のこの大会をめざして部は6時起床、芦屋の海岸までランニングを行った。チーム・ワークと不屈の精神の養成と、全員にこの大会にのぞむ決意とを分かって貰うためのものであった。練習も1日6時間のトレーニングを真夏の40度の炎天下で行い、毎夜寮庭でバット・スィングを続け、第1回戦に神戸大学に4対1で勝った。今でも当時のメンバーが集まると、あの時の燃えるような情熱の試合に話がはずむのである。


神戸商船大学開学当時(昭和27年)


海事科学部硬式野球部発足(平成16年4月)

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