『すぎかえる』表紙美術館・作品展示室

ハミルトン亭の迷惑天使

武村 真

プロローグ

アラリア大陸。その大陸はそう呼ばれていた。そこでは人間、天使、魔族、あらゆる種族が住み、勢力を拮抗している。どの種族にも国という概念があまり発達せず、争いが小競り合いですんでいるのが救いではある。

だが、文明が発達していないわけではない。この大都ウルハスは、町を十字に走る河川を使った輸送が発達しており、まわりを森と、その中に多くある泉に囲まれているため、森と泉の都とも言われる。

その大都ウルハスの南東部、いわゆる労働者達の住まいが立ち並ぶ地域のメインストリートから一本道を外れたところにその宿はあった。

ハミルトン亭。最近、変わり者が集まると評判の宿屋である。

1 権天使ピオーネ

彼女は、花を眺めるのが好きだった。理由は簡単だ。花が美しいからだ。美しいものを嫌いな者などいない、というのが彼女の哲学でもある。

だから、長期に滞在しているこの宿の2号室――自分の部屋だ――にはウルハスの商店街で買ってきた花を飾ってあるし、亭主も花好きなため、1階の食堂にも、上品に花が飾ってある。

彼女はその日も朝早く起きて、手早く身なりを整えると朝食をとろうと部屋を出て、階段を下りた。残念ながらサービスではないが、この宿の食事は少年が作っているとは思えないほどいい味をしている。食事の前に顔を洗おうと思い、洗面台に向かうと、共同の洗面台には先客がいた。

「おはようございます」

彼女は先客に挨拶し、自分もとなりに並んで鏡に向かった。汲んである水で手早く顔を洗い、歯を磨くと、自慢の金色の髪に櫛を入れる。誰に見せるわけではないが、身だしなみを整えるということは毎日を生きていく上で当然のことだ。それも彼女の、いわば人生哲学だった。

が、鏡に映ったとなりの男はどう取り繕っても、身だしなみが整っているとは言いがたかった。

ぼさぼさの金髪を梳かそうともせず、美しいだろう碧眼はとてつもなく眠たげに見える。顔自体は整っている。磨けば光る原石、といったところか。だが、原石は磨かれない限り石ころに過ぎない。

長いことこの宿に滞在しているが、この男は初めて見る顔だった。かといって、一見客でもないようだ。一見客はこの宿にあまり来ない。どちらかというと、夜の食堂で成り立っている。

「お先」

男は瞼をこすりながら、ふらふらとタオルを首にかけて食堂の方へと歩いていった。

そのあまりのだらしなさに一瞬呆然としてしまったが、すぐに気を取りなおして鏡を見つめる。

丁寧に櫛を入れた長めの金髪を紐で縛り、緑色の瞳を大きく開く。自分の年齢は20歳を過ぎた程度に見られるはずだ。もちろん、実年齢はそうではない。背中に生えた、大きな純白の翼が、自分を引き締めてくれる。

「さ、今日もがんばりますか」

彼女――権天使ピオーネ――は鏡の自分に向かって呟いた。

ピオーネが食堂のテーブルに着くと、亭主であるミレアが声をかけてきた。ライトブルーの髪が美しい女性である。借金取りに狙われていて、ピオーネも何度かチンピラを説得したことがある。そのたびになんとかしてやりたいと思ってきた。しかし、仮にも天使が人間の法に逆らうわけにはいかない。彼女の借金は合法的なものなのだから。

だが、布教から戻ってきてみると、その問題はきれいに解決しているようだ。恐らくは―――

「あ〜。腹減った〜。なあミレア、花食っていいか?」

「だめです」

恐らくは、自分の向かい側に突っ伏しながら、アホなことを言ってミレアを苦笑させているこの、人間の男が解決したのだろう。布教で宿を開けている間に。

「マーク、この花ならただだろ?炒めてくれ」

「兄ちゃん、止めたほうがいいよ…」

ミレアの弟で、料理担当のマークにまで苦笑されている。そのあまりにも憐れな様子に、ピオーネはその高い良心のおもむくまま、声をかけた。

「朝ご飯なら、わたしがご馳走してあげますよ」

「ほんとか?」

がばり、と身を起こす男。ピオーネは極上の笑顔で頷いた。男は泣き出さんばかりに感激して、言ってきた。

「ありがとな!あんた天使みたいだ!」

「えっと、比喩のつもりだと思うのですが…」

言いにくそうに突っ込むピオーネ。すると、男ははっとしたように背中から生えているものに視線をやり、恐れを含んだ声で呟く。

「あんた…、まさか、コスプレマニアか?天使の真似とはまたマニアックな…」

「違います!」

青い顔をして言ってくる男に、たまらずピオーネは叫び返した。そこをミレアがフォローしてくる。

「レシウスさん、この町では天使はそれほど珍しくはないんですよ」

「そうなのか?」

「え、ええ。布教のために、大きな町には大勢が派遣されますから」

やや困惑しながらも答える。レシウスという名らしい男は、ようやく眼を見開いた。つまり、眠気がとんだのだろう。

「そりゃすまないな。俺は最近大陸に渡ってきたばっかりなんでな」

「なるほど。そうでしたか。この宿で暮らしているのですよね?わたしはピオーネ。布教のためにここに滞在している、権天使です」

「ふーん。俺はレシウス。ただのごろつきだ」

「その自己紹介はどうかと思いますが、とりあえずよろしくお願いします」

ぺこり、と頭を下げるピオーネ。座ったままで。

当然、がつん!と派手にテーブルにダメージを与えた。

「……」

レシウスの瞳が、また半眼になった。

権天使ピオーネ。人呼んで迷惑天使との、これが出会いだった。

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