ストリームエラー
夏のある休日、Kは下宿で机に向かっていた。Kは近くの川辺大学に通う大学生で、学内でも難関と噂される「ナニワ経済論」のテストを明日に控えていた。
「うーん、全然講義の内容を覚えていない…半分ぐらい寝てたしな。」
一応救済措置なのか、テスト前の講義では練習問題が配られているのだがさっぱりわからない。問題が分からないどころか問題文の意味すら分からないのだ。
「あの先生、話を聞いてると分かった気になるんだけど、実は何にも頭に残らないんだよな。困ったもんだ。」
授業ではコテコテの関西弁で簡単に分かり易く教えてくれるのだが、それが講義やテストの難しさとマッチしていないのだ。自分は分かっていると思い込み、渡された練習問題の中身を見て愕然としたのが昨日のKであった。今やっている問題はたしか講義では「まあ口ではなんとでも言えるさかい、やっぱここは札の厚さで勝負してもらわんと公平とは言えまへんやろ、という事やな。」というような説明だったはずだが、それがこの数式や専門用語の羅列とどう結びつくのか皆目見当がつかない。折りしも今日は記録的な猛暑で、冷房の故障しているKの部屋はサウナのような熱気に包まれていた。参考書を手に悪戦苦闘するごとに部屋の温度と湿度は上がっていき、狂ったように鳴く蝉の声が超音波のように聞こえて頭がくらくらしてくる。
「駄目だ!こう暑くちゃ解ける問題も解けやしない。ちょっと大学の図書館にでも涼みに行って、ついでに過去問も捜してこよう。」
Kは大学に着いたが、構内にはほとんど人影が無かった。Kは嫌な予感を覚えたが、案の定図書館は昼までで閉まっており、扉にはテスト期間中は昼までで閉館するとの張り紙が貼られていた。
「あ〜あと5分早く来てれば良かったのか。それにしてもなんだってここはテスト前にすぐに閉まっちゃうんだ?一番肝心な時にこれなんだから…」
着いていきなりやることがなくなったKだったが、これで帰るのは余りに馬鹿馬鹿しく、あの蒸し風呂に帰りたくないという気持ちもあってなんとなく構内を一人でうろついていた。
「そうだな…せっかくだから裏の川にでも寄って行くか。少しは涼みになるだろう。」
川辺大学は名前通りにその少し奥まった所にある講堂の裏に川が流れている。川といっても踝程度の深さしかない小川で、周囲をコンクリートで固められた何の変哲の無い川だが、大学と山の深い緑に隠されてあまり人が寄り付かず、初夏には蛍が飛んだりしてKのちょっとした和み場所となっていた。
「ふー。こんな川でも、やっぱり夏には気持ちいいな。」
その川には近くに小さな砂防ダムが作られており、そこから流れ落ちる水音は聞いているだけで周りの空気が涼しげになった気がした。蝉の音も心なしか部屋の中で聞いていた時とは違う心地よい調べに聞こえる。コンクリートの堤防の階段を下りて川に近付いていくと揺れ動く水面が夏の太陽の強い光を反射して見るからに気持ち良さそうだ。あまり人に知られていない場所とはいえ、夏にはバーベキューでもするためか、山側の向こう岸に野外用の白い机が置かれているのが見えた。それに気付いたKは水面から顔を出している平らな石を伝って山側の向こう岸に渡り、しばらくその机に手をついて蝉の声を聞きながら流れる川を眺めていたが、あいにくそこは日なたになっており、火照ったKはやがて立ち上がって川のほうへ歩き出し、ズボンを膝下まで捲り上げて川の中に踏み入った。
「スリッパを履いてきたのは正解だったな。」
足で冷たい水を掻き分けて歩くと全身に篭った熱が発散していくようで気持ちがいい。先程飛び越してきた石の横を通る時、Kは少し世界が逆転したような不思議な気分を感じた。そのまま砂防ダムの前まで行き、目を閉じて水音に耳を澄ます。しばらくそうやって涼んだ後、さあ帰ろうかと振り返ったKの視界に、川辺で遊んでいる少女の姿が飛び込んできた。
「あんな小さい子がいるのは珍しいな…」
表の道路からでもこの川には入れるが、深い緑に隠されて外からはここは見えない。道路から森に降りる道を探検していてここに行き着いたのか。
「女の子が、一人で?」
やや腑に落ちない気分でKは川辺に上がり、その少女をよく見ようと近付いていった。するとずっと俯いて川面を見つめていた少女がふと顔を上げてこちらを見た。年恰好は小学校に入ったばかりという所だろうか、そういえば小学校はもう休みなんだな等と考えながら、目が合ってしまった以上逃げるように立ち去るのも気が引けたKは少女の側によって声をかけた。
「やあ、どうも、こんにちは。」
少女はこちらを見つめたまま微動だにしない。
「え〜と、どうやってここに来たの?帰り道は分かる?」
またしても少女は無言でこちらを見つめている。間が持たなくなったKは慌てて質問を重ねた。
「何を見ていたの?」
「溜まり…」
「溜まり?」
言われてKが少女の前の水面を見ると、そこはちょうど川の流れから取り残された溜まりになっており、透き通った川の水とは違う澱んだ水が溜まっていて、底の方には腐って変色した木の実や葉っぱが沈んでいた。
「ああ、何か汚いねこりゃ。触らない方が良いと思うよ。」
「どうして、ここだけ汚いの?」
「ここにだけ水の流れが来てないからね。汚れが洗い流されないでずっと溜まってしまってるんだよ。」
少女の質問に答えながらKは大学の講義で、流通から取り残された地域は急速に貧しくなると教えられた事を思い出しながら一人でうなずいていた。
「ここも綺麗に出来る?」
厄介な事を言われたとKは一瞬思ったが、すぐに
「ああ、簡単だよ。」
といって、溜まりの周囲の石を動かし始めた。しばらくしてKが石の配置換えを終えると、川の流れが変わって外の澄んだ水が澱んだ溜まりに流入し、澱んだ水と底の堆積物を流し出していった。少女がその様子を目を丸くして見つめているうちに、数分ですっかり溜まりは洗い流され、日光を受けて光る澄んだ川の一部となっていた。
「すごいね…」
「いやいや、それほどでも。」
上手くいって満更でもないKに少女は
「あなたは、ここに何をしに来ていたの?」
と尋ねた。Kは小学生で「あなた」はないだろうと少し引いたが、よく考えてみれば初対面の相手に「お兄さん」等呼ばれるのも気色悪い話だと気を取り直し、
「ああ、僕はKっていうそこの川辺大学に通う学生で、まあちょっとテスト前の息抜きに涼みに来ててね…」
と言いながら腕時計を見て肝を潰した。夏の高い日に騙されていたが、既にテスト前に数時間の貴重な時間を浪費してしまった事をKの時計は示していた。
「…涼みに来てたんだけどちょっと居すぎたようだからもう帰るよ。君は自分で帰り道分かってる?」
と聞くと少女は首を横に振ったので、
「じゃあ大学の外まで送っていくよ。町に出れば一人で帰れるだろう?」
今度は少女はうなずき、Kの横を歩きだした。
「Kさんはテスト出来そうなんですか?」
「うう…痛いところをつくなあ。」
「じゃあ、自信ないんですか?」
「勉強始めたのが遅すぎたから…なにせ練習問題初めて開いたのが昨日の夜だからね。おまけに今日は過去問はとり損なうは川で時間を無駄にするはで…せめてもう一日あればまだなんとかなったかも知れないんだけどねえ。ちょっともう間に合いそうに無いなあ。」
「ごめんなさい…」
「あ、いやいや、別に君は悪くないよ本当に。」
こんな小さな子に愚痴を言ってしまった事に顔を赤らめながらKは慌てて訂正したが、その事で気を使ったのか少女はそれから押し黙ってしまった。
「Kさん。今日はありがとう、私の名前はLっていうの。」
「Lちゃんか…じゃあ、僕はこれで。Lちゃん、帰り道には気をつけてね。」
本来こういう場合はちゃんと家まで送り届けるか、最寄の交番まで連れて行くのが筋なのかも知れないが、Kも明日のテストのせいで焦っていたため薄情かなと思いつつも大学の前で少女に手を振った。
「また会おうね。」
「ああ、うん。またね。」
あいまいな返事をしながら、Kは多分もう会う事は無いだろうなと思っていた。自分は少女がどこの子かも知らないし、川にだって月に一回行くか行かないか。それが偶然重なる事はもう無いだろうと。