六月、六日
3
始業のチャイムが鳴って、一時間目が始まった。一時間目の授業は英語だった。予習は昨日の夜のうちにやっていたし、英語の先生は日付と出席番号が同じ生徒を当てるので、俺が当たる心配はなかった。だから、というわけでもないが、俺は窓から外を眺めていた。昨日の放課後、席替えをしたからこれまでは見えなかった景色が見られる。それが少し嬉しかった。五日前から降り続いている雨は未だ止む気配すら感じさせない。いくら梅雨とはいえ、さすがに降りすぎなんじゃないだろうか。運動場は水浸しで、たとえ晴れたとしても、しばらくは外で体育をできそうになかった。
授業に意識を戻してみると、先生は現在完了形の一つである『経験』について説明していた。特に難しい話をしているわけではないらしい。〜に行ったことがある、という場合はgoneではなくbeenを使うのが重要とのことだった。
しかし、退屈な授業ほど時間が長く感じられるものはない。先生には悪いが、どうも授業に集中できなかった。
今頃、兼田は何をしているんだろう?まだ竹内先生と話してるんだろうか?
俺はぼんやりとそんなことを考えた。そして、普段の兼田が何をしているのかを全く知らない、ということに気がついた。朝と放課後には毎日のように会っているにもかかわらず、だ。そんなもんだ、と言われればその通りなんだろうが・・・。
「羽山、問二を訳してみろ」
いきなり先生に当てられて、俺は小さく飛び上がるくらい驚いた。慌てて教科書をめくる。ゆっくり立ち上がって俺は答えた。
「私は何度も京都を訪れたことがあります」
「良し。じゃあ、問三を木村」
答えることができて俺はほっと胸をなで下ろした。当たるはずがないと思っていると当たるのだろうか。もしかしたら、先生から見ると授業に集中していないのがバレバレだったのかもしれない。気をつけよう。
しかし、集中しようとして集中できるものでもなく、英語の授業中は集中力は散漫なままだった。
一時間目が終わった後の休み時間、俺は特にすることもなく席に着いていた。教室内は元気な生徒でいっぱいだ。三人で集まって話をしている生徒、黙々と読書をしている生徒、お菓子を仲良く友達と分けあっている生徒、他のクラスから来ている生徒、と色々だ。みんな楽しそうにしている。きっと本当に楽しいのだろう。俺も友達と騒ぐのは嫌いじゃない。だが、今はそんな気分になれなかった。どうも兼田のことが頭の中でちらついてしかたない。だから、周りが楽しそうに見えるほど、それとは対照的に兼田が可哀想に思えてしかたなかった。保健室で一人きりで、特に友達がいるようにも見えない兼田に、俺は同情に近い感情を覚えていた。おこがましいと思いながらも、そう思うのを止められなかった。
そんなことを考えたせいか、午前中の授業は全く集中できなかった。給食の時間になってようやくやる気が戻ってきた。給食の献立は揚げパンと春雨サラダと牛乳と蜜柑だった。好物が出ただけで気分が良くなるとは、何と安上がりな体だろう。便利な体だ。
そして、給食が終わった後の昼休み。俺は保健室に行ってみることにした。朝のことを思い出すと少し気まずかったが、いつまでも気にしていてもしかたない。ドアをノックして保健室に入ると、三年の女子が一人いて竹内先生と真剣な表情で話をしていた。邪魔をしては悪いと思って先生に目だけであいさつをした。それから唯一カーテンがかかっている一番奥のベッドのところに行く。「入るぞ」と小声で言ってからその中に入った。
「昼休みに来るなんて珍しいね」
どこかぼんやりした顔で兼田が言った。
「悪い。寝てたのか」
「ううん。お腹一杯になってぼーっとしてただけ」
「そうか。それならいいんだ」
特に何を話そうとは決めてなかったから、それ以上言うことがなくて俺は黙った。兼田も喋ろうとはしなかった。そのせいで、外の会話が少しだけ耳に届いた。どうやら昨日、ラブレターを渡してきたらしい。
「今、保健室に来てる人、昨日も昼に来てたよ。昨日はラブレターの渡し方の相談をしてたね。今の話を聞く限りじゃ昨日のうちに渡したみたいだ」
「へぇ。先生に相談する生徒ってけっこういるのか?」
悩み事を人に打ち明けようと思わない俺には少し理解し辛い話だ。
「割といるよ。女子が多いね」
「何か意外だな。保健室って怪我人しか来ないと思ってた」
「それは羽山くんが心身共に健康だからだよ。一日中ここにいると色んな人が来るのがわかるんだ。一年から三年まで男女の区別なくね」
「なるほど。竹内先生もそれなりに仕事してたのか」
怪我人の治療だけしてればいい楽な仕事と思っていたのに、なかなか大変らしい。保健の先生は一人しかいないし、もしかしたら学校で一番忙しいのかもしれなかった。
それからしばらくの間、兼田と話をしていたが、予鈴が鳴ったのを機に保健室を出ることにした。
午後の授業は美術だった。一学期の間は木彫りの鴨を作ることになっている。先生が見本で作った鴨は実に本物らしく見えた。俺のはまだまだ鴨には見えない。とりあえず頭から彫ってるんだが、完成にはほど遠い。他のクラスメイトの進行具合を見てみると、みんな俺より進んでいるようだった。それに焦ったわけではなかったが、手元が狂って彫刻刀で少し人さし指を切ってしまった。傷は浅いわりに血が思ったより出てきて、ジンジンと鈍い痛みが広がった。ポケットからティッシュを取りだして傷口を押さえると、俺は先生に保健室に行ってきます、と断ってから美術室を出た。
ノックをして保健室に入ると、竹内先生は机に着いて仕事をしていた。パソコンに向かって何かをしている。やはり仕事はそれなりにあるようだ。先生は人が入ってきたことに気がつくと、椅子を回転させてこっちを見た。
「どうしたの、羽山くん?放課後にはまだ早いと思うけど」
腕時計をちらっと見てから先生が言った。
「彫刻刀で指を切ったんですよ。消毒してください」
俺は右手を前につきだして、先生に見せた。
「それじゃあ、ちょっとしみると思うけど我慢してね」
先生はガーゼに消毒液を染みこませると、それを傷口に当てた。確かにしみるが、思ったほどではない。消毒が済むと絆創膏を貼って治療は終了した。用が済んだらさっさと美術室に戻らなければならない。俺は滞在時間わずか三分で保健室を去った。
美術室では出てきたときと同じようにみんな黙々と作業をしていた。俺は自分の席に着くと彫刻刀を手に取って鴨を彫ろうとした。だが、傷が痛んでしかたなかった。右手に目をやると、絆創膏に血がにじんでいた。
4
午後の授業が終わると、掃除の時間が始まった。椅子を机の上に上げて教室の後ろに下げる。用具入れからほうきを取りだすと、俺は掃き掃除を開始した。まず、教室の前半分を綺麗にする。教室の掃除当番は俺以外にも六人いる。一人あたりの分担はそれほど多くはなかった。ゴミを集めて捨てると、机を教室の前に移動させた。今度は後ろ半分を綺麗にする。それにしても、毎日掃除しているはずなのにどうしてこんなに汚れるんだろう。不思議だ。
掃除が終わって、俺は頬杖をついてぼんやりと廊下のほうを見るともなしに見ていた。ふと気づくと、入り口に他クラスの生徒が立っていた。じっと見ていたわけではなかったが、視界には入っていたので目が合ってしまった。目が合うと、そいつは驚いた顔をして、慌てて視線を逸らすとどこかに行った。たぶん自分のクラスに帰ったんだろう。このクラスの誰かに用があったんじゃないんだろうか?まぁ、俺には関係ないか。
それから五分くらい経ってから中村先生は教室に来た。手にプリントの束を持っている。
「このプリントは数学の先生からの宿題です。期限は明後日までだからみんながんばってね」
先生は嬉しそうな顔でプリントを配った。クラスのみんなは実にいやそうな顔をしている。宿題だされて喜ぶような生徒なんかいるわけない。
「それじゃあ、明日の連絡をします。明日の放課後は委員会活動があるから、各委員は決められた教室に行くようにね。時間割は変更なしだから。委員長、号令」
「起立、礼」
みんな口々に先生にさようならと言いながら教室を出て行く。俺は席に着いたままクラスメイトを眺めていた。兼田に渡す分のプリントはすでにもらっていた。いつもなら礼が終わるとすぐに保健室に向かっているんだが、今日はそんな気にならなかった。とりあえず机の中身を鞄に移しかえる。昼休みに行ったんだし、まぁ、少しくらい待たせてやってもいいだろう。そう決意すると、俺はトイレに行くことにした。トイレは教室から百メートルほど離れたところにある。教室を出ようとしたら、入り口で教室の中を覗いていた生徒と肩がぶつかった。すみません、と軽く謝ったが、そいつはよほど気になることが教室内にあるのか、全く気にしてないらしかった。どこかで見覚えがあったような気がしたので、トイレに行く途中で何となく振り返ってみたら、肩をぶつけた奴もこっちを見ていた。謝ったのに何か文句があるんだろうか?
少し気になったが、俺はトイレに入った。さっさと用を済まして教室に戻る。
そして、ふと机に目をやると俺の鞄が姿を消していた。