六月、六日
1
保健室の一番奥のベッドには、いつもと同じようにカーテンがかかっていた。俺はそれを確認すると、ほんの少しの安堵と軽い失望を覚えた。カーテンがかかっているということは、兼田が今もここにいるということだ。そのこと自体は素直に嬉しい。しかし、ここにいるということは、教室に行って授業を受ける気がないということでもある。それでは駄目なのだ。
でも、まぁ、これもいつものことなんだから気にしてもしかたがない、とも思う。第一、保健室登校を続けている奴を無理矢理教室に連れて行くわけにはいかないしな。とりあえず俺としては、自分に与えられた仕事を忠実にこなすだけだ。
「毎日お疲れさまだねぇ、羽山くん」
とっくの昔に顔なじみになっている竹内先生に声をかけられた。俺が保健室に朝と放課後、必ず訪れるようになってからすでに二ヶ月がたっている。保健の先生とはかなり親しくなっていた。
「もう慣れましたよ。毎日のことなんですから」
その声に少し皮肉な感じが混じっていたとしたら、それは確実に兼田に聞かせるために違いなかった。
「兼田、いますよね?」
「いるよ。たぶん起きてると思うけど」
最終確認は終了した。俺は「開けるぞ」と一言断ってからカーテンに手をかけて、ゆっくりとそれを開ける。ベッドにはいつものように兼田がいて、俺をその黒目がちな瞳で見ていた。
「羽山くんが来たってことは、もう放課後か」
「そうだ。もう放課後だよ。相変わらずだな、兼田は」
「何が相変わらずなの?」
「見た目と態度。健康そうじゃないか」
俺はそっけなく言った。
「見た目ほど健康ってわけじゃないけど」
血色のいい顔で言われてもあまり説得力はない。
「それで今日はどんな話を聞かせてくれるのかな?」
「残念ながら今日は話はないんだ」
「えぇー」
かなり不満そうな表情でかなり不満そうな声を兼田が出した。こいつの反応は見ていて実におもしろい。だから、ついついくだらない嘘をついてしまう。
「嘘だよ。話はちゃんとある。連絡事項としては、明日は平常授業で、放課後に委員会活動がある」
「委員会活動か。久しぶりだね」
「そうだな。ここ、座るぞ」
と言いつつ俺はベッドの端に腰をかける。ここまではいつも通りの予定調和だった。しかし、最初の頃に比べると、こいつもずいぶん人懐っこくなってきたもんだ、と思う。二ヶ月前なんて一言も口をきこうとしなかったからな。
保健室登校児の兼田は、この中学に入ったときからそれを続けているらしかった。俺は中三になって初めて兼田と同じクラスになったから詳しいことは知らない。そして、俺は朝と放課後に兼田の下を訪れていた。理由は簡単で、俺がクラスの保健委員をしているからだ。兼田と同じクラスの保健委員には特別な仕事が言い渡される。兼田への連絡係だ。朝は出欠の確認、放課後は明日の予定の連絡。本来なら、放課後は明日の予定を伝えるだけでいいんだが、俺はそれに加えて兼田と話をすることにしていた。もし、兼田の興味を引くような話ができれば、こいつも教室で授業を受けたりするかもしれないと思ったからだった。今のところ、こいつを楽しませるだけで成功した例しはないんだが・・・。
「今日の話は行方不明になった鞄の話だ」
「へぇ。それで?」
兼田は本当に楽しそうに話を聞いてくれる。俺としても話しがいがあるというものだ。
「とりあえず今日の朝から起きたことを順番に話そうか」
2
朝、登校してきたとき、まず保健室に足が向くようになったのはいつからだっただろう、と俺はふと考えた。四月頃は教室に寄ってから保健室に行っていたはずなんだが、今では兼田の出欠を確認した後で教室に行っている。別に兼田のことが気になるから、という訳ではなくて、そのほうが効率的だと気づいたからだ。だから、今日も今まで通り始業時間の十五分前に保健室に到着した。
コンコン、とノックをして保健室に入る。すると兼田は椅子に座って竹内先生と話をしていた。二人は俺だとわかると、俺を無視して話を続けた。
「それだけ話す元気があれば、授業に出れるんじゃないか?」
言葉にトゲがあるのが自分でも分かる。しかし、人を無視するような奴には皮肉の一つでも言ってやらなければ気がすまない。
「話ができても出席はできないんだよ」
兼田が俺のほうを向いて言った。
「そうか。まぁ、俺には関係ないことだしな」
俺はまだ無視されたことに少し怒っていた。言葉が自然ときつくなる。
「確かに関係ないけどさ・・・」
兼田がムッとした顔で言い返してきた。どこか寂しそうにも見える。そんな顔をされるとこっちが悪いことをしているみたいじゃないか。
「はい、はい。朝からケンカするんじゃない。気分が悪くなるでしょ」
竹内先生が俺たち二人を睨むようにして言った。それを引き際だと思い、俺は保健室を出ることにした。ドアに手をかけたとき、兼田が俺に声をかけた。その声はどこか弱々しかった。
「放課後、また来る?」
「あぁ」
俺は短くそう答えて、さっさと部屋を出た。教室がある三階まで上る足取りが重い。気分も同じくらい重かった。竹内先生の言ったとおりだ。朝からケンカなんかするもんじゃない。兼田のほうが七割以上悪いとはいえ、俺にも非がなかったとはいえない。少し反省しとこう。
教室に入って席に着くと、俺は机の上に突っ伏した。聞くともなしに周りの雑談が耳に入ってくる。
英語の予習やった?数学の宿題の答え教えて欲しいんだけど。理科の教科書貸して。このマンガおもしろかったよ。昨日、あのドラマ見た?などなど。
いつもと同じような会話がいつもと同じ場所で行われている。今日も、なべて世は事もなし、か。まぁ、平和なのは良いことだ。だが、この中の何人が兼田のことを気にしているだろうか?不意にそんな問いが思い浮かんだ。そんな自分に自分で驚く。たぶんさっきのことが関係してるんだろう。去り際に兼田があんな表情をするからつまらないことを思いつくんだ。俺はそう結論づけて、それ以上のことは考えないことにした。
それからしばらくしてチャイムが鳴ると、担任の中村先生が来た。朝のホームルームが始まる。
「みんな、おはよう。それじゃあ、出席をとります」
次々と名前が呼ばれていく。俺も名前を呼ばれたとき返事をした。結局、返事がなかったのは兼田だけだった。
「今日は特に変更はなし。連絡事項もなし。委員長、号令」
「起立、礼」
ホームルームが終わると、教室は再び喧騒に包まれた。俺はまだ教壇の上にいる中村先生に近寄って話しかけた。
「兼田は保健室に来てました」
「わかりました。毎日ありがとう」
伝えるべきことは伝えたので、俺は自分の席に戻った。周りは相変わらず喧しい。保健室の静けさとは比べものにならなかった。兼田はこの喧しさを知らずにこの中学校に通ってるわけか。それはそれで少し寂しいことなのかもしれなかった。だが、俺がそう思ったところで兼田が保健室登校を止めるわけがない、ということもわかっていた。